私には趣味がある。 その趣味のため、今日も私は分厚いガラスにべったりと張り付いていた。ガラスのむこうでは、優雅にシーネットルが漂っている。えんじの傘から長い絹のような触脚を垂らし、クラゲは水の中を漂っている。 シーネットルを堪能したら、次はふんわりと薄いレースのような触脚のアマクサクラゲ、それから活発に泳ぎ、愛嬌のあるタコクラゲやブルーゼリーフィッシュ達をたっぷり楽しんでようやく我に返った。 ここは海沿いの水族館。特にクラゲや鮫や深海生物に特化した、大きな水族館だ。 クラゲ大好き風紀委員長こと私、小夜子は年間パスポートでこの水族館に度々入り浸る常連である。今日も、新しい珍しい生き物が展示されているとの情報を得て、水族館にやって来た。 それでもやっぱり、クラゲコーナーに足を取られ、こうしてガラスに張り付いていたわけである。クラゲの何がそんなにいいかと言われたら、まずは綺麗可愛い繊細な容姿である。それから植物と動物を行き来する不思議な生態だろう。まさしく海の神秘である。 とにかく、そんな風にクラゲ水槽コーナーに張り付いていた私は、後ろを振り返ったのである。 「あ」 そして私はあんぐりと口を開けて、三秒固まり、それから急速に顔を真っ赤にする羽目になった。 私のすぐ後ろに顔の整った同い年の少年が立っており、それが挙動不審に水槽を眺める私を不思議そうに見ていたからだ。そして、私がこの男をそれなりに知っている為である。 この男と最初に関わったのは中一の夏頃だ。大きな大会の後で、彼は急にグレた。その経緯には同情に値するものがあったが、私にはそうも言っていられない理由と義務がある。 風紀委員。学校の規律を取り締まる職務に私がついていた為である。それゆえ、私はこの男をよく知っている。そして、この男にあまりいい思い出がない。 追いかける私から逃げ回り、彼は街中をちょこまかと走った。何度も知らぬ路地でまかれた。迷子になってけっこうな目にもあった。 服装違反は常連で、目が合うたびズボンにシャツがしまわれていないことを注意してばかりだ。大体ひとにらみされ、私が硬直した隙に彼はさっさと逃げてしまう。 そして、カードを巻き上げているという噂。彼が私から逃げるので、その真偽を確かめることは叶わなかったが、最近はその噂を聞かなくなったので、改善されたのかもしれない。とにかく、私は奴にいい思い出がない。いつでも、あの背中をヒイヒイゼイゼイと息を切らしながら追いかけているばかりなのだ。私はインドアなのに! 私が今年、風紀委員長になったからには、奴に悪事はさせないと息巻いて居たのに、先月も不良高校生と騒動を起こしたのだという。 その、札付きの不良少年。シャークこと神代凌牙が目の前で私を眺めているのである。 「今日はギャンギャン言わねーんだな」 私服の神代凌牙は、びっくりしたようにそう言った。びっくりしているのは私の方である。 「どうして? 何か違反してるなら別だけど。今日は休みじゃない」 妙に興奮しているところを見られた恥ずかしさをごまかすように私はそう返す。 「よく来るのか?」 神代凌牙はまだ驚いた顔をしている。私はいよいよ顔を赤くするしかない。 「新しいのが入るたびに来るよ。今日もそう」 恥いる私をしばし眺めた神代凌牙(以下、シャーク)は何やら納得したような顔をした後、彼のすぐ隣の水槽を指差した。 「じゃあ、これ見たか?」 その水槽にも新着生物のポップが貼られていた。水槽の主に目を向けて、はっと息を飲む。 四角く透き通るボディから伸びる白の触脚、水槽の端から端をものすごいスピードで移動する素早さ。そして人の顔ほどもあるサイズ。 「キロネックス!」 そう声をあげた私に、何を言ってんだとシャークが視線を向けている。それもそのはず、水槽の横にはオーストラリアウンバチクラゲの文字が掲げられている。 「オーストラリアウンバチクラゲは学名をキロネックス・フレッケリって言うの。地球最強レベルの猛毒生物よ。まさか、こんなところで拝めるとは」 一瞬にして、先ほどの羞恥を忘れる程には興奮した。 「フグより強いのか?」 と横から聞こえてきた声が、誰のものかも頭から吹っ飛んでおり、水槽に張り付きながら私はまくし立てる。 「そりゃあもう!フグ毒テトロドトキシンの五百倍くらいの威力があるもん」 そこまで言って、チラリと隣を伺う。急に現在の状況を思い出したのだ。 「そりゃ、関わりたくねぇな」 と言いながらシャークは興味深げにクラゲを眺めている。 「なんか、ごめん。