Chasm(in silver soul/京都編)|青と蒼のあいだ|高杉晋助視点
最初に目に入ったのは格子越しの空の青さだった。
真四角の窓から入る日の光はしっかりと部屋の輪郭を浮かび上がらせている。
あまり広くなく、言葉よく言えば質素。悪く言えば貧相。さらに正確さを追求するなら襤褸だった。
馬小屋よりはマシだろうが、人の住んでいる形跡と言うものが窺えない。
今俺が寝かされているのも、布団などではなくゴザ。それも使い込まれて擦り切れている。
嫌な臭いがついていないだけマシといったところだ。
どうしてここにいるのか。
それを考えた瞬間に意識は覚醒し、手元にあった刀を握り身体を起こした。
急に起き上がったからだろう。頭が重く、視界が狭い。
視野の狭さは、自分の左目が包帯で覆われているからだと分かった。
「気がついた?
そんなにいきなり起き上がらないほうがいいよ」
恐々とする俺とは違い、柔らかな声が俺に降りかかった。
声だけでは男か女か判然とせず、姿形は逆光で影しか分からない。
背が低く、華奢。分かったのはそれだけだ。
「テメェは…」
「さぁて、誰だろうね。
とりあえず瀕死の君を介抱した恩人であるのは確かだけど」
どうだかな。
そうそいつの言葉を疑いつつ、状況を確認する。
見たところここは牢ではないから、そいつが幕府の人間でないのは確か。
幕府の人間なら、俺は鉄格子の中に放り込まれているか、拷問でもされているか、或いはあの世にいるか……と、そこでようやく冷静さになった脳が違和感を覚えた。
確か俺は、幕府の奴らから逃げる途中で大怪我を負ってたはず。
だというのに折れていた腕は真っ直ぐで、掻っ捌かれたはずの肩は痛みすらない。どてっ腹に銃で開けられた穴まで塞がってやがる。
こりゃ……一体どういうことだ?
全身の筋を僅かに動かし、体中を確かめるが、何処を探っても怪我等一つも見当たらない。
「それとここは僕の家…といっても、勝手に借りているから厳密には違うか。
とりあえず何か飲む?三日眠り続けだったから、喉とか渇いてるでしょ。
大丈夫。毒なんか入ってないから」
そいつが動いたことで、光の加減が変わり、その姿をしっかりと見ることができた。
居たのは男だった。
それが男だと確定できたのはその格好ゆえのもので、もしも女物を纏ってでもいれば女だと思ったことだろう。
髪は黒だが……何より特筆すべきは、その顔につけられている赤い隈取のされた狐の面だ。
昼間とはいえ、明かりがなく薄暗い部屋の中でぼんやりと浮かび上がるそれはとても不気味で、
「テメェ……銀時と一緒に居た野郎だろ」
そしてその狐に、俺は見覚えがあった。
予想は的中したようで、俺に水を渡すその手がぴくりと止まった。
男の僅かな動揺を捕らえ、俺の口角は自然と吊り上る。
浮かせていた腰を粗末なゴザに戻し、いつでも抜ける位置に刀を置く。
不可解な状況。
見知らぬ人間。
それらの要素が揃っていると言うのに警鐘が鳴らなかったのは、その所為だったのかと、俺は納得した。
「よく覚えてたね。一ヶ月ぐらいしか松陽の寺子屋にはいなかったのに」
「そんなけったいな面をつけてるヤツなんか、一生でそう会うもんでもねェよ。
それに…忘れるわけがねェ。
アンタの中の獣はいっとう静かだったが、ちらりと見えたその牙は、今まで出会った誰より鋭かったからなァ」
「褒めてもらえているのかな。僕には褒め言葉に聞こえないけど」
「俺ン中じゃ、最大の賛辞なんだがなァ」
差し出された欠けた茶碗を受け取り、俺は中の水を一気に呷った。
喉を伝う冷たさが俺の中で広がり、侵食し、熱を冷ましていく。
