春@


幼い日の傷痕を今でも大事にしまってある。
クッキー缶の中に入っているビリビリに破かれた色鉛筆の絵。
苦い思い出なのに、度重なる片付けを生き残って、今でも捨てられずに取ってある。
古い和箪笥の上から、埃被ったクッキー缶を下ろしてくる。手の中のガラルポニータのクッキー缶。封印してから六年の間に、なんだか少し小さくなってしまった。
それをそっとダンボールの中へと収める。
引越しの荷物はダンボールは四つだけ。画材がちょっとと、ほんの少しの洋服。それが私の持ち物の全て。
この家も、養母であるエツの持ち物も、彼女の亡き今、彼女の兄弟に分け与えられることになっている。
私は遠慮したけれど、少しばかり彼女の遺産を分けてもらうことになった。本当の子供でもないのにと心苦しくなったが、エツならきっと「そういうもんは貰っとくもんだ。あんたの将来のために使いな」と言うだろうと思う。だから、多分これでよかった。
まだ桜の蕾が膨らみ始めたばかりのエンジュの街を後にする。多分、ここにはもう戻ってこないのだろう。
私は六年ぶりにガラルへと帰ろうとしていた。

飛行場からアーマーガアタクシーでエンジンシティへ。エンジュシティとエンジンシティは語感が似てるとエツがよく話していた。
私はエツが生前書いた手紙を持って、エンジンシティジムに向かっていた。
久々のガラル、今日のエンジンシティは記憶よりずっと活気に溢れている。
人混みに疲れて、自販機で買ったお水を一口飲んだ。久々の硬水の味に眉を寄せる。ジョウトは軟水だったから、私の味覚は少し変わってしまったらしい。
ジムに長い列ができているのを見て、今日はアポを取るのも難しいかと腹を括る。幸い下宿先へは明日入居する予定で、エンジンシティに宿を押さえてある。少しだけ買い物して宿へ戻ろうか。
お店を物色して、懐かしいお菓子を二つほど買った。それから紅茶を一缶買おうと手にとって、その横の棚にあるものに目を止めた。
パステルカラーの可愛らしいクッキー缶。ガラルポニータが象られている。
私は新居に送った荷物の中に、同じものを持っていた。あの破いた絵が入った缶だ。
頭の中で缶の蓋が開く音がする。
さっと缶から目をそらして、抱えたものをレジに通し、通りへと飛び出す。
帰ってきた。私、ガラルへ帰ってきたんだ。
急に、ガラルが私にとっての現実になった。六年前の地続きに立っているような気分になる。
そんな風に過去に気を取られたのがいけなかった。飛び出した先で体がドンと何かにぶつかった。
紅茶の缶が、石畳に倒れた私の、頭の横を跳ねて行く。それを見て、ようやく私は人にぶつかって倒れたのだと状況を飲みこむ。
慌ててガバリと起き上がれば、向こうも頭を抱えながら身を起こすところであった。
ーービート。
私の思考が止まった。
ウールーみたいなふわふわの癖っ毛、ピンクのコート。その顔を見て、私はせっかく喉元まで謝罪の言葉が出かかっていたのに、ピタリと固まった。
あの、ポニータ缶が今度こそ私の頭の中で開いていく。バラバラになった色鉛筆の絵が、パズルみたいに組み合わさって、一人の少年のシルエットを作っていく。
ふわふわの髪の毛がウールーみたいだって、あの時の私も確かにそうやって思っていた。思っていたのだ。
「人にぶつかったなら、まず何か言うことがあるんじゃないですか?」
ああ、そうだ。この目だ。この目に射抜かれると、何もかも見透かされるような気がして、私は正面から彼を見るのを避けていた。だから、記憶の中の彼はいつも横顔なのだ。
惚けていた私は、言われたことを一瞬遅れて理解し、慌てて立ち上がって手を差し出す。
「あ、あの、大丈夫ですか。すみません。私、よそ見してて」
「いりません。自分で立てます」
私より少し大きな手がのそれを払った。
「もういいです。僕は忙しいんですよ。ジムチャレンジの受付があるのでね。あなた如きに構ってる暇はない」
去っていく背中をぼんやり見つめてしまう。心臓が嫌な音を立てている。軋む。昔の古傷が抉られたような痛みを発して、私はまた動けなくなる。
どうやら、彼は私に気がつかなかったらしい。
長い間そうしていた気がするが、現実には一瞬で、まだ見えてるピンクの背中から目をそらす。
「きみ、きみ、これはきみのだね?」
そこへ後ろから話しかけられた。くるりと振り返る。
