六年前の春


ビートは私が七つの時に施設にやってきた。
どの施設でもうまく行かなくて転々としているのだと大人たちが噂をしていた。
きっと怖い子が来るんだと、私は怯えていて。だから、初めて彼を見たときに、面食らったのを覚えている。
色素の薄い肌、大きな瞳、きらきらふわふわした髪。まるでフラスコ画の天使みたいとさえ思った。
子供は新しいものが好きだ。
新しい子が来ると取り囲んで、好奇心のままに根掘り葉掘りかわるがわる。
いつもは二十分はそんな感じなのに、この時は五分としないうちにその輪が散っていった。
「そんなこと知って何が面白いんだ」
輪の中から、鋭い刃のような声がしたから。
でも、囲まれてあれこれ聞かれたくないことまで聞かれるのは嫌だ。その気持ちだけはなんだかとても分かると思った。
少し離れて見ていると、バチリと目が合う。紫の瞳が私にピタリと視線を合わせていた。
私はなるべく彼に興味を持たなかったかのように目を逸らして、胸に抱えていたスケッチブックへと目を落とした。
真新しいページを目指してどんどん絵をめくっていく。
川を泳ぐサカシマス。空を飛ぶアーマーガア。木の実に乗った小さなバチュル。
すぐ隣に気配を感じる。
私はいつもの呪文を心の中で唱える。
私は透明。私は透明。誰にも見えない。ここにいない。だからお願い話しかけないで。
「ポニータは」
しかし願い届かず、声をかけられてしまった。
恐る恐る顔をあげる。
さっき鋭い声を上げていたビートが、私の手元の絵をじっと見ていた。
どう声を出していいか分からなくて、私は慌ててページをめくった。
「ねぇ、黙ってるなよ」
そう急かされて、へんな汗が出てくる。ようやく目当てのページを見つけて、迷わずページを破り取る。テレビのポケモン番組で出てきたポニータを描いたのが、一枚だけあった。
それを面食らう彼の胸に押しつけて、私は走って逃げたのだった。
それからビートから話しかけて来ることはなかったし、私も近付いたりなどしなかった。
皆と離れたところで爪弾き者が一人と一人、お互いに関わらないくらいの距離を保って各々好きなことをしている。私たちはそういう間柄だった。

それから三年。私は、十歳になった。その頃の私は施設の裏の森に足繁く通っていた。
森を少し歩いたところから、道を右に逸れた茂みを潜り抜ける。すると木々の下生えに鮮やかな青が広がる。満開のブルーベルの花は、このガラルの地の春の訪れそのものだ。
そのブルーベルの花の群生地に細い獣道が続いている。その先に沢があって、そこには、白くて小さな花を集めて固めたみたいな、可憐なカウパセリが咲く。
私の秘密の場所だった。木陰に座って絵を描くのが私の楽しみだったのだ。
何しろここなら誰にも邪魔されない。
走り回るおてんばな誰かも、私のスケッチブックを取り上げる意地悪なあの子も、ひそひそ噂話をするお姉さんたちもいない、誰かの喧嘩も見なくていい。
時々フワンテやマネネが寄ってくるが、彼らは私の周りを漂ったり横に立って見つめてきたりするだけだ。その距離感が心地よかった。
ある日、茂みをくぐり抜けた先にビートが立っていた。
私はすぐにまずいと思った。
ここがみんなに見つかったら、ここはもう私のオアシスではなくなってしまうから。
青いブールベルに囲まれて、彼は珍しく穏やかな顔をしていた。
意を決して「ここには来ないで」と言うつもりだったのに、その顔を見たらそうは言えなくなってしまった。
おずおずと隣に並んで、伺うように顔を見上げる。真っ直ぐに視線を返されてたじろぐ。でも、これだけはお願いしなければならない。
「あの、あのね。ここ。ここのこと。私とビートの秘密にしておいて」
消え入りそうな声ではあったが、なんとかそれだけ言うことができた。
私の揺れる瞳をジッと見つめた後、ビートは視線を、私から満開の青へと向けた。
彼は微笑んでいた。柔らかく。自然に。
いつも何かを睨みつけてるビートなのに、こんな優しい顔もできるんだ。
私にとって、衝撃そのものだった。
ビートは私の方を見ないまま言った。
「約束してもいい。でも、あんたの方こそ、問い詰められても言わないでよ」
私も、同じ方向に目を向けて「うん」と返した。
そして私たちは別々の方向に歩き始め、また、一人と一人に戻った。
木陰でスケッチブックを開く。
私はビートを目で追うようになっていた。
何度も、あのたった一度だけ見たビートの微笑みを描こうとした。ちょっと描いては消し、ちょっと描いては消しを繰り返す。どうにも思い通りに描けなくて。
スケッチブックから目をあげる。ビートが青い野原を歩いている。
自然と手が動いた。ビートがブルーベルの花畑を歩いていくその背中、それが私が初めて描いた人の絵だった。