「何でそんなふざけた面なんざつけてんだ?」
「趣味…かな」
「そうかい」
男の酷い言い訳に、俺は喉で笑った。
それが不愉快だったのか。男はくるりと俺に背を向ける。
いつでも刀を抜けるってェのに、隙だらけもいいところだ。
だが、俺はテメェの背中なんかに興味はねェ。
「俺ァてっきり、テメェが年取らねぇのを誤魔化すためだと思ったんだがなァ」
言うと、男は俺を勢いよく振り返った。
仮面の向こうから注がれる視線は、心地よいほどに鋭い。
あの時と同じく僅かに見えた牙は、ぞっとするほどに冷たく研ぎ澄まされていた。
「年ってェのは何も顔にだけ出るもんじゃねェ。
徹底して隠してェんなら、耳以外全部隠すことだ」
「そうだね。今度はそうしようかな」
しかし牙はすぐに仕舞われてしまった。
残念だと、俺は心の底から思った。
俺は刀を抜いて、そいつの首に突きつけた。
時を経ても変わらぬ風貌。
たまに年齢にそぐわない外見の持ち主というのはいるが、この目の前の男のそれは異常だ。
ならば、最も簡潔で、最も整合する結論が、俺の中で瞬時に弾き出された。
「テメェ、天人か?」
「いいや。僕は人だよ。尤も、こんな状態じゃ人とは言いがたいかもしれないけど。
いや…定義次第では、僕も天人といえるかもしれない」
「そんなことを俺の前で言うたァ…命知らずなこった!!」
言葉と同じくして俺は刀を大きく振りかぶり、一気に首めがけてそれを振り下ろした。
だが、刃は首を刎ねるどころか、髪一本切り裂くことはできなかった。
「君には恩を返すとか、そういう発想は無いのかな」
肩で切りそろえられた髪の寸前で止まった刀は、どれだけ力を込めようとそれ以上先に進めることができない。
そんな俺に、男はふっと、仮面の下で嗤った気がした。
「君に僕は殺せない。次に同じことをしたら、君には死んでもらうよ。
邪魔だからどいてくれない?」
途端、俺の身体は後ろへ吹き飛ばされた。
俺の身体は勢いよく土間の扉に背中を打ち付けられ、息が詰まるほどの衝撃が身体に掛かった。
呼吸が整わない。
目が霞む。
意識を半ばどこかに持っていかれた俺に、男は穏やかな声で続けた。
「君は僕には勝てない。けど、勝つ必要も無い。
僕は人と認定するには程遠い存在かもしれないけれど、君が敵対していた天人とも違う。
あんな失敗作と一緒にされるなんて、虫唾が走るね」
それに、とそいつは続け、
「幕府も人も、僕には興味が無い」
きっぱりと、男は言い切った。
「とりあえず、今しばらくは休むといい」
男の言葉に誘われるように、眠りたくもないというのに頭に霞がかかり、そして意識が途絶えた。
次に目が覚めたとき、男は俺の傍に横になっていた。
まあ、元々狭い部屋だから、距離を開けようにもそう広く間は取れないだけだろう。
その代わりと言ってはナンだが、俺と男の間に、男を守るように三毛猫が一匹横になっていた。
寝ているというのに仮面はそのままで、俺の忠告を受けてなのか、両腕両足、そして首には包帯が巻かれていた。
あんなことがあったというのに、刀は俺の傍に置かれたまま。本当に無防備にも程がある。
まァ、あの理解不能な力の裏づけがあるからの自信か、と結論付け、男が目を覚まさぬようゆっくりと立ち上がり、刀を携え入り口に向かった。
すると、そこにはまるで外に出ようとする俺の前に立ちはだかるように、既に三毛猫がいた。
いつの間に移動したと言うのか。それも俺の気付かぬ間に。
勘でも鈍ったか、と思うと同時に違うと即座に俺の中で否定の声が上がった。
"感づけるわけがないのだ"と。俺が俺自身に言い、それに俺がどこかで納得をしている。
