Chasm(in silver soul/邂逅編)|したたかな従順|高杉晋助視点
「そんなわけで、今日ここで会合が行われることを真選組に教えておいたから」
何でもないことのように、さらりと叶は俺に告げた。
俺の隣にいつの間にか現れ、そして三味線を掻き鳴らすその姿を見止める者は誰もいない。
姿どころか、音も匂いも気配も、何一つなく、しかしそこに確かに在る。叶はそういうモノとして、この場にいた。
真選組への接触と情報の提供。これを背信行為と言えるのは叶が部下だった場合であって、俺達の間では相当ではない。
互いが互いの利のために動く。だから並び立ち、隣り合う。
単に微妙なすれ違いを起こしながらもその利が一致しているのみ。
果たしてこれは、すれ違いか、それとも共通の利得か。
「まあ一時間ほど、うっかり間違えちゃったけど」
べん、と叶が一度大きく弦を鳴らすと、その力に耐えられなかった弦が一本切れて音が飛んだ。
しかし、やはり誰も、何も言わない。
こうやって会話を交わしていることにすら気付かない。
「………どういうつもりだ?」
「退屈そうだったから。鬼の副長と鬼事。面白い絵になるね」
退屈してたのはテメェのほうだろうが。
悪態はふつりと喉元で消える。
「それに、晋助にとって不都合とは言わせないよ。僕は珍しくも晋助に助け舟を出しに来たんだから」
俺は否定の言葉は発せず、酣に差し掛かる宴を見遣った。
顔を赤らめ叫びあう烏合の衆。飛び交う中身は、これから行われる幕臣の襲撃に関するもの。幕臣の一人や二人いなくなったところで大した打撃は与えられないだろうが、やりたいというのならやればいい……と、いつもならば放っておくのだが、こればかりはそうは言えなかった。何しろ俺の名前が絡め取られてしまっている。成功しようが失敗しようがどちらでもいいが、俺の名が入る以上は結果は重視すべき。だからこそ、気乗りがしなかった。
作戦自体お粗末で、目的がないだけでなく結果もないのは明白。始める前から失敗している。奴等はただ自分達の行動に俺の名前を載せたいだけ……つまりは俺を利用しようとしている。これほどの不愉快は久しくなく、叶が隣に在るのに気付くまでは殺気立っていた。しかし、自尊心だけが一人前の連中はあまりにも頭が弱いものだから何故俺がそうなったのか見当もつかないようで、必死に俺を引きとめようとし、そして俺を更に苛立たせるという悪循環に陥っていた。
断ち切ったのは、俺だけに聞こえるように叶が鳴らした三味線の音。
確かに手助け。それは俺も認めよう。
いつもならば、ただの俺の部下であったなら、そんな愚行を犯すような人間に付き合わずにさっさと立ち去っただろうし、或いは斬り捨てることも厭わなかった。しかし、この場には無碍に扱うわけにはいかなかったヤツが一人いた。その一人が何より厄介だった。計画中止の声を発することもできず、不参加の表明も不可能な一件。汚名ならば諸手を挙げて歓迎するところだが、俺の絶対的な汚点として残ることは明白なこれは自壊してもらわねば。
切れる札は目の前に。とはいえ……差し出されている一手はある意味で最悪に近い。
「借りだの何だのは考えなくていいよ。これは僕の気紛れ」
だから存分に利用するといい。そう言いたいのだろうが、見返りの無さこそが警戒すべきものだ。
タダより高いものは無い…というのはこういう場面でこそ使う言葉であるが、叶のそれを利用すれば、全てが解決する。
「まあ君の行動は、この場においてはあまり僕には関係ない。僕はそろそろ彼等を手引きしに行くよ」
叶は俺の逡巡になど微塵も興味がないようで、俺の答えを待たずに安物の三味線を小脇に抱え、誰の目に止まることなく廊下へと向かった。
途中、一度だけ足を止めて俺を振り返った。
「右、左、左、右、右、右。この順序で行けば、逃げられるから。参考までに覚えておいてね」
それじゃ、がんばって。
叶が出て行って、数分後。
御用改めの声と共に、制服の人間が雪崩れ込んできた。
叶の言葉に従うのは癪だったが、自分で選んだはずの逃げ道が叶の言っていた方向と全く同じだった。
舌打ちをしたい気分になりながらも、ようやく撒き掛けているのだからそんなことはできない。
そして、たどり着いたのは断崖絶壁に面した窓だった。
「ここから、飛び降りろってか」
窓の外を覗いて、俺は思わず零した。
冗談にもほどがある。
水面まで一体どれほどの距離があるのか。高すぎて距離感がつかめない。
時折、高く上がった波しぶきが月の光を反射させる。解るのはそれぐらいのもの。しかし、それぐらいで十分だった。これだけの高さならば、考えるまでも無く昇天できる。逃げ道とはまさか黄泉比良坂ではあるまいな。
躊躇している俺の背に足音が迫ってくる。
逃げ場はもう他にはない。
俺は意を決し、宙に身を躍らせた。
「よくできました」
愉快そうな囁きを耳に、俺は目を開いた。
目を閉じた覚えはないが、とするとほんの僅かな間だけ意識を飛ばしてしまったのかもしれない。
辺りを見回せば、冷たい海水も固い岩肌もない。恐らくここは料亭の一室に違いない。けばけばしい朱色の柱と羽根を広げる鳳凰を見て確信する。
窓から飛び出したはずの俺が何故ここに…なんて事は考えない。考えるだけ無駄だと理解している。理解しているから在るがままに受け入れる。それが叶に僅かに動揺と不審をもたらしているのならば重畳だ。
「助けてあげたのにお礼の一つもないの?」
狐の面越しに叶が問う。
滲む僅かな困惑を掴むのは、長い付き合いではないが俺には慣れたもの。今では少し心地よくもあるそれを、俺はそれに口の端を上げて受け流す。
「茶番劇に付き合わされた俺としては、逆に礼が欲しいぐれェだ」
「違いない。でも、悪くはなかったでしょ」
叶には、やはりまた、平静が戻ってしまった。不変ほど面白くないものはない。
返答など露ほども期待していなかったそれに、言葉をくれてやる、と俺は叶の細い首を左手掴んで、吐息が掛かるほどに自分のところに引き寄せた。
「いつかこの手で、テメェの首掻っ捌いてやらァ」
狐の面の右目に開けられた、瞳の穴の向こう側で、黒い月が孤を描く。
「楽しみにしているよ」
命を握られたその最中。
恍惚と、叶は言った。