Chasm(in silver soul/ミツバ編)|傍とは隣と同じことですか|土方十四郎視点
全てが終わった。
転海屋に与した連中の捕縛も、蔵場当馬の引渡しも、騒動の後始末も、そして……
「辛ェ…」
口の中に巻き起こる辛味を通り越した突き刺さるような痛みで思わず呟いた。
手術の結果は聞いていない。
医者の表情を見れば、聞かずとも分かる。
今はきっと集中治療室で総悟と話をしているのだろう。
きっと二人とも、俺の顔なんて見たいはずがない。
そう思って一人、屋上の手すりに寄りかかり、ぼんやりとしていた。
口寂しいがここは病院。
屋外だと言っても当然禁煙で、仮にも公僕がルールを破るわけにはいかないから、と代わりに口を運んだのは激辛せんべいだった。
微かに俺が咀嚼する動作に外れて煎餅を砕く音が聞こえるような気がするのはきっと気のせいだろう。
辛さで生理的な涙が浮かぶ。
「鬼の目にも涙か」
真横から声が聞こえ、体ごと横を向こうとした。
だが、無理だった。身体がまるでマネキンにでもなったかのように硬直して動かない。
手だけでも……無理だ。動かない。
首だけでも……無理だ。動かない。
目の横になにか冷たいものが押し付けられた。
反射的に眼球を動かして追いかけ、人の指先を捉えた。
「狐ッ……」
赤い隈取の面をつけた男が、器用に手すりに座っていた。
片膝を立て、もう一方の足をだらりと下げている。
「てめ……」
「害するつもりはない」
「はいそうですか、って納得できると思うのか?」
「だとしても、指一本満足に動かせない貴様に、一体何ができる」
狐は俺の手から激辛煎餅を奪い、口に運ばず屋上から投げ捨てた。
「臆病者」
狐は俺を見据えて言った。
「貴様が恐れているのは、置いていくことではなく置いていかれることだろう」
「……んだと?」
「人は移ろい易く、そして儚い。
三歩歩いて石に躓いて頭を打つかもしれんし、茶屋で一休みをしているところに突然車が突っ込んでくるかもしれん。或いは道を歩いていて見知らぬ誰かに刺されてしまうかもしれん。
天寿を全うできる人間なんて極々少数。ある日死んでしまう可能性は誰しも抱えている。
単に貴様は人より怪我を負い易く、日常より戦場で死ぬ確率が高いだけのこと。そんなことは、人を遠ざける理由にはなりえん。死を恐れるのならば、人は己が好ましく思う人間全てと距離を置かねば道理に合わん。
何より貴様は強い。大概の事態を、その頭脳と剣を以って自力で打開できる程度には、な。
例えばあの女が誰かに攫われて人質にでもされれば、誰より冷静に冷徹に事に当たって解決することだろう。もとより、そんな事態が起きぬよう頭を捻り最大限の彼女の安全を図ることぐらい、訳の無いことのはずだ。
或いは、貴様が味方の居ない四面楚歌に置かれることもあるかもしれない。けれど、やはり同じように全身全霊全力を以って、貴様は事態を切り抜けることだろう。置いていってしまうことは、やはり恐れていない。恐れる必要は無い。貴様は最強ではないが、弱くは無い。強い部類に入ると自負しているのだろう?誰より強く、死は覚悟し、しかし自らが命を落とす心配はしていない。
貴様が誰より何より恐れているのは、あの女が自分の目の前で死んでしまうことだ。
あの女が戦っているのは攘夷浪士でも、天人でもない、病だ。貴様の頭脳を以ってしても、貴様の剣を以ってしても、倒すことのできない強敵だ。どうしようもなく貴様にとって無力な相手と、あの女は戦っている。そして、医者ですら彼女を救う方法を見出せないのだから、戦いの終わりには女の死しか見えてこない。だから貴様は女から逃げた。
小さい、小さい」
狐はせせら笑った。
「違う」
「違うものか。惰弱なことだ。
置いていかれるのが怖くて怖くてたまらず、貴様は女に置いていかれるより前に女を置いていった。
日に日に弱る女を見るのが厭で、血を吐き苦しむ女を目に入れるのを憚り、頬を痩けさせ死の臭いが漂う女から遠ざかり、未だ快活であった頃ばかりを脳裏に焼き付けて、死に近づきながらも生きようとする女から目を逸らす。これが逃避でなくて、一体なんだというのだ。
鬼の副長が聞いて呆れる。
女の幸せを願いながら、女を不幸にしているのは他ならぬ貴様だ。そして自身でそれに気づいていながら、それでも認めようとしない。
なんと女々しい。
女と共に戦うこともせず、病と戦う女を支えることもせず、己の無力さを体のいい言い訳で覆い隠し、少なくとも距離を置けば女を失った時の自らの打撃を軽減できるとして逃避するとは。
器の小さい話だ。失笑すらも沸き起こらない。
まあ、貴様の精神の薄弱さを鑑みれば、その行動も無理からぬことか」
そうして、と面の向こうで狐が哂ったような気がした。
「そうして、最後まで総てを傍観し続けるといい」
狐の身体がふらりと傾ぎ、欄干から後ろに倒れるようにして屋上から飛び降りた。
直後、金縛りから解放され慌てて落下地点を見下ろす。が、地面には何の影もない。
どういうことだ?