葛藤する俺の目の前で、猫は出入り口からひょいと窓の傍の台に上がった。
窓の外を歩くのは幕府の人間。
「外に出るなってェことか?」
猫に問いかけると、ナアと、本当に俺の言葉を理解しているように小さく鳴いた。
精巧なカラクリかと観察するも、それはどう見ても猫で、触れれば暖かさがあり、白い毛に覆われた胸は確かに鼓動を刻んでいる。
俺が触れることは気にも留めず、俺の睥睨などモノともせず、手持ち無沙汰な風に猫は尻尾を揺らすばかり。
目の前に居るのが猫ということ以外に何もわからず、それ以上猫を調べることは止めて、外に視線を移した。
どうやらここはまだ江戸の町の中らしい。人の往来は少ないが、定期的に幕府の人間が通りかかる。
何かを真剣な様子で話し合っているが、距離があるせいでその内容までは掬い取れず、口の動きは上手い具合に隠れてしまってわからない。
苛立ちながら外を窺っていると、後ろでごそごそと、男が起き上がる音がした。
「シャミ」
背後から掛けられた鈴の鳴るような声に従い、猫は俺の目の前から男へと走り、慣れたように男の肩に登って頬に擦り寄った。
「シャミってェのか、その猫は」
「正式にはシャミセンだよ」
「そらァ、随分と洒落の利いた名前だな」
毛並みもいいから、いい素材になることだろう。
そんな俺の言葉の裏側が伝わったのか、男は苦笑して猫を撫でる。
すると猫はまるで男に囁きかけるように男の耳を舐め、途端、男の声は固くなった。
「河原に、君の元部下の首が晒されたらしいよ」
男の言葉に頭がざわめいた。
脳の血管という血管が沸騰し、目の裏側が泡立つ。
自然と拳はきつく握り締められ、ぬるりとした感触が指先に残った。
「僕は出かけるけれど、君はどうする?
君一人、隠すことは僕にとって訳の無いこと。行くのなら今にして」
男のその提案に否はなかった。
注意を受けたのは一つ。声を発するな。それだけだった。
だというのに、誰一人として、俺と、肩に猫を乗せた男に気付くものがいない。
腰に刀を下げた幕府の狗共が、俺らの横をすり抜けて行く。
どういうカラクリかは分からねェが、確かに男の言ったとおり、俺たちを丸ごと透明人間にしてしまっていた。
消えた怪我。
人語を解する猫。
そして今の状況。
不可思議なことが立て続けに起こり過ぎているせいか。
或いは男のもつ特有の空気のせいか。
それら全てをそういうものとして、俺は受け入れていた。
橋までまだかなりの距離があるというのに橋の上に黒い人だかりがあるのが分かり、彼らが視線を注ぐその先に…あいつ等が並んでいるのが見えた。
どれもこれも、安らかとは言いがたい顔で、台の上に並んでいる。
顔の泥や涙、唾液…それらが凝り固まったそれを拭うことさえされず、苦悶の表情を浮かべ、目が半分開いていたり、中には舌が出ている者までいる。
沸々と体中に怒りが滾るが、ここで事を起こしてはならないと、奥歯をかみ締め自制する。
そう、ここで騒ぎを起こしてはならない。
わかっていたのに見張り役らしい男の顔を見て、それが見覚えのありすぎる顔で、目の前が真っ赤になった。
そこから先は全て無意識の行動。
姿勢を低く構えたのも。刀の柄を握ったのも。駆け出そうと足を踏みしめたのも。
押し留めたのは、あの男に刀を振りかぶったときと同じ、不可思議な力。
鞘と刃が一体になったように、刀が抜けない。
まるで縫い付けられたように、体が動かない。
全てが停止した中で、俺は呼吸すら見失った。
「早まらないでよね」
怜悧の灯る声が俺の脳に一瞬にして染み渡り、全身に冷静さを取り返させた。
