Chasm(in bsr/上杉)|壊れそうな微熱|かすが視点
暗殺が失敗した原因は、ただの力不足だった。
準備を怠ったわけではない。実力が足りなかったのだから、憤りも沸いてこない。
天井から放ったクナイは軽く鞘で弾かれて。
飛び掛って喉笛を掻き切ろうとした私の腕は易々と掴まれて。
そして、畳に身体を押し付けられ、気がつくと私の上に暗殺対象の上杉謙信が乗っていた。
しかし、そこまでは素早かったと言うのに、そこから先は一切動きがなく、一向に刃が降って来ることはなかった。
暗殺に来た忍の末路など決まっている。さっさと殺せばいいものを。
そう思ったが、喉元まででかかった言葉を飲み込んだ。
私は失敗したのだ。生殺与奪は向こうにある。
そうやって言い訳をして、相手の言葉をじっと待つ。
だが、頭上から哀れむような視線を感じて……つい、カッとなってしまった。
「早く殺せ!!」
この体勢なら易いことだろう。
だというのに、怒鳴りつけてなお、相手は動きを見せなかった。
「わたくしをころしにきたのですか」
この男は何を聞いているのか。この状況でそれ以外に何が…。
「それとも、わたくしにころされにきたのですか」
問われ…答えることができなかった。
ゆっくりと上杉謙信が私の上から退く。
その無防備に見える相手に、刃を向けようとは思わなかった。
「おまえ、なはなんというのです?」
訊かれたが答えなかった。
暗殺対象に名を名乗る忍など……心当たりがないわけではないが、普通はしない。
ただただ沈黙が流れゆく。
真摯な、とでも言うべきだろうまっすぐな視線に、心がざわめき、焦がされる。
いつ殺されるとも知れない状況だというのに、それでも構わないのではないだろうかと、誰かが私に囁きかける。
この人にならば、と、私が私を唆す。
「あなたにそれはにあいません」
透き通るような声に、現実に引き戻された。
今……私は一体何を考えていた?
頭を振って、考えを霧散させた。
「虎千代、いる?」
そうしていると、思考に別の声が混じった。
高い声だが男のもの………こんな状況で気配を探ることを怠るなんて…
いや、忍としての才が欠けていることに落胆するのは今更なことか。
そう考えると、自ずと自虐的な笑みが顔に浮かび、そしてすぐに引っ込んでいった。
顔を上げて障子を見遣ると、その向こうに見える影は二つ。とても近い位置に並んでいる。
「あやかしですか」
「うん。入ってもいい?」
「どうぞ」
私がいるというのに、全く気にしない様子で上杉謙信は返した。
その二人を私が殺そうとしたらどうするつもりなのか。
あるいは、忍を相手に遅れを取るつもりはないということか。
端整な横顔からはなにも窺えない。
ゆっくりと障子が開かれ、二人の姿が見えた。
着流し姿の二人は、一人は背が高く、一人は低かった。
両者ともに痩せていて、まるで女のようだと思う。
一寸ほどで切られてしまっている髪を長く伸ばし、女物を身につければ、きっと見ごたえのあることだろう。
背の低いほうは目を固く閉ざしていて、導くように高いほうがその手を引いている。
盲目の方が部屋に入ろうとしたのを、強く隣の男が引きとめ、そして私を見た。
「もう一人」
説明はそれだけだった。
もっと言うことがあるだろう。
忍がいるから危険だとか、武器を持っているとか、容姿の特徴とか………。
しかし、盲目の男は端的すぎるその説明に苦言を呈することはなかった。
「ほかに誰かいるの?」
きっとあの背の高い男はいつもそんな調子なのだろう。追求の矛先は、上杉謙信へと向いた。
さてなんと私のことを説明するつもりなのか。
一度だけ上杉謙信は私を見て、そして盲目の男に向き、答えた。
「まよいごがひとり」
「迷子?」
………城の天辺で迷子はないだろう。
だというのに、この男ときたら…、
「そっか。名前は?」
などと暢気なことを言い出し、今度は隣の男は何も言わなかった。
呆れているのかとも思ったが、ただそこには無表情があるだけ。そこには感情の一切が浮かんでいない。
無機質すぎるその目を見て、思わず手を握り締めた。
「おしえてはくれないのです」
「ふぅん」
明らかな不審者だ。
さすがに盲目の男は眉を寄せた。寄せたのだが……その理由は私の思っているものとは大きく異なっていた。
「そうなると、なんて呼べばいいのか困るね」
「そうですね」
「まあしばらくは迷子さんでいいか」
私に対する疑問はそれで解決したらしい。
「こんばんは、迷子さん」
挨拶をされて、反応に困った。
私がおかしいのだろうか。
段々と自分の常識が疑わしくなってくる。
そんな私を他所に、二人は話を進めていた。
「ところであやかしはなにをしにきたのです?」
「虎千代。ご飯、まだ食べてないでしょ」
「そうですね。わすれていました」
「食べないと、また景綱さんに怒られるよ。
迷子さんの分も持ってくるね。行こうか、シャミ」
それだけ言うと、二人は再び廊下へと戻った。
…まさか本当に私の分まで用意するつもりなのか?それともこれは新手の罠なのか?
