森の小夜啼鳥が、ことり、と眠りに落ちていくような、そんなしずやかな夜だった。
 そういう夜を行くのは、屍鬼という獣だけ。
 けれど、夏野にしてみれば、彼らはどんな夜であっても行くと言って聞かず、こちらの服の裾を掴んで邪魔をする子どものようであるとさえ思えてならない。
 その夜、月の陽がいっぱいに満ちる寝台の上で膝を抱え、じッとしていた夏野は、窓の向こうに何者かの気配を感じ取って新しいため息をついた。変に人間臭さを残してしまった哀れな獣が、すぐそこでどうしたら良いかわからずに立ち尽くしているのだろう。
 抱えていた膝がくずおれてしまわないように絡めていた自身の腕を解くと、夏野は窓の向こうの――正しくは、窓硝子の向こう側の壁に沿って、きちりと隠れたつもりでいる――かつては、「武藤徹」その人であった獣を呼んでやった。
「……どうせ、そこにいるんだろ。入れよ」
 それでも、その獣は戸惑ったままでいるらしかった。
 決してそうしてやりたいわけではなかったというのに、夏野は何となしに立ち上がり、窓辺へと寄る。音をたてて開かれた窓のすぐもとには、やはり徹が、徹の姿をした獣が、酷い顔をして立ち尽くしていた。
 以前であれば、「何て顔してんの。」と指さし笑ってやれたかもしれないけれど、今はそうとできない。徹のするどんな些細な仕草にも神経質になり、苛立ちばかりが先走って仕方がないのだ。
 それはまるで、伏せたまぶたの内にただ広がる暗闇の中、幾度もちらつくあの真白い光のように鬱陶しいばかり。
「あんた、入るか入らないかくらいははっきりしろよ」
 ただ、「いいから入れよ、徹ちゃん。」と言ってやれば良かったところを、敢えて夏野はそういう言い回しを選ぶ。傷付けるつもりだったのだ。
「ごめん、夏野」
 そうだというのに、立ち尽くしたままの徹はやるせなく、それでいてどこか困ったふうに微笑ってさえみせる。彼はもう一度、「ごめんな、夏野。」と同じことばに今度は断りの意味を込めてから、そッと窓枠を乗り越え、夏野の部屋に入り込んだ。
 徹がそうした後も、夏野は窓辺にからだを少しもたせかけたままで佇んでいた。思い切り、くちびるを噛む。そういうふうにして傷付けた自身のものでさえ、したたるものもなく、痕も残さず、たちまちのうちに癒えていった。
「あんた、今日は何しに家まで来たわけ?」
 今日は家に来いなんて言った覚え、ないんだけど。と振り返るなり、徹にそう問いかける。
 部屋に入っていった徹は、やはりどうしたらいいのかわからなかったらしい。外にいた時と同じで、立ったままでやり過ごしている。
「…………。辰巳が、」
「ああ、何だ。あの人か。何だって?」
「……辰巳が、おまえの様子を見てこい、って」
 言うと、徹はまだ何か言いたげな様子で口を閉ざし、だんまりをした。夏野はといえば、「何だ、それだけ。」なんて、うっかり言いそうになったのだけれど、目の前の徹と同じく口を閉ざしてしまう。
 あの悪趣味な辰巳のことだ。
 どうせ、徹がここへ何度か来ていることに勘付いているのかもしれないし、そうでなくとも、他人と群れるのを厭う夏野が徹とはとりわけ仲が良かったことくらいは耳に入れているのだろう。様子を見に行ってこい、なんて、別に徹でなくたってできる。恵でも、自らでも、誰でも。
「……とんだお笑いぐさだな」
 閉ざしたはずの口から、自嘲的な笑みがこぼれる。
 声を低めたままのそれは、一向に終わることを知らない。とめどなく笑った後で、ようやっと夏野は徹の方へと真っ直ぐに向き直ることができた。
「なあ、あんたもそう思うだろ」
 と尋ねれば、徹はびくりと肩を震わせ、今にも泣き出しそうな顔をして無理に笑ってみせた。「本当にそうだ。」とでも言いたげに。あるいは、夏野がそうと思えるように。
 今度こそ、彼を傷付けることができた。


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