疑問ばかりが頭をめぐる。
狐はどこに行った?何故消えた?どうやって?
どうしてここに来た?何をしにきた?
話をしにきただけなのか?
何でアイツのことを知って………
そこまで思い至った所で、気づいてしまった。
この下に、何があるのか。
真っ先に思いつくべきだった。だが、それをしなかったできなかったのは。
思考がまとまるより前に、転がるようにして俺は階段を駆け下りた。
すれ違いざまに医者か看護師か、どちらかを突き飛ばしてしまったが、謝っている暇も助け起こす暇もない。
狐は、アイツの話を延々とし、言った。
"最後まで総てを傍観し続けるといい"
それはつまり。
嫌な事ばかりが頭を巡る。
目的の場所に近づくに従って鼻につく火薬の臭い。
気ばかりが焦って、足がもつれる。
そうして廊下を駆け抜け、黒い人垣に辿り着いた。
そこにあったのは物々しい空気。
刀を抜いていない奴は誰一人としていない。その先頭にいるのは総悟で、形振り構わず目を血走らせて刀を振り回している。
他の奴もバズーカ、手榴弾、斧。なんでもいい、とばかりに"破壊"ができそうな物を手にして。
集中治療室の中にいる狐を見ていた。
「副長!狐が!!」
俺に気づいた山崎が悲鳴で、全てを悟った。
さっきまで手術をしていた集中治療室の中にはアイツがいて。その隣には狐がいた。
「姉上ッ!!」
総悟が集中治療室の扉に斬りかかる。同時にぬるりとした液体が頬についた。
視線を落とせばそこにあったのはボロボロの刃と、それを素手で握り締めたまま我武者羅に、癇癪を起こした子供のように扉に殴りつける総悟。
刀の柄も、鍔もどこにもない。
斬って。
斬って斬って斬って。
斬って斬って斬って斬って斬って斬って折れて、それでも斬って斬って切って機ってキってキッてキッテきって斬って。
斧を振り下ろし。
バズーカを打ち込み。
手榴弾を投げつけ。
俺も気づけば、総悟と同じ状態になっていた。
一度刀が折れて。刃を握って。斬りかかって。折れてまた拾って斬って。
肉を切って骨に達して、腕はとっくに痺れて感覚もなくて、それでも止めずに。なのに。
「何で……何で壊れねェんでィ!!!」
苛立ちのままに総悟は、もう半分になってしまった刀を、集中治療室のガラス窓に投げつけた。
ガラスには、傷ひとつない。
直後、爆音が響いた。
外から誰かが砲撃したんだろう。
だが。もう誰もが予想していた通り、やはり窓は割れなかった。
汚れ一つ、傷一つ、切欠一つ、ありはしない。
「さっきまで、中にいたんでさァ。あそこに。姉上の側に。なのに気づいたらココにいて。俺の、場所は」
呻くように総悟が言い、無茶苦茶な動作でガラス窓に殴りかかった。
ガラス窓はびくともしない。振動もしない。
ただの薄い鉄。ただのコンクリートの壁。ただのガラス。
「なんで…、なんでなんでィ!」
涙を流しながら、ガラス越しに狐を睨みつける総悟。
おかしいのはわかっていても、どうしようもない。
無力感に苛まれながら、それでも何か……と思った所で、ようやく部屋の中に動きがあった。
集中治療室の中では、横たわるアイツの口がわずかに動いているように見えた。
何を話しているのか。唇の動きが少なすぎて、全く読みようがない。
そうしているうちに、狐が片手でアイツの胸ぐらを掴むと、乱暴にその身を起こした。
華奢な背中に、気だるげに傾ぐ頭。
