目の前に野暮ったい女が立っていた。
時代遅れの銀縁メガネ、びっちりと後ろで編み込まれた三つ編み、前髪をピンで留めあげたデコッぱち、化粧っ気もない。それが、また黒いシャツと黒のチノパンという華やかさのかけらもない姿でバーボンを見上げていた。
一目見て邦人らしいとバーボンは判断する。親近感を覚える顔立ちをしている。
「ベルモット、彼女が?」
そう問えば、彼女の隣にいたベルモットは「スピカよ、バーボン」と紡ぐ。その唇が妖艶に歪められるのを見て、バーボンはこの女が隣に立っていることが、さらに彼女を野暮ったく見せているのだと思った。
スピカと呼ばれた女は、その会話を聞いて何かを得心するような表情をしてから、英語で「私はスピカ。言葉は任せて」と笑顔で手を差し出してきた。この時バーボンとベルモットが英語で会話していたためであろう。
「僕は、あまりよろしくしない趣味でね」
それに敢えて日本語で返した。仲良くするつもりはないと言外にも匂わせて。
怒り出すかと思ったが、スピカは見た目よりはクールに反応した。日本語で「いい趣味ね、仲良くなれそう」と言い、両手を挙げて降参のポーズを取る。彼女なりの皮肉といった風である。生真面目な日本人という見た目に反してアメリカンな対応であった。
「じゃあ、後は二人でよろしくやってちょうだい」
紹介役の務めは終わったというように、ベルモットは手をひらひら振りながら去る。スピカとバーボンだけがその場に残された。
「で、結局あなた何語が一番楽なの」
それは彼女の業務上の確認であった。
スピカの役割は翻訳たまに通訳。彼女は五つの言語を操るマルチリンガルである。その彼女にもバーボンは無国籍に見えるらしい。先程から彼女はずっと何語で話すべきか判断が付かぬのだろう。
「あなたの一番話しやすい言語で結構です」
だからそう言ってやったのに、彼女は眉根を寄せた。
「あんた、いい性格してる」
棘のある日本語が返ってくる。
「お褒めにあずかり光栄ですね」
言いながら、助手席のドアを開けて早く乗れと促した。
彼女を車に乗せて、作業用に取ったホテルへ移動する。
彼女に与えた仕事は、録音テープの翻訳であった。とあるビルの会議室を盗聴したもので、製薬関連の専門用語の飛び交うものである。彼女はそれを倍速で再生しながら、背負ってきたリュックの中から表紙の擦れた中日辞書と中国語の類義語辞典を引っ張り出し、それから「多分もう三つ必要だけど、ここにも自宅にも持ってない。このへんに、専門書コーナーのある大型の本屋は?」と。
半刻もしないうちに彼女は追加の辞書を三つ抱えて戻ってきた。一つは薬の成分名と効果を記したもの、もう一つはそれの中国語版、そして最後に日本の薬事法の辞典。
「まだいたの。夜までかかる。できたら電話するから迎えに来て頂戴。その時に渡すから」
言い終わる頃にはスピカは机の上に道具を広げて、片耳に当てたイヤフォンから流れる言葉をノートパソコンの画面上に打ち出し始めていた。
バーボンは窓際に椅子を置き、外を単眼鏡で覗きながら「僕は僕の仕事があるんですよ。まさか、君の作業のためだけに部屋をとったりしません。君はついでだ。ここは向かいの棟がよく見えるので」と返答したが、それきり会話は途絶えた。
スピカに目を向ければ、いつのまにか両耳がイヤフォンで塞がっており、目は机と組んだ膝に乗った辞書達の上を走り回っている。どうやら没頭する性質らしい。
スピカが、作業を中断したのは四時間後。イヤフォンを取った彼女は、窓際のバーボンを見て、四時間前に彼が言った内容を状況から読み取ったようだった。
どこからか湯気の立つマグカップを二つ握ってきて、片方をバーボンの横へ置く。手に持ってる方をズズズとすすって「梅昆布茶」とだけ言い置いて、机へ帰っていく。ここのホテルにはそんなものはないので、持参した作業のお供をお裾分け、ということであるらしい。
さらに二時間。バーボンが見張っていたターゲットが、思った通りの人物と出てきたのを視認し、連絡を入れた仲間の車が追跡を始めたことを確認。この日のバーボンの作業は終了した。あとは相棒スコッチの仕事であった。
スピカの方も一部の専門用語を除いてほぼほぼ出来上がっているように見えた。
「早いな」
素直な感想を述べれば、彼女は「文字通り生業なので」と答えた。

スピカという女は、余計なおしゃべりをしないという点で、非常に扱いやすかった。
もちろん世間話を振れば、それなりの返答は返してくる。だがそれだけだ。初日に言った仲良くする気はない、という言葉の意味は正しく受け取っていたようで、その後も彼女とは個人的な話は一切しなかった。
もちろん、だからといって探らないわけではない。当然のようにバーボンはスピカのことを調べた。
彼女の両親は組織の翻訳を担っており、彼女は生まれた時からこの仕事をするべくして育てられた。そしてその両親は若くして死んだ。知らないでも良いことを知りすぎたわけだ。なるほど生業とは言い得て妙で、この組織での仕事はスピカにとって、生まれた時からの宿業なのであった。
自分ならその立場でも上手く立ち回る自信があるが、この野暮ったい女にはそういった駆け引きのような能力は皆無である。淡々と目の前のことをやるのみなのだから、残された時間をジリジリと消費するだけ。そしてそれを受け入れているようにも見える。