クラゲとなると周り見えなくなっちゃって」 「周りが見えないのはいつもだろ。気にしねぇよ」 さらりと言われ、一瞬納得しかけたが、よくよく考えるとものすごく失礼な言い回しである。 文句を言おうかとも思ったが、同時に私は別の事を考えてもいた。 一人で水族館にいる私も私であるが、一人で水族館に来る札付きの不良もなかなかではなかろうか、ということだ。 「ねぇ、神代凌牙はよくここへ来るの?」 「そのフルネーム呼びやめろよ委員長。まぁ、良く来るけどな」 「あなたは、何を目当てに?」 「そこまでよそよそしくなくてもいいけどな。シャークでいい。俺は鮫を見に来るんだ」 「鮫、ね。そういえば今日、私も見に来たの、鮫。すごいの入ったでしょ。二度と見られないかもしれないから」 そう今日の私の目的の一つは、新着生物の中でもとりわけレアな鮫である。 「へぇ、なら一緒にいくか?」 目の前の不良を私は二度見する。 「え、うん。いや、あの。いいの?」 「お前、詳しいんだろ。こんな趣味で一致する奴、初めて見たんだよ」 「そ、そう? 私も、そう、だけど。まさか、まさか札付きの不良と風紀委員長が肩並べて歩く日がくるなんて、思ってなかったというか」 「嫌ならいいぜ、別に」 「嫌なわけないでしょ!」 しどろもどろになりながら、言葉をつむぐ。どうもいつもの調子が出ない。いつもなら使命の赴くまま、追い回すだけだ。なのに今日はその使命がない。完全にオフである。 私はこの男と普通に会話したことなどなかったし、そんなことができるとも思ってなかった。想定外だ。この状況は小夜子のマニュアルの中にはない。 「なら来いよ。ほら、置いてくぞ」 しどろもどろしている間に、シャークは勝手に歩き出している。それをパタパタと追いかける。背中は見慣れていた。 「わぁ」 思わず、喉から感嘆の声が漏れる。 「すげぇな。これはもう二度と見られないかもしれない」 シャークも同じようにほうけて水槽を見ている。あまり大きくはない暗い水槽だった。その中を口を開けたままグルグル回る深海鮫、ラブカ。色のない大きな瞳、ねずみ色のうなぎのような細長い体。その身体をくねらせてグルグルとまわる。 「きっと、長くはないのでしょうね」 そのラブカの動きは、どこか苦しげでぎこちない。きっと長くて一週間というところだろう。いまだ、ラブカの飼育方法は確立されていない。何を食べるのかさえ知られていないのだ。 「……そうだな」 シャークの声に苦いものが混じる。 彼が妹のことを思い出したのだろうことは私にもわかった。でも、私には何と声をかけたらいいかわからない。きっと、不用意に何か言えば傷つけてしまうような、そんな柔らかいところなのだと思う。 だから、全く関係のない話をすることにした。 「太古の昔を思わせる、原始的な鮫なんですって。きっと、平安時代も旧石器時代も、いいえ、もっともっともっともっと前から、この姿で生きてきたのね。脈々と受け継いできた。今のこの瞬間まで。不思議。でも私、好きだよそういう不思議さ」 「ああ。そうかもな。感傷的なのは好きじゃねぇが、悪くない」 神代凌牙の瞳が細められたのを見て、恥ずかしながら私はほんの数瞬間、見とれていたのだと思う。まさか、この男がこんな優しげな顔をするなんて。そういう驚きと、純粋に整った横顔に見惚れたのと、二つの理由で私はかたまっていた。 「なんだよ」 「あ、その、あの。そうね。来てよかったと思って」 そのせいだろうか、妙に素直に私は本音を喋っていた。 「神代くんと来てよかったと思って。一人で見るより余程楽しい。不思議だな」 「……まぁな。委員長の言う通りかもな」 「ねぇ、私もフルネーム呼びやめたんだから、あなたも止めてくれる? その委員長っていうの。学校ならともかく、今日はオフなの。私、今日は委員長じゃないから」 神代凌牙は若干眉をひそめ、仕方がないというような素振りを見せたあと、私に呼びかけた。 「ほら行こうぜ、小夜子。まだ、半分も見てねぇからな」 いつもより更にけだるそうに装っているが、それがフリなのだと、なんとなくわかった。私が何も言えずに神代凌牙を静々と歩くしかないのは、動揺していたからだ。 まさか、名字でなく、名前呼び捨てでくるとは思わなかったのだ。きっと本人はあんまり考えてないに違いないし、予想もしていないだろう。 まさか今ので、私が、ハートを撃ち抜かれたのだとは。 「ずるいなぁ」 ぼそり、呟いた言葉。きっと彼には届いていない。 これが、私の新たなる追いかけっこの始まりだった。 |