Chasm(in silver soul/邂逅編)|野ばらの下の肌の上|斉藤終視点
厠に行こうと歩いていると、薄く書庫の扉が開いていることに気がついた。
閉め忘れたのか、誰かが利用しているのか。
中を覗き込むと、一人の男がじっと一冊の本に視線を落としているのが見えた。
俺がいることになど僅かにも気付いていない様子で、文字を追うことに集中している。この真選組には珍しいことだ。
誰だろうか、と音を立てないよう、慎重に場所を移動する。角度を変えて覗き込み………そして、その表情を捉えた瞬間、頭の後ろの辺りが熱くなった。
気付かぬうちに、脇差の柄を握っていたほどに、その瞳の色はすさまじいものがあった。
憎悪を凝縮したような深く暗い色。渦巻く混沌が漆黒に溶かしこまれている。
戦場に置いてもここまでのものは、早々に感じ取れはしない。
はっきりと認めよう。
俺はその瞳に見惚れていた。
しかしその時間も長くは続かないもので。
なぁ、と。
男の足元の猫が鳴いて、勢いよく男がこちらを振り返った。
視線が、俺の顔、首、そして服へと移る。
残念なことに、そこには先ほどの色は僅かも残されていなかった。
俺は落胆を隠し、そして問いかけた。
「東条叶君、で間違いないか?」
「ええ、そうです。
幹部の方、ですよね。すみません、まだ入って日が浅いもので…」
「………三番隊隊長、斉藤終」
「斉藤さん…ですか」
見逃してしまいそうなほどに小さな失意と共に、俺の名をその薄い唇から吐き出した。
「ここを使われるのですよね。長々と占有してしまい、申し訳ありません。
僕は失礼します」
頭を下げたまま、目を合わせずに俺の横を通り過ぎようとする。
逃してなるものか、とその肩を捕まえる。
そして何事か、と訊かれるより前に少し身を屈めて、耳元に口を寄せた。
「復讐、かね」
囁きはしっかりと届いただろう。
「何のことでしょう?」
だが、振り向くその顔からは、あの俺を魅せた混濁が綺麗に全て隠されてしまった後だった。
微塵の隙も無い笑顔が張り付いて、それを剥がすのは容易なことではないだろう。
しかし、俺は既に見てしまった。
「君は嘘を吐くのが上手いようだが、アレを眺める君の目は、尋常ならざるものがあった」
遠目であったが、東条叶が眺めていたのが何であったのか、俺にはわかった。
それは真選組で起こった全てが記録されている記帳。隊士たちの名だけでなく、捕縛した者の名や、粛清された隊士の名などが連ねられている。
導き出せる答えは容易だが、この男に限っては単純でないようにも思える。
そして、真意を引き出すのも容易ではないだろう。
「腹は空かぬか」
その俺からの提案に乗るかどうかは賭けであったが、東条叶はしっかりと頷いた。
東条叶の外出には基本的に許可が必要だが、俺がついているということで、護衛を兼ねた監視は俺自身に任せられた。副長に対して何らかの説得が必要かとも考えていたが、非常に好都合なことだ。
行き先は馴染みの蕎麦屋で、到着するまでの他愛のない世間話の中で、勘定は東条叶の方が持つこととなった。
時間の関係か、店内にはあまり客は居らず、注文をした二つのかけ蕎麦はすぐに運ばれてきた。
互いに何を言うでもなく、箸を取り、蕎麦を啜る。
向こうが話し出すのを待つべきか、とも考えたが、あのいつもの取り繕われた顔をされては叶わないので、先にこちらから手札を出すことにした。
「まず誤解を防ぐために言っておくと、私は貴方の味方だ」
蕎麦の汁を啜り、箸をおき………ややあってから、東条叶は口を開いた。
「味方……ねぇ」
第一の目論見は成功したようで、彼本来の調子が引きずり出せたようだ。
「君は復讐とか、そういうのとは縁遠そうだけど」
「ふむ。やはり復讐、か」
「さて、どうだろうね」
間者の疑いが解けた…いや、保留されている状況でのこの言葉。頭の悪い人間ではないだろうから、思わず口にしたとは考えにくい。こちら側の撹乱を狙っていると考えるのが妥当だろう。
またその性格も加味すれば、やはり復讐の線は薄い、か。
しかし、あの書庫では、記録を眺めた東条叶は、心の底からの憎悪を滾らせていた。
「さて、僕はどうすればいいのかな」
「どう、とは?」
「僕から君に、何か情報を与える気はない。
交わす言葉があるとすれば、君が質問し、僕が答える。尤も、僕が正直に答えるとは思わないで欲しいけれど。
もしくは僕が君の言葉に耳を傾ける。もちろん、僕は君の話について特に意見をする気はない。
さて、どうする、斉藤さん」
ならば、と手始めにとっかかりを得ようと、言葉を選び、発した。
「終、と」
「うん?」
「名で、呼んでもらいたい」
「拒否するよ」
「ほう。名に拘るか」
「いいや。ただ、互いの名を呼び合うという行為には意味を見出すよ」
明確な拒絶が示された。
互いの名を呼び合えば、それだけ心理的な距離が縮まったような錯覚をさせることができる。
この作戦は失敗のようだ。逆に距離を開かせてしまった。
「僕の名を呼びたいのなら呼べばいい。けれど、僕は君の名を呼んだりはしない」
見えた。
身震いするほどの、強い情念。
何度か見かけた、本当に刹那の間だけ見える、強烈な。
それが隠されてしまうより前に、俺は言葉を滑りこませた。
「貴方が真選組に入ったときから、私は貴方に興味があった」
言葉が、するすると口から出される。
初めて見たそのときから、気になっていた。
この男からは、この世のものならざるにおいがする。
「貴方を突き動かすものを、私は知りたい」
いや、もっと俺の中の欲求は単純だ。
「私は貴方が知りたい」
言い切る。
すると、へぇ、と面白いといった感じの声が漏れ聞こえた。
「凄い殺し文句だね」
少なくとも、興味を引くことだけは成功したらしい。
俺の姿が、しっかりと東条叶の隻眼に捉えられる。
「君は果たして、僕の知る君なのだろうか」
「それは、貴方が見極めればいい」
俺が貴方をそうするように。
「それじゃ、見極めるためにも一つ、はっきりと宣言をしておこうと思う」
勘定の小銭を台において、東条叶は立ち上がった。
これ以上、言葉を交わす気はないという現われか。
「僕は真選組を害するつもりはない。ただ、あるべきようにあるのを見守る。それだけだよ」
「それは謎掛けかね」
「そうだよ。
いつか答え合わせをしようか。そう、遠くない…そうだな、ひとつがふたつに分かれる頃に。
それまでに、答えを用意しておいてね」
挑戦的な言葉に見え隠れする僅かな期待。
それに答えられるかどうかは俺次第……折角の機会、逃すつもりは毛頭ない。
それから屯所に着くまでの間。
交わされる言葉は皆無であったが、行きのときよりも詰めた距離に、何かを言われることはなかった。