彰紋→泉水。取替え子発覚前の話。 「ねえ、泉水殿。気づいて、いましたか?」 貴方は、とても優しくて。たとえどんな立場の人であろうと、自分に対して嫌悪を抱いているような者であろうと、全ての存在に等しく手を差し伸べる。 その暖かいまなざしも、気遣いも、何もかもを惜しげもなく与えてくれる。 けれど、その対象の中にひとつだけ―――あなた自身は、入っていないんです。 「――それは・・・」 戸惑うような貴方の仕草に胸が痛んだ、ような気がした。本当にそうなのかは定かでは無いのだ。自分の感情を素直に受け取る方法など、とうに忘れてしまっていたので。 どうして貴方はそうなのだ、と。そう問い質すことが出来れば、楽だったのかも知れない。 けれど自分にそんなことは許されまい。僕はこの人を、誰よりも優しく、易しい、この人を売ったのだ。襲い来る大きな混乱と、それに乗じた醜い争いが恐ろしいあまりに。 そしてその代価は、時が過ぎれば過ぎる程にその重さを増してゆく。それ故、更に身動きがとれなくなってしまう、悪循環。 「泉水殿。…っ、ごめんな、さい」 「あき、ふみどの…?」 感情を言の葉に乗せればその想いは身体から流れ出でてゆくのだと、誰かがそう言ってはいなかったか。そんなの、大嘘では、ないか。 「ごめんなさい、あなたを…そんなに苦しめているのは、ぼくの…せ、い……」 どんなに口にしたって、僕に重く圧し掛かる罪悪感はちっとも軽くはなってくれない。 「彰紋殿・・・」 貴方は、何度も僕の名を呼ぶ。 嗚呼、お願いだから、それ以上は呼ばないで。こんな僕の名など、貴方に呼んでもらうことはできないのだから。 「・・・彰紋様は、お優しい方ですね。」 静かにそう紡がれた言葉はきっとあなたの本心なのだけれど、皮肉じみて聞こえてしまう。 「違います…僕は、やさし、く…なんて」 「いえ、とてもお優しいのです。ですから、こんな私などのために…」 「違、う!僕は・・僕はちっとも優しくなんて、ないんだ・・!」 思った以上に荒んだ声が出たものだ。けれど、もう、止まらなかった。 優しいのは貴方だ。でも、その優しさが時にどんな侮蔑や罵倒よりも辛いのだと、気づいてはいないのだろう。 僕などに、優しくなんて、しないで。 あなたの、すべてをうばった、ぼくなどのために。 目線を落とした先の土が、一部だけ濃く変色していた。刹那、一粒、また一粒と落ちてゆくものが、その面積を僅かだが増やしていった。 僕は、泣いているのだ。その事実が、何故かとても他人事のように感じられた。 「どうか。どうか、泣かないで下さい、彰紋様。」 あなたの僕の涙を拭う仕草すらも、どこか儚げで、怖い。まるで、瞬きの一瞬でも目を離せば消えてしまいそうな、不安定さ。 此処までこの人を追いやったのは誰だというのだ、と。思考が堂々巡りをする。 「申し訳ございません…私には、あなたをお慰めすることすら、出来ない。」 愁眉をひそめるその仕草、言葉のひとつひとつが、この身を射す。 「…僕を、慰めてくれるの、でしたら。」 いっそのこと、どうかすべてを、僕にください。 そう、紡ぎそうになった浅ましいこの感情を、何と呼んでいいものかも知らなかった。 否、知ってはいたのだ。ただ、その感情の名を認めることすら、僕には許されないというだけ。 「―――僕を、嫌いにならないで下さい。」 結局、口から出たのはそんな言葉だった。浅ましいことに変わりはないのだけれど。 「まさか。彰紋様を嫌うなどそんな筈が、無いではありませんか。」 柔らかく微笑んで、そう言う貴方。ああ、きっとそうなのだろう。そういった意味では、僕は自身の望みとは正反対のことを言ったのかもしれない。 貴方はきっと僕を赦してしまうから、僕は罪から逃れることが出来ないのだ。 僕のことを、殺めたいほどに憎んでくれれば、いっそ。そうも思うのに、貴方は僕を赦してしまうと知っている。 けれど、 「好きです、泉水殿。嫌われたく、ない…っ」 けれど、それでもどこかでまだ不安なのだ。貴方が僕を赦すその感情の中に、呆れや憐れみ、諦めが混ざっていないものだろうかと――それとも、“混ざっていない”ことの方が恐ろしいだろうか、僕は。 矛盾する思考が交錯して、何もかも分からなくなってきてしまった。 ただ、この認めきれない想いだけが、愚かな程にこの身を突き動かしている。 「…ええ、わたくし、も。お優しい彰紋様のことは、好きです。」 違う。それは、“好き”では無いのだ。少なくとも、己が欲している感情では。 「違います、僕は、貴方を愛しているんです。愛して欲しいのです。」 「ああ、彰紋様…申し訳、ございません。…私には、よく、分からないのです。」 愛情だとか、恋情だとか。触れたことすら、もしかしたら無いのかもしれないのだ、と。 この人は、そんなあまりにも悲しいことをいつもの穏やかな顔で言った。しかしそれを責めることなど、できず。 「心をください。どうか、僕に、あなたの心を。」 「申し訳、ございませ、ん。」 もう、何度目だろうか。あなたの悲しげな謝罪を聞くのは。 「心は…ええ、差し上げることは、できません」 「何故、ですか」 その答えを、僕はもう、きっと知っているけれど。 「わたくしの心、は。きっと、あの方にしか、満たすことは出来ないのだと思います。」 それは心に浮かんだ答えと寸分違わぬ、あまりにも残酷な返答。 女六条宮――よりにもよって、愛される筈の無いただ一人からの愛だけを、切に望んでいるのだ、このひとは。 「申し訳ございません。」 もう、その言葉を聞くのが辛いという自分勝手な感情で、僕は彼に微笑んだ。それは、別れを告げる合図だった。 *** 離れてゆく牛車を虚ろな目で送り届けた後。ふう、と、微かに息が零れた。 先ほどの彼の答えは、もうひとつの残酷な真実をも僕の前に突き出すものだったのだ。彼の叶わぬ望みが、彼の生きてゆく支えにもなっているという事実を。 (真実を知ったとき、貴方は。) 儚くなってしまうのではないかとすら思った。 だって、彼が縋るべき他のものは全て、僕が。 そこまで考えて、気を抜けばすぐに同じ結論へとはしる己の思考をそっと消した。 「本当に、本当にごめんなさい―――兄上。」 いつ来るのかすらも分からない、けれども絶対に迎えなくてはならない瞬間を心に秘めて、誰にも聞こえないように呟いた。 過重な偽善と自己犠牲 (結局は欲することしか出来ないこの性に、酷く吐き気がした。) 100423 →戻る |