「姉上を離せッ!!!」
それを見た総悟が、目を血走らせながら絶叫する。
総悟がガラスを力強く叩くが、びくともしないどころか、音も鳴らない。
そしてそれは起こった。
「姉上ェッ!」
アイツの背中から、真っ赤な手が生えた。
集中治療室のガラスが、ぱっと緋色に染まる。
斜めに鮮血が飛び、そして重力を思い出したかのようにたらりと垂れ下がる。
「……殺してやる」
あらん限りの憎しみを総悟は狐にぶつける。
「殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやるッ!!!」
薄黒い感情の渦が吹き出す総悟。
窓ガラスに拳を打ち付け、そればかりを繰り返す。
狐の手は窄まり、ゆっくりとアイツの身体から引き抜かれた。
そして狐は起こした時と同じように乱暴にアイツをベッドに放った。
狐は俺達に背中を向け、そして窓から飛び降りた。
と同時に、総悟が拳でガラスが割れた。
制服が破れるのも構わず、総悟はそこから中に飛び込み、アイツに駆け寄る。
それをオレはすぐ真横で見ていた。
「姉上!!」
殆ど涙声で総悟はアイツの横に膝をつき、その身体に縋る。
その胸は真っ赤に染まり、辺り一帯が血塗れで。考えられるのは絶望で。
外からは、近藤さんの怒号と隊士たちの怒りが渦巻いているのが聞こえる。
「俺……は、目の前にいたって、何にも……」
嗚咽に潰れて、総悟の声は聞こえなくなった。
ぴたりと、総悟の動きが止まった。
ゆらりと立ち上がり、窓の方に駆け出そうとし……声が聞こえた。
「そー…ちゃん?」
聞こえてきたのは希望だった。
「あね、うえ?姉上!?」
俺も目を見開いた。
よくよく確認すれば、確かに胸は真っ赤に染まっているが、胸には穴どころか傷ひとつなかった。
服には穴が開いているのだから目を背けるべきところなのはわかっている。
だが、目を離せば今の光景が嘘になってしまうような気がした。
「痛いところとか、苦しいところとか、おかしいところはありませんか!?」
「おかしいの」
「どこがですか!?」
「違うの、そーちゃん。さっきまで、凄く苦しかったのに…体が重くて仕方がなかったのに、今は凄く体が軽いの」
「…え?」
本当だった。
さっきのが嘘で、今のが本当で。でも本当は。
頭ン中がぐっちゃぐちゃで、気が抜けて……ミツバと目線が合った。
「十四郎さん?」
そう、目線が合った。
情けなく腰を抜かして床に座り込んだ俺は、ちょうどミツバと見つめ合う。
「はは……ははははは…」
乾いた笑い声が治療室に響く。
頬を流れる雫が、少しだけ床を濡らす。
「……よかった」
心の底からの声だった。
細い指が目尻に触れる。
それはとても、暖かかった。
信じられない。医者は開口一番そう言った。
精密検査を繰り返すが、結果は変わらない。
診断結果は至って健康。やや貧血気味。それだけだった。
「………アイツと…何を話してたんですか」
検査が終わり病室で休むミツバに総悟が聞いた。
俺もまた気になっていたことだ。
ミツバは視線を巡らせてゆっくりと口を動かす。
「何…だったかしら。死にたいかって、訊かれたことぐらいしか覚えてないわ」
お礼を言わないと、とミツバは言う。
俺達は何も言えなかった。
「寂しい声の人だったわ」
ミツバはそれだけ言うと、静かに寝息をたてはじめた。