「ねぇ、兄さん」
私がそう言うと、乱馬はいぶかしむような視線を向けてきた。そりゃあそうだろう。私はこの人間のできているとはお世辞にも言えない乱馬のことを兄と呼ぶことはない。それにだいたいにして、私たちは二卵性双生児である。ほんの数時間先に産まれた兄弟を兄と呼ぶ意味はどれほどあるだろう。
とにかく私は彼を兄と呼んだことがない。
「気色悪いな。なんだよ」
だから、こう返答されるのは当然のことなのである。
「兄さん」
あくまでそのフレーズにこだわって私は言う。
「兄さんはさ、何とはなくしんどいって思うことないの?」
隣に擦り寄りながら囁く私が、視線を向ける先。そこには子豚を抱えたあかねがいる。
「なんだよ気色悪いな。お前そんなしおらしい女じゃねぇだろ。いつもの鋼鉄のハートはどうした」
私はそれには答えずにそっと乱馬の方に体重をかける。
「聞いてんのか?」
「聞いてる。聞いてるけどやめない。いいじゃん。たまには兄らしく甘えさせなさいよ。いっつも私が宿題から何から乱馬の面倒見てるじゃん」
そう言うとしばし乱馬は黙る。この微妙な間は、お前だって俺や俺の体質を良いように使ってるじゃねぇか、ということを考えていると思われる。だが、私は怯まない。それはそれ、これはこれ。
「さぁPちゃん。お風呂入りましょうね」
視線の先、あかねの言葉で子豚が逃走する。そうよね。そうするしかないもんね。お湯をかけたらバレちゃうよね。
そしてその子豚は兄妹としてはありえない距離感の私達の前で急停止したので、私が責任持って捕獲してやった。
「ふぅん。お風呂は私の方がいいんだ」
などと言いながら、少しばかり上機嫌に子豚を抱えあげ、立ち上がる。
「へぇー。ふーん。そういうことかよ」
足元からの乱馬の野次は完全に無視することに決め、子豚の頭を撫でてやる。
「そしたら、あかねがお風呂出るまで小夜子ちゃんと遊びましょうね〜」
冷や汗をかく子豚にそう声をかけて、あかねの方へ向きなおる。
「あかね、Pちゃんかりるわ」
「いいけど。うーん。どうして私とお風呂っていうといつも逃げるのかしら。乱馬と小夜子は平気なのに」
「なんでかねぇ。ねぇ、どうしてかしらPちゃん」
意地悪く話しかければ、また冷や汗をかく哀れな子豚。
「小夜子はPちゃんですぐご機嫌になるよな」
この哀れな子豚への助け舟なのか、それとも私をからかいたいだけなのか、足元から乱馬が言う。
「なんでかしらねぇ。なんだか、よく知ってる誰かを思い出すのよね」
この空間はさぞ居心地が悪いだろう子豚は、腕の中でもがいている。
「よしよし。そしたら小夜子ちゃんのお部屋に行きましょうね」
言いながら、私は台所へ向かう。自分用の小さな魔法瓶にお湯を詰めるためだ。
ご多聞に漏れず、うかつに水を被れない体質を持つため、枕元に使えるお湯があるか無いかでだいぶ安心感が違う。私が使うでなくても、あれば中々便利なのだ。
そして、部屋に戻って即そのお湯を子豚にかけた。
「あっつ!貴様、何しやがる」
「でしょうね、熱々に沸かしたもの」
良牙に服を渡しながら言う。Pちゃんこと響良牙の緊急避難所と化している私の部屋にはいつも彼の服が一式必ず置いてある。
そもそも、私とこの男のことをどう説明すれば良いのか。
この男だけなら説明するのは簡単だ。そのための言葉を私はたくさん持っているのだから。
恐ろしく運の悪い男。超のつくお人好し。怪力。おバカ。方向音痴。ムッツリスケベ。にぶちん。可哀想なくらい一途。どあほう。あかねのことが好き。私の愛しい幼馴染。
そう、幼馴染。多分それが一番近い。母と暮らしていた小中学生の頃、私は毎日この方向音痴を朝からわざわざ迎えに行ったものだった。
思えば、迷子の良牙を見つけるのはいつも私だったのだ。それなのにこのにぶちんときたら。なぜ、あかねなんだ。
可愛くて、ちょっと素直じゃないところもあるけど、優しさもきちんと持ち合わせているし、包容力だってあって、強くて、かっこいい、私の大好きな素敵な女の子。
