Chasm(+ Sasuke & Kicho in ss)|闇は深いかい恐ろしいかい|濃姫視点
佐助と二人出て行ったっきり何日も帰ってこなかった上総介様は、何事もなかったかのように、ふらりと帰ってきた。
「お戻りなさいませ。」
そう、戦国の世と同じように平伏して迎え入れれば、やや間があってから小さく"ただいま"と返事があった。
一度奥へと引っ込んで白湯を持って上総介様の近くによれば、かすかに香るのは嗅ぎ慣れた血と硝煙の混じり合ったモノ。
それを指摘するべきかどうかを迷って…結局何も言わないままに白湯を差し出した。
「あの忍びはいかがいたしました?」
「佐助ならもう少しで戻ってくるんじゃない?」
「さようで…ございますか。」
尾張にいた頃にはあまりお見せになられなかったような、安らいだような笑みを見て、胸が酷く締め付けられるようだった。
天下が欲しいとそう言ったあの言葉の裏側には、心の平安が欲しいという声が聞こえたような気がした。
あの頃は蝮の娘としての矜持や、使命といったものにただただ必死で、その上総介様の願いが叶った先というものにまで思いを巡らせることができなかった。
紆余曲折を経て、天下とは違う形で上総介様は得難かったモノを手に入れられた。
それは非常に喜ばしいことであるのに。あったというのに。
心の底から喜べないのは、果たして何故なのだろうか。
「"上総介様"。」
「…うん?」
「あ…………いえ。なんでもありません。」
そう呼んでしまうのは、恐ろしかった日々を懐かしくも思っているから。
あの忍びとは逆に、上総介様を求めてしまう。
それが心を遠ざけるとわかっていても、どうしてもその呼び方を変えることが、未だにできずにいた。
「ただいま戻りましたっと。」
裏から聞こえた声に、体がびくりと反応した。
「おかえり、佐助。意外に時間がかかったね。腕でもなまった?」
「ひっどいねぇ。がんばってきた俺様へのねぎらいは?」
「おつかれさま。これで春雨への牽制は十分だ。」
私の知らない話をする二人が嫌で、冷めてしまった白湯を交換すると言って奥へと引っ込んだ。
政に女は不要…なんていうのは他国での話。そんなことで上総介様は差別はしない………だから、今私が話の外に置かれているのは、私がその話に不要と言うこと。
なんと歯がゆいことかと、気づけば爪が白くなるほどに着物の裾を握りしめていた。
猿飛佐助。元は真田の忍び。けれど今は上総介様を支えている存在。
頭では分かってはいても、心がついていかない。
忍びに負けたのだと、私が私に囁く。
「姫さん。」
すぐ近くから聞こえた声に、はっと顔を上げた。
見えたのは、憎らしい忍びの顔。
「叶が呼んでる。」
「も、申し訳ございません。」
慌てて上総介様の側によれば、ぐいっと腕を引かれ、そのまま胸の中へと閉じ込められた。
目を白黒させながらも、その唐突さが恋しかったのだからどうしようもない。
「帰蝶。この世界をどう思う?」
囁かれた問いに、頭を必死に回転させて口を動かす。
「砂上の楼閣かと。」
「というと?」
「人々は平和と便利さを享受してはおりますが、その地盤となっているのはなんとも頼りなく脆いモノ。
だというのに、その脆弱さからは目を背けている姿は…いっそ哀れかと。」
「言うねぇ。」
そう、忍びが茶化してきて、けれどそれ以上は何も言わなかった。
それが上総介様が忍びを睨んだからだと、なんとなくわかった。
「退屈な世界だ。」
私を抱いたままに、上総介様が囁く。
「濁り、腐り、澱みきっている。
あれはもう、必要ない。」
あれ…というと。
「幕府を、どうなさるおつもりで?」
問いかければ、上総介様がお笑いになられたのがわかった。
「決まっているだろう?
下準備はすでに済んでいる…あとはじっくり、仕上げるのみ。」
その一言で、上総介様のお心ははっきりと伝わってきた。
腕の中で仰げば、"上総介様"の自信に満ちたあの笑みが映る。
「帰蝶。君はどう……………いや、この問いかけはおかしいね。」
"上総介様"が命じる。
「ついてこい。」
地獄へと。
再び修羅になれと。
囁かれた言葉は厳しく、けれどどこまでも甘美だった。
message:いえね、もう、佐助に若干(?)べったりな信長様を見たら濃姫様がどんな反応をするのかドキバクです。