じわりと柄を握っていた手を緩めるように指先に指示を下すと、失われていた全てが手中に戻った。
だが、湧き上がった怒りは消えることなく、静かさと激しさという背反する色を保ったまま、俺の中で燻り続けた。
「ヒデェ話じゃねェか…。
俺たちは国のために刀を取ったっていうのに、あの人の志を継いだ俺たちを、幕府の奴らはあっさりと裏切りやがった。
誰よりもこの国を憂いていたあの人を、俺たちに生きる術を与えてくれたあの人を、この世界はあっさりと奪っていきやがった」
人の居ない畦道で、俺は夕日に吼えた。
誰に聞いて欲しかったわけではない。
けれど、言葉にでもしなければ、感情の任せるままに爆発してしまいそうだった。
憎い。
全てが憎い。
何もかもが憎くて堪らない。
俺を裏切った全てに、俺の中で憎悪が膨れ上がっていく。
人。幕府。国。世界。
俺の最も大切なものを奪い去って平然としている何もかもに、斉しく敵愾心を燃え上がらせた。
「君はこれからどうするの?」
掛けられた声は、凛として冷たく、けれど突き放すような色は伴わずに、俺に響いた。
「幕府に乗り込んでも捕まって終わり。
まあ、君は頭が良さそうだから、そんな直情的なことはしないだろうけど」
「…テメェはどうするんだ?」
「僕?僕はこれから世界を壊すよ」
あっさりと言い放つそれは、声色に似合わない、けれど確かな意思を持ったものだった。
「随分とご大層な夢だな」
「夢じゃなくて、確定事項。僕も大概派手なことが好きだからね。君好みのやり方だと思う」
「そりゃ…俺を誘ってるのか?」
「そうだと言ったら?」
交差する視線。挑戦的な光が、仮面の向こう側から俺に絡まりつく。
憤怒や憎悪とは違う何かが、俺の中で巡り始めた。
「幕府がどーでもいいとかいった割には穏やかじゃねェな」
「そうだよ、幕府なんかどうでもいい。人には更に興味が無い。
僕が喧嘩を売るのは世界だからね。
天人も、人間も、関係ない。僕は……この世界が憎くて仕方ない」
それは男の涙無き慟哭であり、男の中で憤激しのた打ち回る獣の唸りだった。
会ったときから感情らしい感情を見せなかった男には、俺の見込んだとおりの激情が潜んでいた。
幕府にも、人にも恨みは無い。けれど世界は恨んでいる。
一見矛盾しているように見え、しかし根本的には何も間違っていないように感じられた。
そして、この男ならやってのけるだろうと、俺にははっきりとわかった。
世界を黄昏色に染める。この男とならできると、確信できた。
「高杉晋助だ。次に君なんて呼び方したら、ブッた斬るぜ」
「それは気をつけないと。僕は東条叶。よろしく、晋助」
「手ェ組むんだ。顔ぐらい見せやがれ」
「それもそうだね」
男は仮面に手を掛けて、あっさりとそれを外して俺に見せた。
俺よりも遥かに年上のはずの男の顔は、やはりというべきか酷く幼い。
浮かべる表情は菩薩のように穏やかだと言うのに、角度を変えれば修羅になるだろうことは容易に想像できた。
そして男の左目は、俺と同じく包帯で覆われていた。
俺がその目の方を凝視していたからか、眉尻を下げて男は言った。
「こっちは、本当に見えないんだ。君とおそろいだね」
「野郎と揃いなんざ、嬉しくねェな」
「そう?僕は君みたいな色男と同じって結構嬉しいけどな」
互いに浮かべるのは少し質の違う微笑。
まるでこれから歩む破壊と破滅の道のように、俺たちは緋色と漆黒に艶やかに染まっている。
あの人を奪ったこの腐った世界を…打っ潰してやろうじゃねェか。
狂乱の宴を彩るように、徐々に色は濃さを増し、全ては闇に飲まれた。