そう。素敵な女の子だ。
良牙は馬鹿だけど、方向音痴だけど。だけど、ほんと、女の子を見る目だけはある。
良牙が実らない片思いをするのがあかねでなければどれだけ良かったろう。少なくとも私の大好きなあかねでなければ、あの子じゃなくて私にしときなよ、だなんて言えたのだ。そうすれば、私はもう少しばかりは心穏やかに暮らせるはずだ。
「なんの真似だ!」
熱々の湯をかけられた良牙が吠える。
「いいじゃない。お湯の温度くらいでガタガタ言わないでよ。むかーし散々、道案内してあげたでしょ」
「あれは貴様が勝手に朝押しかけてきてたんだろうが」
「ああでもしなきゃ学校行くのに五日は迷子になってたじゃない。それにだいたい私の名前は貴様じゃないのよ」
「小夜子、何をイライラしてるんだ」
「別に〜。イライラなんかしてないわ」
嘘だ。している。ものすごくイライラする。
「してるだろうが。まぁいい。俺は行くからなッおまッ。ピィ!」
部屋から出て行こうとする良牙に、私はこれまた常備しているペットボトルのミネラルウォーターをぶっかけた。豚にしてしまえば、この男はそんなに遠くに行ってしまうことはない。せっかく十日ぶりに顔を見たのに、やすやす迷子にさせるわけにはいかないのだ。
抗議の目で私を見上げて、子豚は走り去っていった。
「おめぇも可愛くねぇなぁ」
いつの間にか乱馬が部屋の前にいる。
「誰に似たのかしらね。お兄ちゃん」
「それをやめろっての」
乱馬の胸に頭突きして、そのままもたれかかる。
「お前、やっぱりおかしいっておい。熱あんじゃねぇか」
なんとなくしんどい。そりゃあしんどいはずだわ。思いながら、そのまま動くことができない。
「ったくしょーがねぇな。よッと」
軽々抱えあげられる私の身体。ほとんど同時に産まれ、同じように育ってきたはずなのにどうしてこのような差がつくのだろう。
私だってそりゃあそれなりに戦えるけど、やっぱり乱馬や良牙になんか敵わない。スピードも力も比べることができない。でも、その事に安心する私もいる。なぜだろう。
ベッドに寝かされる。布団を首までかけられて、額に乱馬の手が置かれる。
「あっちぃな。お前それでよく今まで動いてたな」
「さっきまでは何ともなかったもん」
「嘘こけ、いいからこのまま寝ろ。なんか欲しいもんあるか? 今日くらいわがまま聞いてやる。お、お兄ちゃんだから、な」
目をそらしながら照れる乱馬が、私には新鮮だった。だってそれは、あかねにしかやらない仕草だから。
だから私は少し笑ってしまって、そのせいだろうか、口からとんでもない本音が飛び出た。
「ある。あるのよ。どうしても欲しいもの」
「おう、言ってみな」
「良牙」
「それはまた、ずいぶん大きく出たな」
言いながら乱馬が立ち上がる。
「ったく、手のかかる妹だぜ」
乱馬の出ていったドアを眺める。しばらくすると廊下にあかねの声が聞こえてきた。
「さぁ、Pちゃん。一緒に寝ましょうね〜」
ぼんやり聞きながら、なんだか悲しくなってきて仕方ない。なんで、こんなに好きな女の子にこんなにも嫉妬しなければならないのだろう。いつもならこんなこと考えないのに。やはり身体が弱れば心までも弱るのか。
「お、あかね、ちょうどいいとこに」
グズグズの私の耳に、乱馬の声が届いた。
「Pちゃんかりていいか?」
「なんでよ。嫌よ、Pちゃんは私と寝るの。Pちゃんだって、乱馬の布団は嫌よね?」
「ピィ!!」
「ちげぇっつーの。俺だってそいつと寝るのは嫌だ。あーそのなんだ。小夜子の奴、熱出してよ。そいつがいればちったぁ安心して寝れるかもしんねぇだろ」
「あら、そうなの? 大変!」
「まてまて、そっとしとこうぜ。Pちゃんさえいればご機嫌で寝るだろ。寝れば治るさ」
「ええ、だけど」
「ほらほら、かしたかした!」
そのやり取りのあと、そっと私の部屋の戸が開いた。遠慮のない足音からするに乱馬だろう。
ボスッという音と共に、私の布団に子豚が投げ入れられる。そして次の瞬間。
「何しやがる乱馬!」
