Chasm(in silver soul/紅桜編)|包むのか潰すのか|来島また子視点

「アンタ、最近調子に乗ってんじゃないっスか」

 背後から声をかけたというのに、似蔵は僅かも動揺しなかった。

 晋助様の船の、光の届かない一室で、真昼間から似蔵は一人紅桜の手入れをしていた。
 何度も何度も。丹念に打ち粉をし、油を引き…その執心は狂気にも似ている。
 それだけ、紅桜という刀は、似蔵に影響を持っているということの表れだろう。
 晋助様のために、というのならば一向に構わない。だが、近頃の似蔵は、欲望のままに動いているとしかいえなかった。

 最近、巷では辻斬りが横行している。
 最初は半月に一人だったのが、週に一人、今では二、三日に一人、と徐々にその頻度が増加している。
 その犯人が似蔵であるのは明らかで、晋助様はまだ何も言わないが、この先の計画に支障をきたす恐れがある。

 紅桜は極秘の兵器。
 似蔵の手の中の刀一本だけならば隠し通すのは容易だが、紅桜の本領はその人工知能。情報集積・解析のための装置は巨大で、この船の四分の一程度はそれで埋まってしまっている。
 それだけ大きなものを隠すとなれば、かなりの用心が必要だというのに、似蔵は一切気にしない風で………身勝手な振る舞いは目に付き、増長し続けている。

 似蔵が鬼兵隊に入ったときこそ反論しかけたが、今は晋助様の決定に異論を唱える気はない。
 鬼兵隊に入ったヤツが晋助様の命を聞かないのが悪い。

「……あんまいい気になってんじゃないっスよ」
「ああ………気をつけるとしよう」
「然りとて、使わねば錆び、腐るは必然」

 声が。狭い室内のどこからか聞こえ。
 今度は似蔵のヤツも気付いてなかったようで、私と同じように振り返る。
 それからカツン、と。何か硬いものが床を打った音がした。

「…っテメェ!!」

 一本足の下駄を鳴らしながら、こちらに近づいてきたのは狐だった。
 白装束もその痩身を覆う包帯も、船の赤い照明に照らされて淡い桜色に染まっている。
 いつの間に、部屋に入っていたのか。私も、恐らく似蔵のヤツも、声を掛けられ初めて気付いた。まるでそこに沸いて出たようだと、夢物語のようなことを思っていると、狐が面の向こう側から私を見て、そして溜息を吐いた。

「品の無い声だと思えば、何時ぞやの猪娘ではないか」
「誰が猪娘だ!!」
「自覚があるようで何より」

 そこで、すっかり私からは興味を失ったようで、私の横をすり抜けた狐は似蔵の目の前にたった。
 じっと。見つめているのは似蔵の手の中で、船の赤い光に染まった紅桜。

「気に入ったようだな」
「………あぁ。アンタが狐か」
「刀鍛冶辺りから聞いたか?」
「そんなところだ」
「随分と使いこなしているようだな」
「ああ。これほどの刀……なかなか得られるものじゃあない」
「しかし………不味な血ばかりを吸わされ、紅桜は満足していないようだ」

 狐の指先が、紅桜の表面を滑る。

「鬼の一角を担う貴様は、赤鬼ではなく青鬼であったか。実に残念」

 次の瞬間。似蔵の殺気が膨れ上がった。
 似蔵は片足で立ち上がり、鋭く踏み込み、紅桜の刃を走らせた。
 捉えているのは、狐の首。

 狐は斬撃を避ける動作どころか、その刃を視線で追うことすらもしない。

 飛ぶ、と、そう思った。

「口には、気をつけないといけないよゥ」

 しかし、紅桜は狐の首を掻く直前でぴたりと静止し、似蔵の動きも合わせるように不自然に止まった。
 ただの脅しだったのか、とも考えたがそんなはずはない。
 似蔵の攻撃には、殺気も殺意も備わっていた。

 何より、ただの威嚇の攻撃だったならば、似蔵の顔が驚きに染まっているはずはない。

「貴様こそ。短慮は身を滅ぼすこと、努努忘れるでない」

 場の空気に似合わない、優しげな声色が、似蔵の耳を撫でる。
 似蔵はなんとか刃を進めようと、刀を握る手に力を込めているのがわかる。
 だが、似蔵の腕から先は、狐を傷つけるのを拒絶するように動かなかった。
 今一度。刀を振りかぶって、袈裟に切りかかる似蔵だったが…それもやはり叶わず、肩の辺りに刀が食い込む直前で刀身は停止し、服の繊維の一本も切り裂くことができなかった。