じっと睨むように上杉謙信を見ていると、ああ、と思いついたように声を漏らした。
「あれはあやかしとそのかげです。いつもはてらのほうにいるのですが」
「…僧侶がなぜここに?」
「さあ?」
…………さあ?
城主なのに把握していないのか?
「たまにこうやってふらりとやってくるのです」
二人の関係とは何だろうか。
浅くはないのだろうが、調査の段階では上がってこなかった。
暗殺対象の身辺を洗うのに見逃すなど……いよいよ本気で忍を廃業すべきかもしれない。
打ちひしがれていると、再び障子の向こうに気配を感じた。
器用なことに、無表情な男の方が膳を四つ腕の上に重ねてもち、盲目の男の方は袖を掴んで後ろについて歩いている。
これなら二人で行く必要はなかったのではないのか?
あまり効率的とはいえない行動を取った二人に首を傾げる私の前に二つの膳が並ぶ。
一つは上杉謙信の前に。もう一つは私の前に。
そして膳を並べ終わり、出て行こうとする二人を上杉謙信は引き止めた。
「あやかしとかげも、ともにどうですか?」
盲目の方が迷った様子を見せたが、決めるまでそれほどかからなかった。
「それじゃ、お言葉に甘えて……今日は竹の子の煮物が美味しいらしいよ」
「それはたのしみですね」
まるで私のことなど意に介さない…いや、むしろいるのが当然と受け入れているような空気を感じ、
ようやくここで私は、この場に常識的な人間がいないということに気がついた。
食事が終わると、あやかしと呼ばれた者は現れた五月蝿い男、直江兼続に引きずられるようにして下がっていった。
その後を無表情な男が器用に四段膳を重ねて運んで後を追いかけたため、私は上杉謙信と二人部屋に残された。
「貴様、私を絆すつもりか?」
私のことなど気にせず書き物に戻ろうとした上杉謙信に問いかける。
いいえ、と首を振る。
優雅な動作が、心を波立たせ…それを振り払うように声は自然と大きなものになった。
「私を馬鹿にしているのか!」
「ばかになどしていませんよ」
「暗殺にきた忍にこうやって施しを与えるなど、正気とは思えん!」
出された食事は慎重に口に運んだけれど、毒など一欠けらも盛られていなかった。
「しょくじはおおぜいのほうがたのしい、とあやかしがいっていたので、じっせんしてみただけです」
なんと馬鹿馬鹿しい理由だろう。後付けもいいところだ。
鼻で笑ってやるものの、表情に動きは見えない。
それが腹立たしく、ついご法度と分かっていながら、口は動いていた。
「その強がりもいつまでも言えるものか」
「あにうえなのでしょう」
目を見開いたのは失敗だった。
それだけで、相手は確信を得てしまったらしい。
「わたくしをころそうとするものなど、そうおおくはありません」
「………なら大人しく殺されるか」
「そうですね。それもいいかもしれません。
なにしろ、わたくしはあなたにこころをとらわれてしまいましたから」
上杉謙信は立ち上がり、そして私に歩み寄る。
吐息が絡むほどに端正な顔が近づき、けれど決して私に触れることはない。
上杉謙信の細い指に金糸が絡み、そして滑り落ちる。
「あなたはしのびらしくありませんね」
里長からも、同僚からも散々言われたその言葉。
感情を出しすぎると。心を殺せといわれ、けれどどうしてもそれをすることができない。
「とてもよいことだとわたくしはおもいます」
その微笑みに思考は蕩け、気がつけば差し出された手に指先を乗せていた。