「何するのよ乱馬!」
あろうことかベッドの中の子豚に、乱馬はお湯をかけたではないか。想い人とはいえ、妹の病床に裸の男を放り込む兄がどこにいようか。
「小夜子が欲しいっつったんじゃねぇか、文句言うな。じゃ、おやすみ。よろしくやれよ」
「寝れるか!!」
私の精一杯のツッコミを交わして乱馬が出ていく。部屋に私と良牙が残される。
「と、とりあえず服を着る」
ベッドから降りてもぞもぞ服を着る音がする。
それから、ベッドに振動。見ればベッドの淵に良牙が座っている。
「大丈夫か?」
「うん完璧」
「嘘だろ」
「うん」
「今日だけだからな」
言いながら良牙は水の入ったコップを持つ。それを被ろうと言うのだろう。
「待って」
言って半ば起き上がる。私が所望したのはPちゃんではない。
良牙の広い背中にぴったりと身を寄せる。
「そのままがいい。ねぇ。寝るまで、そばにいてよ」
「なん、なんだと」
手からコップを奪ってテーブルに置く。それから、羽交い締めにしてベッドになだれ込む。
「そ、そんだけ元気なら俺は行くぞ」
「やだ」
「お、お、俺は」
「知ってるよ。あかねが好きなのくらいずっとずっと知ってるよ。今夜一晩くらい、私のでいてくれてもいいじゃない!」
頭がぐらぐらする。ぐらぐらで、もはや自分が何を言ってるかもよくわからないが、とにかく一人にされるのが心細くて、私はそう言ったのだ。
「小夜子……」
他意はない。決して他意はない。なんだかとてつもない変態発言のように聞こえるかもしれないが、この気だるい身体じゃあ、ではなくそんなのはダメだ。ダメダメだ。とにかく他意はないのだ。
「まて、俺は誰のなんだ??」
仰向けにベッドに倒れ、私は良牙の右腕を抱えたまんまだ。その状態から、存外近い距離で目が合う。奴の顔が真っ赤で、私までドギマギしながら、奴の言葉を咀嚼する。
「そりゃあ、あ」
あんたの心はあかねのもんじゃない。
そう言いかけて気がついた。この目の前の純情ばかは、私の発した言葉の予想外の部分で引っかかっているのだ。今夜くらい私のでいてくれ。この言葉を普段はあかねのものと解釈したのだ。ばかだ。ばかばかだ。鈍感。にぶちん。引っかかるべきはそこじゃない。
「ばーか。ばーか」
「あああ泣くな!泣くな!」
こぼれそうになった涙を押し込みながら考える。そりゃあ泣きたくもなる。よく女の子と同じベッドにいて、別の女の子のこと考えられるな。
「わかった。わかった。寝るまでだ。小夜子が寝たら行くからな俺は」
「じゃあ寝ない」
「いいから寝ろ」
起き上がりかけた私の頬にヒンヤリとした大きな左手があてがわれ、力いっぱい枕に押し付けられた。
「痛いよ」
「すまん」
離れかけた手をぐっとつかむ。ヒンヤリとして気持ちがいい。
真っ正面から視線がかちあう。
「冷たい」
「熱い、な」
私の視線から、良牙が逃げるように目を逸らす。
やっと私を意識したな。
身体を暖かい何かが駆け巡り暴れている。自然緩む口元を隠しきれない。
「ついでだから、この左手かしてよ」
「おい」
その言葉の続きを聞かずに、私は目を閉じた。
もぞもぞと身じろぎする音がする。左手だけが私に触れていて、良牙の身体はベッドの端めいっぱいまで離れている。この距離感が心地いい。
願わくば忘れてくれるな。今日のこの居心地悪さを。願わくば床に就くたび思い出せ。私のこの頬の熱さを。
そんなことを思ううちにうとうとまどろんで、私は幸福な眠りに下っていく。

翌朝、目を覚ませば、響良牙の姿はなかった。枕元に、少し散歩に出るなどというメモを見つけ、私はあぁとうめく。
カレンダーをめくり、散歩程度のつもりなら一週間もすれば戻ってくるだろうなどと検討をつけ、印をつけた。
身体はまだ気だるい。学校へは行かれないだろう。枕元の水をあおって、再び布団にもぐりこむ。頬に自分の手を当てて、一言つぶやいた。
「手、おっきかったな」
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