「浅薄」

 言葉と共に、そんな似蔵の様子を、狐が鼻で笑った。

「似蔵!!」

 似蔵は乱雑に紅桜を仕舞うと、部屋から出て行った。
 あの様子では、また今日も日が暮れれば、町をうろついて浪人を斬り殺すことだろう。
 私の言葉が届いたとは思っていなかったが、頭の片隅ぐらいには置いていただろうに、これではまた懸念材料が一つ増える。今は計画実行の直前で大切な時期なのにと、そう思うと、自然と声は大きく荒くなった。

「煽ってどうするんスか!晋助様は今は大人しくしていろと、」
「その晋助の命、聞くか聞かぬかはあの男の勝手。
加え、我は鬼の一角に非ず。ならば我が聞かねばならぬ道理はあるまいて」
「キサマッ、やはり晋助様をッ!!」

 晋助様は敵が多い。その火の粉を振り払うのも私の役目。
 この狐は、晋助様の傍にいてはけない。
 銃を引き抜いてトリガーに手を掛けようとしたのに。ホルスターに入れた手は空気を掴んだだけだった。

 まさか、と目の前の狐を見れば、その手の中には愛銃が三丁。
 そのうち二丁を持った右手はだらりと力なく垂れ下がっていたが、もう一丁はしっかりとトリガーに指が掛けられて、銃口がこちらに向いていた。

 いつ、盗られたのか。このままでは……

「冗談だ。そう、本気にするな」

 殺される。と思ったのに、狐はあっさりと銃を下ろし、そして言う。

「短慮は身を滅ぼす。そう言ったのが聞こえなかったか?」

 "晋助様の声"で。
 面の向こう側から、聞こえてきたのは確かに羨望止まない人のもので。
 まさか、

「しんッ」

 晋助様。と呼ぼうとしかけて、途中で押し留める。
 声は晋助様だった。けれど、この狐は絶対に晋助様じゃない。
 どうやって、なんて関係ない。こいつは晋助様ではない。

「悪趣味にも程があるッス!!」

 私の叫びに一拍間を置き…狐が喉で、私を笑った。

「愚直であるが故に、常識に囚われず、穎悟を持つか。悪くない」

 笑いは、次第に大きなものへと変わっていく。
 喉から口へ、そして明確な声となって響き渡る。哄笑が、船の中に反響する。
 悪くない、と。何度も何度も。何度も何度も何度も繰り返し、そして嗤う。

 そうして、聞こえてきたのはまた、違う声だった。

「いいね。とてもいい。晋助が羨ましいね。
僕も欲しいな。君みたいな…主のためだけに猛進するような、主を見紛うことなく妄信するような。そういうの」

 そっと、包帯塗れの温度の無い指先が私の顎をなぞり、面に開けられた二つの穴から、仄暗い瞳が私を覗き込んでくる。
 漆黒で色の無いそれに自分が映し出されて、体が恐怖に包まれた。

 怖い。

 恐怖に身が打ち震える。

 怖くて。
 怖くて怖くてたまらない。

 今すぐに殺されることはありえない。そんなことは思考する必要すらない。
 なのに、今すぐにこの場から逃げ出したくてたまらない。
 逃げたところで、逃げ切れないのはわかっていても、そうするべきなのだと本能が告げる。
 だが、身体はまるで見えない糸にでも絡まったように、ぴくりとも動かない。

 これは何と喩えればいいのだろう。
 蛇に睨まれた蛙ならば、食われるか、或いは逃げ遂せるか。
 しかし、私が蛙だとしても、目の前の狐は蛇ではない。

 いっそ悲鳴の一つでも上げられれば、どんなに楽なことだろう。
 逃避の一切を、認められず、狐を見続けることしか赦されていない。
 そうしているうちに、思考は溶け、意識が混沌に呑み込まれていく。
 徐々に。徐々に。わからなくなっていく。

 だから、互いの息遣いが解るほどに狐との距離が縮まったのに気付いたのも、狐の調子が変わったのに気付いたのも、狐が闇に解ける直前のこと。

「その怜悧……大切にするといいよ」

 硬い音が響いて、それは狐に取り上げられていた銃が落ちた音で、木霊が空気に溶ける頃には狐は影も形も見当たらなくなっていた。
 その瞬間現実に立ち戻り、どっと体中から汗が吹き出た。
 体が馬鹿みたいに震えて、その場にへたり込む。
 がちがちと、歯と歯がうまくかみ合わず、壊れた楽器のようにカチカチと音を鳴らす。
 心臓の音が鼓膜を打って打って打って。
 しばらく辺りの音が聞こえなかった。

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