初夏@


初夏の夕暮れは爽やかさで心地よい。
日々の課題や授業をこなしながら私はブティックでアルバイトを始めた。今はまだ掃除や品出しみたいな雑用ばかりで給料も少しだが、生活費の足しにはなっている。
学校の方は洋服を縫う課題で、てんやわんやしている。
その日、私は一心不乱に縫ったばかりの袖を解いていた。
「そこ、脇の縫い目と袖の縫い目はぴったり合ったらダメなの。袖の縫い目の方が少し前見頃側へズレてるのが正しい。それじゃダメ。やり直し」
先輩に指摘されて、苦労して縫い付けた袖を解くことになったのだ。袖というやつはどうにも厄介で仕方がない。しかもこのあとこれまた厄介な襟が残っていると思うとため息も出るというものだ。
まち針を打ち直すところからやり直しだ。もう四時をすぎているから今日は袖だけで終わってしまうかもしれない。
「ちょっといいかしら」
突然呼ばれて、立ち上がる。作業場の入り口から事務のおばさんが顔を覗かせていた。
「あ、はい。今行きます」
駆け寄ると、彼女は「電話が来てるの。あなたに」と。
しかし私には覚えがない。エンジュで何か連絡し忘れたことでもあったろうか。
「えっと、エンジュの親戚からでしょうか?」
「それが違うのよ。ナックルジムからなの」
「はい?」
思わぬ答えが返ってきたので、変な声をあげてしまった。
ポケモンも持ってないのに、なんでナックルジムから私宛の電話がかかってくるのか。
「とにかく出て」
電話の子機を渡されて、困惑しながら耳に当てる。

私は学校を飛び出して、ナックルジムに向かっていた。
まだ作業が残っていたが、どうも向こうの声色が、のっぴきならない話のそれだったので、向かわないわけにも行かなかった。
「ビート選手のことでお話があります。保護者の方をということだったのですが、お身内はあなた以外いらっしゃらないようだったので」
電話口で、大人の女性が強張った口調でそう言っていた。
なぜ私なのかと思った。
施設なりなんなり、連絡するべき先はいくらでもあったろうに。でも、それでもなんとなく、彼がその保護者に施設を選ばなかった理由も薄らと察した。
ビートの目はあの頃から変わっていない。人間なんか信用してやるものか、どいつもこいつも自分の敵だという、そういう目。
彼にとって施設は困った時に頼れるような場所ではなかったろう。どこに行っても問題児だったビートには。
でも、それでもなんで私なのか。あんなに心酔してたローズ委員長でよかったではないか。ジムチャレンジの推薦状を書いてくれるくらいなのだから、余程目をかけられているのだろうに。
ナックルシティジムの受付の女性は、思っていたより数倍若い私が来たことに驚いたようだった。ここでおどおどしたって始まらないので、「彼はどこに?」と必要なことだけ訊く。
通された部屋にはリーグ委員会の男の人だけがいて、事のあらましを説明された。
ようやく、彼が置かれた状況がわかってくる。ラテラルタウンの壁画を意図的に壊した。それが原因で選手登録を抹消される。何をやってるんだ。
でも、なぜ、呼ばれたのが私だったのか。そこだけは分かった。
彼はローズ委員長にも見限られたのだ。
どこにも行けなくなった。施設にも戻れない。きっと、どこに連絡するかと詰め寄られて、答えられなくて、どうしようもなくなって私の名前を出したのだ。
ナックルシティの服飾専門校に通うと私が言っていたから。
「わかりました。ビートが大変ご迷惑おかけしたようで申し訳ありません。お詫びのしようもありませんが、今はまず、会わせてもらっていいですか」
目の前の大人が、私をじっと見ていた。ビートの保護者という名目で来た十六の娘を、値踏みしているのだとわかる。
逃げ出したくなる心をぐっと抑えて、真っ直ぐ見つめ返す。目を逸らしたり、気弱な仕草を見せたらその瞬間から私の扱いが変わる。だから、まだ、強がっていなければ。
「随分としっかりしたお嬢様だ。彼もこれくらい話が良く分かる子なら良かったんだが」
身体中の血液が沸騰するかと思った。自分が今何に激昂したのかも分からないまま、私は言葉を失った。
私は話がわかるわけじゃない。
彼は話がわからないんじゃない。
声にならない言葉が私の脳細胞の隙間を駆け巡って、目の前がチカチカした。
ビートは嫌なこと言うけど、友達全然いないけど、私だって仲良くなんかないけど。でも、でも。
「失礼します」
どうにかこうにかそれだけ言って、部屋を出た。
孤児院の子供は皆、自分の持っていないものをよく知っている。世の他の子供たちが持っていて、自分が持たないものを常に比べながら生きている。皆飢えて乾いている。衣食住にではない。自分の心の置き場に、だ。
それから、子供には子供の世界のルールがあり、それを乱すものはその枠の中にはいられない。
例えば、話しかけてもろくに返事もせずに、おどおどしながら一人で絵ばかり描いている子供。例えば、事あるごとに喧嘩して、誰にも謝れない子供。そういうものに居場所はない。皆の輪の中で過ごせないものに居場所はない。
どうやら孤児院の外も同じなのらしいと、このとき私は感じていた。
もちろんビートのやったことに、同情の余地なんかひとかけらだってないのだが。