その日は雨が降っていて、私は仕方なく皆が集まる広間の隅で絵を描いていた。目を瞑って何度も何度も思い出したあの横顔が、ようやく思い通りに描けそうだった。
彼は、綺麗なものを見て穏やかに笑っていた。他に何を見たら、あんな顔をするのだろう。
多分絵を描いている私も笑っていたのではないかと思う。
「何ニヤニヤしてんだよ」
広間の真ん中で走り回っていた男の子たちがいつの間にか私を取り囲んでいた。時々、私のスケッチブックを取り上げるから、私はこの子たちがとりわけ苦手だった。
私は慌てて、スケッチブックを閉じて胸に抱えた。ビートの絵を、この子たちには見られたくなかった。
「おい、こいつ隠したぞ」
「何描いてんだよ」
抵抗虚しくあっさりと手からスケッチブックが取り上げられる。
彼らは無遠慮に私の絵をめくって、とあるページで手を止めた。
ビートの絵が見つかったのだと思った。きっとそれを描いた私の気持ちを彼らはおもちゃにするだろうとも。
でも、そうではなかった。
「なぁ、ここどこ?」
そう言って彼らが私に見せてきたページは、森の木漏れ日の中に青い花が咲き乱れた絵。秘密の場所の絵だった。
「し、しらない……」
どうにか声を絞り出す。
「ぜってぇ嘘だね」
「お前見たことないもん描かねえじゃん」
「なぁ、どこにあるんだ?」
三方から囲まれて、私は廊下に連れ出された。知らないと嘘だという言葉が何度も繰り返されて、最後に痺れを切らした彼らは私に最後通牒を突きつけた。
「じゃあ、これは返せねえな」
そう言って、スケッチブックを振る。
その中には、ビートの絵がある。他の絵はいくらだってあげて構わないけれど、あの絵だけはダメだ。あれを見たのは私だけだから。あの顔だけは私のものなのだ。
「返して。言うから……。返して」
届くところまで下されたスケッチブックを引ったくるように取り返して、胸に抱えた。

その日から、あの場所は彼らのものになった。
私は約束を破ったのが後ろめたくて、裏庭の奥、誰も来ない温室の影で俯いていた。心臓がいつまでもいつまでもギシギシと軋むみたいに鳴り続けて、まるで断頭台の上にいるような心地だった。
あの場所で鉢合わせて、喧嘩になったのだろう。ビートは傷だらけになって帰ってきた。
俯いてスケッチブックを抱えて丸くなっている私を憤怒に燃える瞳で見下ろしていた。
「どうして……」
震える声で彼は言った。
丸まって声を出さない私を、彼は引きずるように立たせて肩を掴んだ。
スケッチブックが地面に落ちて、風でめくれていく。
ぐんと振られて、ようやく私はビートの目を見た。
「どうして、あんな奴らに教えたんだ。あんたが持ち出した約束なのに!!」
私は歯を食いしばった。せめて泣かないように。
「絵が。どうしても返してほしい絵が……」
ようやくどうにかそれだけ言ったあと、私の目はスケッチブックの方に逃げた。
絵が、めくれていく。
沢に咲いているカウパセリの近くをアブリボンが飛んでいく。
あの青い花と木漏れ日の獣道にビートが歩いている。
そして、微笑んでいるビートの横顔。
あっと声を上げて、私はスケッチブックを拾い上げようと、ビートを振り解こうとした。
でも、ビートの方が早かった。サッとスケッチブックを拾い上げて「こんなもの!!」と。
斜めに絵が引き裂かれる。
呆然とする私の足元にスケッチブックを置いて、彼は私を睨みつけた。
胸にナイフが刺さったらきっとこんな痛みがするのだろうと思った。
力なくしゃがんで、スケッチブックを拾い上げる。斜めに破かれた絵は、もう元には戻らない。
「なんか言えないのかよ!!」
びくりと肩が震える。何か言わなきゃと思えば思うほど、私の喉は栓が詰まったかのように硬くなる。
「あんたのことだけは嫌いじゃなかったのに」
ビートの声が私の世界を震わせる。
私と彼の間に芽生えかけていたささやかな何かは、ガラスのように粉々に割れて死んでしまった。
絵を抱え上げて、私は貝のように閉じて小さく丸まる。
ビートはそのまま何処かに行ってしまった。
その日の夜、私は絵をビリビリに破いて、でも捨てられなくて。まるで墓に埋葬するかのように缶に収めた。
ジョウトへ貰われていくことになったのは、それからすぐのことだった。だから、ビートと孤児院で話したのはそれが最後になった。

 




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