Chasm(in bsr/織田*th)|湿った羽では届かない|濃姫視点
炎が踊る本能寺を駆ける。
呼吸が荒れて肺が軋むのに構わず、打ち捨てられた骸を掻き分けて進む。
顔が熱い。腕が熱い。足が熱い。体中が炎に照らされ、焼け焦げそうだ。
だが、例えこの身を焼かれようと、そのお姿を見つけるまでは足を止める気はなかった。
見つけたのは燃え盛る本堂の中だった。
その衣を真っ赤に染め、座ったままでぴくりとも動かないものだから、死んでしまったのかと一瞬血の気が引いたが、そうではないと腕が動いているのが見えてすぐにわかった。
手には短銃を握ったまま。座り込む上様の膝の上には光秀の頭が乗せられており、優しく左手で光秀の白い髪を梳いている。
光秀はぴくりとも動かず、その動きを感受している。
いつも細くしか開かれることのなかったその双眸は今は閉じられ、そして流れ出す血が上様の衣を緋色に染めていた。
その隣では、三環が二人を火の粉から守るように上着を広げて立っていた。
「上総介様!」
そう叫んだけれど、私の声は届いていないようだった。
本堂には何か見知らぬ世界が広がっているように感じて、犯してはいけない声域のようにも感じて、一歩踏み出すことさえも躊躇われた。
しかし、後ろから遅れてきた蘭丸君が上様にためらい無く近づき、その肩を掴んで揺り動かした。
「信長様!!」
涙声の蘭丸君の声に、漸く上様は顔を上げた。
その白い手から短銃が落ち、ごとりという音を本堂に響かせた。
「まる?」
「俺だけじゃないです。濃姫様もいます」
「そう……そっか。戻ってきちゃったか」
残念そうに呟いた上様の言葉に、蘭丸君は傷ついたように顔をゆがめた。
まるで泣くことのできない上様の代わりに泣くように、蘭丸君の目からは大粒の涙が零れ落ちる。
「こいつが…!」
憎憎しげに蘭丸君が光秀を睨みつけ、矢筒から矢を引き抜いて番えた。
しかしそれが放たれることは無かった。
「ダメだ!!」
守るようにもう動かない光秀の頭を抱く上様に唇を振るわせた蘭丸君は、ゆっくりと弓を下ろした。
幼い顔に怒りを乗せながらも、私には理解できなかった上様のその行動には納得をしているようだ。
だからこそかもしれない。先ほどよりいっそう憎らしげに、蘭丸君は光秀を睥睨した。
「欲しかったなぁ、天下」
俯いたまま、ぽつりと上様は言い、そして続ける。
「天下を取れば…いや、その少し前の状態で均衡させられれば、また元に戻されるのはわかっているけど、ちょっとだけ世界は優しくなると思った。
けど無理だった。ダメだった」
「無理じゃないです!!まだ…」
縋るように衣を掴んだ蘭丸君の手の上に自分の手を重ね、ゆるく、上様は首を振った。
吐露された願い。
天下人になりたいわけではないとわかっていた。
その上様が天下を望んだその理由が、少しだけ窺えた。本当に欠片だけ。
けれど、上様の思いを知るのには、欠片で十分だった。
もうあと少し気付くのが早ければ……違う道を上様と共に歩めたかもしれない。
炎の爆ぜる音に時折どこかが崩れる音が混じる。
「叶」
「そうだね。そろそろ、出なきゃだめだね」
てっきり連れて行くのかと思いきや、立ち上がった上様は膝から落ちた光秀の亡骸には目もくれず、三環に手を引かれそして蘭丸君の手を引いて、本堂を出た。
私がいるところまで来た上様は、すまなそうに言った。
「ごめんね、帰蝶。つき合わせて」
「いいえ」
上様についてきたことに関しては、後悔など何一つしていない。
だから、逃げてもいいというその思いは跳ね除けた。
思えば、上様の命に従わなかったのはこれが初めてのことだ。
じっと注視していたものだから、上様が小さく"ありがとう"といったのを聞き漏らすことは無かった。
「さて…そろそろ幕引きにでも行こうかな」
蘭丸君から手を離し、上様が顔を向けた先から、誰かが駆けてくる音がした。