当のビートは廊下の椅子に座っていた。
私が出てくると、スッと立ち上がって無言で歩き出した。
私たちはそのまま何も喋らずにジムを出た。
そのまま石畳を少し歩いたところでビートが立ち止まる。
「なんで、来たんですか」 
そう言われて、再び腹わたが煮えくりかえるような気持ちになった。
あんたが私を呼んだんでしょ、と喉元まで出かかった。だけど、多分そうじゃない。彼が訊いているのはそんなことじゃない。
「なんでって、わかんないよ。全然わかんない。ただ、頼られたから、来た」
感情を抑えながら、答える。
「同情ですか」
あの目でビートが私を見つめてくる。でもそこに、エンジンシティで再会した時のギラギラとした野心の色はもうない。力なく、でも、お前も信用なるものかと、そこだけが変わらない。
「同情なんかするもんですか」
「じゃあ何なんです」
食い気味に返される。
さっきまであんなに怒ってたのに、今度は涙が滲んできた。その顔を見られたくなくて視線を下げる。
「だから、頼られたから。
だって、私たち、何にも持ってない。他の子供たちが生まれながらに持ってるもの、何ひとつない。何もないまま、この身一つで生きてくしかなくて。そんな私たちが手のばした時に誰も掴んでくれなかったら、それはもう、そこで終わりじゃない。
これは、他人事じゃないから。ビートは他人じゃないから」
石畳にポツリと黒い染みができた。
泣いてると思われたくなくて、それを左足で踏んで隠した。
「なんなんですか」
いつか聞いた声だ。身の内から焼くような怒りに震える声。
「あなたには引き取ってくれた人がいたでしょう。あなたは身一つなんかじゃないじゃないですか」
私は歯を食いしばって涙を堪えようとした。
今の私はあの頃と同じ身一つなのだ。だって、もうエツは。
「……エツは、エツは死んだ。死んだんだよ」
そこが私の限界だった。
遂にばたばたと目から滴が落ちた。それが分かって、私はその場にいられなくなった。今泣きたいのは私じゃないのに。でも、止まりそうになんかない。
だから、走って逃げた。逃げてしまった。
今度こそもう終わりだ。
路地裏を縫って走る。どこに向かっているかもわからないまま。
強がって大人ぶって、夢に邁進するフリをして全速力で逃げ続けていたのに。ついに喪失の悲しみに追いつかれてしまった。
エツは貰われっ子の私を一人の人間として扱ってくれた。常におどおどして、まともな受け答えもできない、そんな私が少しずつ自分のことを話せるようになるのを、ゆっくり待っていてくれた。私の絵が学校の絵画コンクールで入賞したのを自分のことみたいに喜んでくれた。私の夢を聞いた最初の人間になれたことをエツは喜んでくれた。
エツみたいな大人になりたくて、エツの真似して変に大人ぶった話し方をするのだけ、エツはいつも注意したけれど。
そのエツはもういない。私に、エツはもういない。
そこで、ふと、足が止まった。
じゃあ、ビートは。ビートには、誰が居たんだろう。
踵を一歩引いて後ろを振り返る。誰もいない夕暮れ時の路地。
一歩二歩と路地を戻り始めた私の脳裏に、昔のことが蘇ってくる。思い出したくなかった。思い出すのが怖かった思い出が。鮮やかなブルーベルの花畑が。
だんだんと足が駆け足になって、私は来た道を走って戻っていた。

 




「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -