Chasm(Another/IF)|さくらんぼ溺れるソーダ|真田幸村視点

 兄貴は本当に、兄上の扱いが上手い。

 兄上の部屋から離れ、確実に声が届かなくなったところで、信勝が俺に言ってきた。

「それはどういう意味だ?」
「まんまだよ。上田城の守備、任せられたんだろ?」
「ああ。そのことならば問題ない。一切を引き受けてくれるとのことだ」
「…ありえねぇ」

 何がありえないのか。とんと見当が付かない。
 首をかしげていると、信勝が頭を掻きむしった。

「俺や筧、勘助まで総出で兄上を三日三晩説得してダメだったのに、なんで兄貴だと一刻もかからねぇんだよ」

 ぶつぶつと文句を口から垂れ流しながら俯く信勝。
 その口ぶりや面子から、どのようにして兄上に強制しようとしていたのか、易々と想像ができた。

「なんかコツでもあんのか?」
「簡単なことだ。兄上が望むように、言葉にのせればいい」
「…それができりゃ苦労しねぇ。具体的になんて言ったんだ?」

 俺の前に回り込み、心底困ったように信勝は俺を見据える。
 そんなことは己で考えろ…と突き放してしまうのは容易いが、兄上を理解するきっかけぐらいは与えてやってもいいかもしれない。兄上の心労を一つ減らせる可能性もある。
 まあ、可能性は限りなく低いが。

「しばし、この城でお過ごしください、と」
「それだけ?」
「それだけだ」
「………それじゃ、兄上が城を守るって了承したことにはならねぇじゃねぇか」

 やはりというか、信勝には今ひとつ分かりかねたようだ。

 三人で説得に来たときには大方、真田のためとか、責務だとか言ったのだろう。そんなことを言えば兄上の心が頑なになるのは明らかだというのに、何故分からないのか。
 兄上の前で、人は等しく人でしかない。そこに真田だの何だのをつけるからややこしくなる。
 真田も上田も武田も何もかも、暈かしてしまえばいい。

「問題ない。結果として、兄上は一切をお引き受けくださる」

 やはり分かりかねたように眉を寄せた信勝だったが、この件はそこまでで終わった。

「そういや兄貴」
「何だ」
「また昔みたいに、俺って言うようになったんだな」
「気に入らぬか?」
「別に。けど、何でだ?ケジメとして、とか何とか言ってたじゃねぇか」
「ああ。それはもうよいのだ」

 しれっと言えば、まあいいけど、と信勝は肩を竦めた。

 城のことは問題ない。あとは戦の準備にかかるだけ。

「信勝」
「わかってるよ。兄上の部屋の近くでは武具をならさないように。有事の際は才蔵を通すように。だろ?」
「わかっておるのならばそれでよい」

 信勝は武器庫の方へと足を向けたところで、ぴたりとその動作を止めた。

「変わったと言えば、兄上も少し変わったな。………そういや丁度、兄貴が某って言わなくなった辺りだ」

 兄上の変化に信勝が気づいていたことに、俺は少なからず驚いた。

「気づいておったか」
「そりゃ、兄貴のことだからな。…それも、兄上を懐柔する手の一つってことか?」
「さて、どうだろうな」

 惚ければ、信勝はそれ以上は何も言わず、持ち場へと足早に向かっていった。

 果たして、信勝は兄上の"恐れ"に気づくだろうか。
 気づいたとすれば、信勝はどのような道を取るだろうか。
 軟弱、と吐き捨てるだけで終わるかもしれぬし、あるいは鶴のように兄上を変えるべく働きかけるかもしれない。
 わかるのは、俺と同じ行動は取らないだろうと言うこと。

 兄上の"恐れ"に気づいて、俺は己を変える…いや、戻すこととした。
 そうやって少しずつ己を変えるだけで。少しずつ己を偽るだけで。兄上は俺を見てくださるようになった。
 兄上の中で"幸村"の輪郭を失わせ、"己の弟"であることを強調すれば、俺を受け入れるようになり……………そうして、兄上の身の回り一つ一つを有耶無耶にしていった。
 ここが小県であることも。"上田"城であることも。真田の名も。
 兄上を世話する小姓や女中は、同じような着物を纏わせ、同じように歩くように訓練させ、決して声を発さぬように言いつけた。
 兄上に付かせてある才蔵には、どこからか襲撃が合った際にはくれぐれも相手の名を出さぬようにと言い含めてある。
 そうして己が誰なのかも、ここがどこなのかも、全て暈かしてしまえばいい。
 何もかもを、曖昧に溶けさせてしまえばいい。

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