Chasm(Another/IF)|仮初めの恋心と浮気性|高杉晋助視点
気がつけば、俺はどこかの城の中にいた。
江戸城とは違う、もっと機能性を重視した城。
なんでこんなところにいるのか、さっぱり思い出せない。
幸いにして刀は差したままなので、いつでも抜けるようにしてじっと構えた。
「厄介なことだなァ」
「何か問題でもあったの、佐助?」
誰かが近づいてくることはわかっていた。
相手が襲いかかってくるならば、応戦の構えもあった。
だが拍子抜けすることに、相手は俺の進入を咎めるどころか、俺がここにいることに違和感すら感じていない。
あまりにも無防備、と、振り返ればその理由は判明した。
閉じた両目に、手には体を支えるにしては長く細い杖。
健常な人間がわざわざ両目を閉ざす理由はないから、見えないことは明白。どうやら俺はその"佐助"とやらに声が似ているらしく、勘違いされたようだ。
何にしても好都合。利用してやらない手はない。
「大したことじゃねぇ」
「珍しいね、佐助。口調が砕けているよ」
「っと、いつもの癖が出たなァ。誰も見てないところではこんな調子だ」
「へぇ、それは知らなかった」
こつこつ、と、笑いながら男は持っていた杖で床を打つ。
きっと癖なのだろう。微細な振動が足を伝わってきた。
「それで、何が厄介なの?」
「挨拶の口上考えてなかったから、どうしたもんかと」
「面白いことを気にするね。それで、気の利いた挨拶は思いつきそう?」
「生憎、さっぱり思いつかねぇな」
改めて相手を観察しながら、言葉を選んで会話を進める。
整った顔立ち。長く伸ばされた栗色よりも少し明るい色の髪は背中に流している。
着ている衣は上質。重臣か、あるいはこの城の主か。
思いついたように不規則に床を打つ杖の装飾は漆塗りの一級品で、細かな細工が目を引く。
あったことなどない。すれ違った記憶すらもない。
だというのになぜか、見覚えのないこの人間を俺はよく知っているような気がした。
知っていて、そして物足りなさを感じる。
その理由に思い至らず、しかし体は何かを覚えているようで、自然と腕は相手の顔へと向かっていた。
「なァ」
「はいはい、そこまでっと」
割り込んだのは自分によく似た声。
不用意にのばしてしまった腕はそいつに捕まれて、後ろに回されてきつく締め上げられる。そのまま足払いをされて体勢を崩し、床に倒れ込んだところで動けないように足や腕が固められ、体に重さが増した。
「ご無事ですか、信幸様?」
「大事ないよ。ありがとう、佐助」
「礼を言われるようなことじゃありませんって。御身が無事で何より」
見えるのは信幸と呼ばれた男の足と杖。
いつの間にか、あの杖を打つ動きは消えていた。
なるほど、あの音で己の危機を知らせたということか。
「とんだ狐もいたもんだなァ」
言えば、髪を強くつかまれ床に叩きつけられた。
「口には気をつけることだよ」
唇を切って僅かに血を吐いた俺に、上から警告が下りた。
「しっかし本当に俺様に声がそっくり。部分的な変化は聞いたことないけど、その類?」
「さぁな」
「ま、今からじっくりと答えてもらうから問題ないよ」
「拷問か」
「わかってるじゃない。アンタの未来、決まったねぇ」
「俺を殺しちまうたァ、大将としてのテメェの器量も高が知れたモンだな」
決した運命に開き直り、それでも活路を見いだすべく言えば、くすくすという笑い声が響いてきた。
「なかなか面白いことを言うね」
「信幸様」
「いいじゃない。面白そう。名前は?」
「高杉晋助」
「………高杉晋"助"?」
妙に助を強調して言ってきたのはどういった理由か。
わからねぇが、間違いはないので、肯定の意だけを返した。
俺の名のどこが琴線に触れたのかわからないが、悪くない、と信幸は言った。
対照的に、俺の上にのし掛かっている佐助と呼ばれた男は、不快げに、そして憎々しげに俺を睨み、そして案じるように信幸を見やる。
だが、信幸はすでに意を決したようだった。
「真田源三郎信幸。この城の城主を務めている。僕に仕える気は?」
「言うまでもねぇな」
同意はせず、しかし否定はしない。
真田信幸は楽しげに唇を吊り上げた。
一方の佐助はといえば、渋々俺の上からのいて、表情にはありありと不愉快を乗せている。
「旦那に知らせるけど?」
「止めたって知らせるんでしょ。問題ないよ」
佐助はそれから俺に探るような視線を浴びせ。
一足で俺の側まで寄り、
「信幸様に何かしようとか、思ったら死ぬから。そこんとこ、よーく覚えときなよ?」
囁きかけた後、その場から消えた。
口だけの無意味な警告は、俺の鼓膜を振るわせただけだった。
すでに体は自由。腰の刀もそのまま。
無意味にもほどがあるというもので。
「いいのか?」
「かまわないよ。弟一人、丸め込める自信ぐらいはある」
「なら、もし……………俺がここでテメェを殺そうとしたらどうする?」
「そのときは、君が死んで終わりだ。
ねぇ、シャミ」
鯉口を切った刀の柄には細い手が添えられ、俺の首にはちりりとした痛みが走る。
目だけで脇を見れば、そこには先ほどはいなかったはずの男が一人。俺の攻撃の手を封じ、命を握っていた。
「ほォ」
愉快。楽しくて仕方がない。
久しく感じていなかった愉悦を、腹の底からわき上がらせる。
きっと退屈はするまい。そう、俺は確信していた。