「お互い長生きできないね」
そんなわけで、それが彼女のお気に入りの挨拶だった。
その日も会うなりスピカはそれを言い放った。
ただ、その日はそれが彼の柔らかいところに深く傷をつけ、危うくバーボンはスピカを睨みつけそうになったが、持ち前の精神力で押さえつける。
そのかわり柔和に微笑んだ。ちなみにこの言葉にそんな対応したことは一度たりともない。
どうやら、思った通りの顔をつくれたらしい。スピカは珍しく顔を青くして「今のは、失言。撤回する」と消え入りそうな声で言った。
「気にしていません」
そう返せば、例のごとくそれ以上彼女は踏み込んでこなかった。
これはスコッチがNOCとわかって死んだ翌々日のことだった。新しい相棒だと、バーボンに付けられたのはスピカであった。
その意味は重々承知している。要するに己は疑われていて、スピカは監視役なのであった。
監視役としては手ぬるいが、この女は人の警戒心を解くのが上手い。饒舌なわけではなく、何をするわけでもない。ひたすらに無害なのである。
弱っている時に安心感を与えられることに人は弱い。それをわかっていて、組織はこの女を自分につけたらしい。
ボロを出すのを待たれているようだが。バーボンはほくそ笑む。そうはならない。なぜならこれから、バーボンの方がスピカを懐柔するのだ。
バーボンは既にスピカの本性を見抜いている。そして、スピカは、この女は真相に気がついても自分を売らない。己の術中にハマる、その妙な確信があった。
その日の彼女は通訳であった。その仕事を終えて、彼女を送り届けるために車に乗った。そして、いつもなら言わないことを言う。
「少し、ドライブしませんか」
スピカは、一瞬いつもより瞳を大きく開き、次の瞬間にはいつもと同じ覇気のない瞳に戻っていた。
「お好きに」
「今日は一人になりたくない気分なので。あなたでも、居てくれるとありがたい」
術中などと言っても、彼女相手に特別なことは何一つ必要がない。バーボンはただ、ほんの少しありのままの己の端っこを見せただけだ。
「ふぅん」
スピカのそれは、中身のない返答であったが、確かに了承の意を含んで居た。
スピカの能力の本当の強みは言語の数でも、単語の多さでもなく、おそらく共感性の強さである。それが彼女の翻訳の正確さの真の秘密であり、彼女自身が必死に外に漏らさぬように抑え込んでいるものでもある。そして、彼女が組織に向いていない、長生きできない本当の理由だ。
彼女は人の表情の変化を読み取るのが異様に上手い。それは彼女自身がここで生き抜くために身につけてきた能力である。
彼女の瞳に覇気がないのは、この世界と己の感情に疲れているからだ。
彼女は孤独に、見えぬところで強く共振する。その、予感があった。
「そこ曲がって。うちだから」
スピカはぶっきらぼうに言った。

スピカの家はシンプルな1DKのアパートだった。生活最低限の家具と、壁一面の本棚。それが彼女の城である。
スピカは部屋に上がるなり「作業一個残ってるの。好きにしてて。寝るならベッド使って良いから」と言い置いて、ベッドの横にあるパソコンにかじりついた。
好きにしていろと言われても困る。
バーボンはベッドに腰掛けて、画面をそっと覗き込んだ。専門用語が多く中身を理解するのは困難そうだが、それはどうやら薬に関する書籍の類を英訳したものらしい。
しばらくしてスピカは、そのデータをUSBに落とすと、どこぞに電話をかけ始めた。
「シェリー? 私、スピカ。できたから、明日渡しに行く。じゃあまた」
シェリーが関わっている案件であるなら、噂の新薬の開発に関するものなのだろう。
バーボンの目がUSBに向けられていることに気がついたのだろう「探り屋にはあげないよ」とスピカは言った。
「なぜ僕をここへ?」
ベッドに腰掛けているバーボンと、目の前の椅子に座るスピカの視線は今同じ高さにあった。スピカは野暮ったいメガネを机に置くと、引っ詰めた髪をほどきながら「うーん」と唸った。
「一人になりたくないって言ったのは、バーボン、あんたの方。私は作業残ってたし、だから、あんたがここに来る方が自然。当然の帰結では?」
肩より長い真っ直ぐな髪の毛が解いたゴムから流れ落ちるのを、思わず目で追った。
絶世の美女などとは言うまい。しかし、こうして野暮ったさを排除してみれば、それなりに整った顔貌をしている。着飾ればそれなりのものになるだろうなとバーボンは考える。
その視線をどう受け取ったのか、スピカはバーボンの方へ向き直るとその顔を覗き込んできた。
「ぼうや、本気?」
それを聞いて、バーボンは吹き出した。ぼうや、坊やときたか。
「気を悪くしたなら謝りますが、坊やというにはいささか僕はとうが立っていますよ。君より僕は年上です」
「どっちでもいいよ。そんなの」
言いながら、スピカはバーボンの膝に乗り上げてきた。
「今日のあんた、ちょっとかわいいね」
そう言ってスピカはバーボンの唇にかじりついてきた。
つまりは、そういうことである。
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