ジャージを着たおじさんが、私の落とした紅茶の缶を拾って差し出していた。
「すみません。ありがとうございます」
「いや構わないけれども。前を見て歩かなくてはね」
「ええ、本当に。彼には悪いことをしました」
どうやら見られていたらしくバツが悪いと、そこまで思ってから、はたと気がつく。
このおじさん。この、おじさん。
エツが写真で見せてくれた。間違いない。
「あ、あ、あ、あのあのあの。あの、おじさまもしかして、か、カブさんではありませんか?」
突然の私の慌てぶりに、おじさんの方も少し驚いたらしい。
「ご、ごめんなさい。突然大きな声を」
「構わないよ。確かに僕はエンジンシティジムのジムリーダーでカブと言う」
道ゆく人々の足が止まる。
ああ、こんな往来で名乗らせてしまったと、私は深く恥いる。
「あの、エンジュの母から貴方の話をよく聞かされていて、えっと、私、エンジュの呉服屋のエツの娘で、えっと、その、母からカブさんに預かってきたものがありまして……」
「なるほどエツくんの。そうか。彼女のことは本当に残念だった。うん、そうだね。ついておいで。僕も日課を終えて帰るところでね。ここではなんだから」
カブさんは、ジムとは違う方向に歩き始めた。
裏路地のカフェに入って腰を落ち着ける。
「ここの二階でよくお茶をするんだ。二階は二席しかないからね」
静かに話ができるところへ連れてきてくれたのらしい。
「明日からジムチャレンジなのですね。どうりで町が活気付いていると思いました。エンジンシティは活気のある町だけど、やっぱりこの季節は独特の熱を感じます」
「そうだね。毎年、この季節が来るのをね、僕もいつも楽しみにしてるんだ。今年も強い子がいるといいな。バトルのことを考えるといつも血が沸き立つよ」
ジムチャレンジは数ヶ月かけてガラルを参加者が回り、各地のジムに挑戦してメダルを集め、秋口のファイナルトーナメントの参加権を競う。
各地のジムで参加者を試したジムリーダーもファイナルトーナメントでは全力で参加する。チャレンジの上位者とジムリーダーでガラルのチャンピオン、ダンテに挑戦する権利をかけて競うのがファイナルトーナメントだ。
この時期はガラル中がポケモンバトルに熱狂する。
「君は、ジョウトから遥々ジムチャレンジに挑戦しにきた……ようには見えないけれど、ガラルには詳しそうだ。もしかして、前にも来たことがあるのかな」
カブさんの言葉に私は小さく首を横に振った。
「えっと、エツは養母なんです。なんというか、私自身は十歳までガラルに居て。ジムチャレンジではないけれど、洋服のデザインがやってみたくて、ナックルシティに行くんです」
ナックルシティにはガラルでそこそこ名の知れた服飾専門校がある。
カブさんは一口紅茶を飲んで「エツくんのところは呉服屋だったね。エンジュの着物は鮮やかだったろう」と話す。
カブさんの落ち着いた声を聞いていると、背筋がスッと伸びてくる。古傷に囚われている場合ではなかった。私は私で自身の夢のために戻ってきたんだ。
これから一人でやっていくのだから、ちゃんと自分の足で立たなくては。
「あの、母が生前に書いた手紙を預かってます。それからこれエンジュのお味噌です。枡屋の赤味噌。お土産です」
手紙と一緒に風呂敷包を差し出す。
「ありがたくいただくよ。懐かしいね。子供の頃、正月になると母は枡屋の味噌を取り寄せてね。うちの雑煮は味噌なんだ」
雑煮はジョウトやホウエンでは正月のお祝いに欠かせないものだ。それぞれのうちにそれぞれの味がある。
「エツはいつもにんじんを梅の形に切ってくれました。うちはおもちを巾着にするんです」
「彼女らしい細やかさだね」
そのあとも少しだけエツの話をした。カブさんはエツのいとこで、子供の頃はホウエンに住んでいたのだという。
カブさんは、帰る前にジムをのぞいて行くと言いながら、私をスボミーインまで送ってくれた。
「君はしっかりしたお嬢さんだから、きっとこれからも大丈夫だよ。新しい挑戦は時々苦しいが、その反面いつまでも燃えるものだ。頑張って」
カブさんはそう言って去っていった。
よかったと胸を撫で下ろす。私はちゃんとやってけそうに見えたらしい。

 




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