ふと、ニアは顔を上げ、締め切られた窓を見た。白く曇った空から、透明な滴がぽつりぽつりと落ちてくる。雨が降っているのかと、何の感慨もなくニアは再び俯いて、まっ白のピースを手に取った。外界から遮断されたこの部屋では、土の湿った匂いも草花が濡れる匂いも届かない。
 また暫くして、ニアが顔を上げた。今度は窓を見たのではない。彼は眼を閉じると、そっと動きを止め、耳を澄ませた。毛先一本動かさず、もしかしたら息さえも殺している彼の耳に、やがてパタパタと廊下を走る音と、3人分の話し声が滑り込んでくる。
「……ぅ、私まで怒られ……じゃない」
「……もさー、俺ら……て、花子が言い……ぺじゃね?」
「……さいぞ、マット。と……く着替え……濡れ……ぃか」
 正確には聞き取れずとも、ニアには誰が話しているのか、はっきりわかっていた。すぐに話し声は遠くなり、聞こえなくなる。ニアは音も立てずに立ち上がると、注意深く、扉を細く開け、そろりと顔を覗かせた。廊下には誰もいない。濡れた3人分の足跡があるだけだった。

 メロには自分にはない才覚があると、ニアは知っていた。ハウスの者は、職員でさえもみなメロに一目置いている。行動力に溢れ、カリスマ性を感じさせる彼は、子どもたちのリーダーだった。マットと花子はそんなメロを慕い、3人は大抵一緒に行動している。
「ニア」
 後ろからかけられた声に、彼はぴたりと動きを止めた。ピースを摘まんだままの指先は、ぴくりとも動かない。声を掛けた花子は、振り向かないニアに眉をひそめたものの、それを咎めることはしなかった。
「いまから庭でサッカーするんだけど、一緒にどう?」
「……私は、いいです」
「そう」
 花子は素っ気なく頷くと、くるりと背を向けて、駆けていった。彼女が立ち去ってから暫くして、ようやっとニアは大きく息を吐いた。右手でぎゅっと、胸のあたりを掴む。通常では考えられない程波打つ心臓は、痛いくらいだ。病人に紛う程青白い彼の頬には、ほんのりと朱が差している。
 花子が自主的に自分を誘いに来たわけではないことを、ニアは知っている。大方、ロジャーにでも言いつけられ、嫌々誘いに来たのだろう。彼女が自分のことを平素「気味の悪い青白い奴」と呼んでいることを、ニアは知っていた。それでも尚、ニアは花子が好きだった。遠くから姿を見るだけで、話している声を聞くだけで幸せだというのに、花子自ら声をかけてくれるだなんて! 幸せな我が身が恐いくらいだ。
 ニアは辺りに誰もいないことを確認すると、まだ途中のパズルを放り出し、一等お気に入りのロボットを引っ掴んだ。普段の彼からは想像のつかない程素早く立ち上がると、人気のない廊下を駆け、靴も履かずに外に飛び出した。誰かがその様子を見たのなら、きっと夢を見たとか、でなければお昼にミルクを飲みすぎたのだと思うに違いない。それほど、常の彼からはかけ離れた様子だった。
誰にも見つからないよう細心の注意を払い、ニアはそっと人目につかない木陰に潜むようにしゃがみこんだ。年の割りに小柄な彼の体は、大きな木にすっぽりと覆われ、見えなくなる。数分もしない内に、ニアが隠れる庭に何人かの子どもたちがやってきた。中心にいるのは、陽の光をたっぷりと吸い込んだ金髪を揺らすメロだ。黒いハーフパンツから覗く足が、ニアには到底真似できない様で、巧みにボールを操っている。
「そういや花子、ニアなんか誘ったのかよ」
 メロは器用にリフティングをしながら、咎めるように花子を見た。花子はムッと顔を歪め、腰に手を当ててわかり易く怒って見せた。
「だって、ロジャーがニアも誘ってやれって煩いのよ。私だって、好きであいつに声かけてないわ」
「ははっ、メロも花子もニアのこと嫌いすぎだろ」
「だってあいつ、自分が頭がいいからって感じ悪いじゃない。さっき声を掛けた時も、振り返りもしなかったんだから!」
 花子が自分の話をしている。それだけでニアは幸せだった。
その後、彼らはすぐにサッカーを始めた。花子はもうニアのことなど忘れてしまったかのように、楽しそうに笑っていた。

 

 それから暫くのことである。かの有名な殺人鬼との対決で名探偵が敗れたことにより、ニアはLを継ぐことになった。ニアにLの後継者の座を明け渡したメロは、その日のうちに荷物を纏めてハウスを出た。マットも花子も、何も知らされなかったらしい。噂話に花を咲かせる子どもたちの中で、ふたりだけがやけに静かだった。
 やがて、ニアもハウスを出なければいけなくなった。キラを追うには、イギリスよりもアメリカに拠点を置くべきだと判断した為である。ハウスを出て行くことについて、ニアは何の感情も抱かなかった。それは彼にとって生活する場所が変わるだけのことであり、何らかの影響も及ぼすものではない。荷造りはそう苦労もなく終わった。彼の部屋に溢れんばかりに散らばっていたおもちゃたちは、段ボール箱の中に行儀よく詰め込まれ、新天地へ旅立つのを待っている。
 ただひとつ気がかりだったのは、想いを寄せる少女のことだった。メロが出て行ってから、花子は目に見えて元気がないのだ。
 ニアは慎重だった。彼はいつだってその恋心をひた隠してきた。誰一人、自身の心に気がついた者はいないだろうと、ニアは確信していた。悟られるわけにはいかなかったのだ。なにしろ彼は、他でもない花子に嫌われている。嫌っている人間に好意を寄せられる不快感を彼は慮り、殊花子には絶対に胸の内を悟らせることのないよう行動してきた。
 故に、ニアが行動を起こすことを決めたことは、彼にとってまさに一世一代の決心と言って過言ではない。彼は誰もいない部屋で一人、緊張に波打つ胸を鎮めようと目を閉じた。シャツの上から左の胸を握りしめる。あまりにきつく握ったせいで、シャツが酷く縒れた。
 どれほどそうしていただろうか。実際には10数分と経っていないのだが、ニアにはまるで永遠とも思われる時が過ぎた頃、花子がやって来た。いつも共にいるマットはおらず、不機嫌な顔を隠そうともせずに、花子はニアを睨めつけた。暗い遊戯室は、花子が入ってきたため、廊下の光が差し込んでいた。散らばった玩具たちの影が、大きく壁に映し出される。
「こんな時間に、こんな場所に呼び出して、何のつもり?」
 花子は腰に手を当て、噛みつくように言った。花子が自分に話しかけている。その事実に燃えるような羞恥心を感じ、普段紙のように白いニアの皮膚が、仄かに色づいた。ニアは暫く黙って、ただ花子を見つめていた。彼女が自分を見つめているその姿を、目に焼き付けておこうと思ったのだった。
 やがて花子が痺れを切らした頃、ニアはようやっと、ぽつりと言った。
「私と一緒に来てくれませんか」
「何? 聞こえない」
「私と、一緒に来てくれませんか、と言ったんです」
「……は?」
たっぷり3秒ほど押し黙り、ふたりが見つめ合う。ゆっくりと、花子が花弁のような麗しい唇を開く。
「ふざけないで」
 地を這うような声だった。吐き出された拒絶。花子は燃えるような目で、ニアを見ている。睨みつけている。
 ニアは、恋をした少女の睫毛一本一本まで食い入るように見つめた。きっと、彼女と言葉を交わすのは、これが最後だろう。そういった予感があった。瞬きを忘れ、目が乾いても、ニアは花子を見つめ続けた。あと一瞬、もう刹那彼女を見つめていられるのなら、この世界のどんな謎でも解き明かしてみせたかった。
 薄暗闇のなかでもはっきりと艶やかな赤い色をした唇が呪詛を紡ぐのを、ニアは傷つきながらもうっとりとした心持ちで聞いていた。できることなら、愛を囁いてほしい。その白く華奢な指先で触れられたら、どんなにか幸せだろう。
「私がメロを裏切ると思ってるの? 馬鹿にしないで。あんたなんかに、絶対協力しない」
「そうではありません。それに、これはそもそも私とメロの争いではない」
「同じことよ」
 激情に揺らめく瞳でニアを睨み付けると、花子は踵を返した。長い髪が美しく靡く。遠ざかっていく足音。
暗い遊戯室に取り残されたニアは、それが完全に聞こえなくなると膝から崩れ落ちた。心臓が骨を打ち、折れてしまうのではないかと思った。それをシャツの上から握りしめ、ニアは蹲った。
 悲しいのかどうか、ニアにはよくわからなかった。花子が自分の望む返事をしないことを、彼は予測していた。概ね予想通りだった返事に傷つくような期待は持っていない。
 ニアは目を瞑った。残酷なほど優秀な彼の脳は、何一つとして忘れることがない。瞼を閉じれば、ニアはいつだって望む花子を思い出せた。陽の下に響く明るい笑い声。絹糸のようにしなやかな髪。小さな子どもたちに投げかける天使の微笑み。けれどもたった一つだけ思い出せないことがある。ニアが初めてハウスに訪れた日。あの日、やさしく自分に笑いかけた彼女の笑顔を、彼はどうしたって思い出すことができない。
 ニアが覚えている花子の笑顔は、どれもメロに向けられたものだ。彼女が駆けるのも怒るのも笑うのも、すべてメロのためだ。そんなことは嫌という程わかっている。ニアはずっと花子を見ていたのだから。
 悲しみというには刺々しい胸を指す感情を、ニアは嫉妬だと思った。同時に、期待などないと思っていた胸のうちに僅かながらのそれがあることに気がついた。メロがいなくなった今なら、自分でも花子を笑わせてやることができるかもしれない。なんて浅ましい考えだろう。ニアは笑った。
「私は無様でしょう、メロ……。そしてあなたも愚かだった。あなたは私に、あんなにも敵対心を燃やす必要はなかった。私はあなたに、一度だって勝てた試しがないのだから」



 あの日のことを、ニアは忘れたことなどない。どんなに脳を酷使しても、頭の片隅にはいつもあの日の花子がいた。
 炎上したトラックからは、ふたり分の死体が見つかった。ひとりは男、もうひとりは女。ふたりは固く手を握り合い、寄り添うように息絶えていた。損傷が激しく、顔貌は黒く焦げ、焼け落ちてしまっている。けれどもニアはその者たちがどのような名で呼ばれ、どのように生きていたのか知っていた。
 トラックから運び出した遺体を地面に横たえる。生い茂った草の生命力。そこに眠るふたりは美しく見えた。その傍らで、ニアは膝を抱えた。顔を埋める。涙が溢れた。
 気遣うように自身を遠巻きにするレスターたちを下がらせ、ニアは顔を上げた。涙で濡れた頬でじっと女を見つめる。
 不意に立ち上がった彼は、遺体に手を伸ばた。固く握り合った彼らの手を、力の限りに引き離す。脆くなった骨が崩れ、男の手も、女の手も傷ついた。ニアは気にしなかった。
男から引き離した女の遺体に覆いかぶさり、ニアはまじまじとその黒い顔を見つめた。そこにかつて恋い焦がれた少女の面影はない。
「あなたは愚かです」
 ニアは彼女に囁いた。
「私を選べばよかった。私なら、あなたを死なせるような真似はしなかった。他の何よりも大切にした。そう、この世界のなによりも」
 ニアの涙が焦げた女の頬に落ち、伝った。ニアには彼女が泣いているように見えた。
 けれども彼は知っている。メロでなければ花子はともに死ぬことを選択しなかっただろうことを。そして、物言わぬ骸となった彼を羨む自分自身の心を。
 焼け焦げた遺体は熱を持ち、仄かに温かかった。ニアは女の頬に自身の頬を寄せた。唇にそっと口付ける。遺体は何も喋らない。


2019/10/02  title by 休憩


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