雨が、降っていた。 それは絶える気配すらなく、御簾を隔てた室内にもざあざあと大きな音が響く。焚き染められた香の香りがやけに鼻について咽せ返ってしまいそうなのは、この湿気のせいだろうか。 「本当にお前は、物の数にもならぬ子――。」 雨と共に降ってきたそんな言葉が、やけに耳に残る。 「はい、申し訳ございません、母上。」 幾度も投げかけられた言葉だというのに、未だ声が掠れそうになるのは何故なのだろうか。良いから早く去りなさい、との言葉にただ従って、彼女の御前を辞した。 雨は、やはりまだ降っている。 す、と。屋敷の端の、人目につきにくい(好んで此処まで来る者が居ない、と言った方が正しいのかもしれない)己が部屋前の縁側に、腰掛けた。 先ほど戒められた言葉を思い返しては、何度も何度も反復する。それは行うほどに痛みを伴うというのにやめることができないのは、まだ諦めきれていないからなのだろうか。 己の悪いところをすべて直すことが出来たなら、あの方にも、認めてもらえるのではないのかという、他愛もない考え。所詮この様な我が身に不釣合いな望みであることは、充分すぎるまでに解している。 ぴちゃり、という水音に気が付いて足元に目線を寄せれば、蛙が二匹。 体の大きさから見れば親子のようであり、その睦ましい様子がまるで棘のようだった。 どんな小さな命でも持っているのであろう肉親の情を、私は何処へ求めればいいのだろうか。 ―――考えても、詮無きことだ。 強く地を打つその雫の下へ歩みを進める。 じわり、と狩衣が雨水を吸って、単衣が身体に張り付く感触が身を襲った。 不思議と、寒くは無い。 消えてしまえればいいのに、と思った。 このまま、誰にも気づかれずに、迷惑をかけずに、ただただ静かに。 この降り注ぐ雨に溶け込んで、そのまま消えることが出来ればいいのに。 誰に必要とされることもなく、ただ邪魔者にしかなることができない己など。 消えて、しまいたい。 「・・・泉水さん?」 ふいに鈴のような声を受けて、鼓膜が震える。 ほぼ反射的に振り向けば、小さな少女が心配げにこちらを見つめていた。 「花梨殿・・・何故、この様な場所に」 「すいません、特に用事がある訳でも無いんですけどなんとなく――迷惑、でした?」 とんでもございません、と慌てて返す。 その言葉に安心をしたのか、頬を緩めた彼女が手招きをして言う。 「あ、泉水さんったらそんな所に居たら風邪引いちゃいます、早くこっちに来て下さい!」 それに応じて屋根のある場所へと戻れば、彼女の手が己のものを掴んだ。 掌に伝わるその熱に、初めて自分の身体の冷たさを知る。 「やっぱり、手もこんなに冷たいです。・・・大丈夫、ですか?」 「ええ、ご心配には及びません。私の身になどまで御気遣い頂き、ありが」 「そうじゃ、ないんです。」 そう呟いた彼女の声が、己の言葉を抑えた。目を見開いた私を他所に、目の前の少女は数瞬、躊躇うように俯いてからそっと口を開く。 「泉水さん、泣いていたでしょう?」 すごく、辛そうに。と。そう言った彼女の顔こそ、あまりに辛そうだった。 「いえ、泣いてなどおりませんよ」 嘘ではなかった。涙を流してはいない。 もうこの身体は涙を流すことで心を軽く出来ないことを知っているから。 だから、涙は、もう出ない。このようなことで泣くなど、無いのだ。けれど、 「泣いてましたよ。泉水さんはとても悲しんでて、苦しんでた。・・見た訳ではないんですけどね。でも、絶対に。」 今度はあまりにも強い眼差しでそんなことを言うものだから、目を、逸らしてしまいたくなる。 しかし、同時に何か腑に落ちたような気分にもなった。 「もしかすると、これが龍神の神子と八葉の絆、というものなのかも知れませんね。」 だとすればあまりにも、残酷だ。 この醜い心を、この清廉な少女に晒してしまうなど。 それに加えてこの絆を認めてしまうなら、同時に私は彼女の宿命すらも認めてしまうことになる。 “京を救う龍神の神子” それまでの宿命を、この少女に背負わせてしまうことを更に確実なものとしそうで。 「自分でもあんまり実感ないけど、多分そうだと思います。だから、」 隠さないでください。 寂しいと思うことは、全然駄目なことなんかじゃないんですから。 だから、お願いです。と 次は、睫毛に美しい雫を微かに溜めて。 色あざやかに移りゆくその表情に、そして、あまりにも優しく刺さるその言葉に、 執着が、醜いこの焦がれが、曝け出される。 「何故、ですか。あなたは、どうしてそんなにも」 私を解き放とうとするのか。私を柔らかく捕らえるのか。 「・・私が、泉水さんに沢山助けてもらったから。」 静かな声色だった。けれど、震えている。 「この時空に来て、沢山助けてもらって、励ましてもらったから。 一人きりだった私の、力になるって言ってくれたから。 すごく、すごく、嬉しかったから。」 ―――ああ、そうで、あった。 彼女もまた、一人だったのだ。 たった一人で、全く別のこの時空へ飛ばされてきたのだと言うのだから、それはきっととても恐ろしいことで。 その上重い宿命を背負い、色んな人から疑われても、諦めることなく・・・自分自身を信じて。 とても辛い状況の中、一生懸命に強く在る少女。 そんな彼女の力になれていたと、そう思っていいのだろうか。 こんな自身でも必要とされている、と。そう考えるのは驕りではないのだろうか。 「・・・私は、物の数にも入らぬ身で、必要と、されることも、なくて、」 けれど、けれど、もしも、望むということがまだこの身に許されるのであれば。 私は、 「私、泉水さんのこと大好きです。 愛してる、とか格好いいことは似合いそうもなくって言えないんですけど。でも、大好き。」 わたくし、は 誰か一人にでもいい、必要とされたくて。 一人にとって一人だけの、特別になりたくて。 愛が、ほしくて。 このようなこと、考えてはいけないのだと解っている。 けれど私はどうしようもなく、愚かにも、愛されたいと希(こいねが)っていた。 「・・・っ・・ありがとう、ございます、ありが、と・・う・・・」 嗚咽が邪魔をして、上手く声が出せない。 何度でもいくらでも感謝をしたいのに、それができなくてもどかしい。 まだ繋いでいた手は、完全に暖かさを取り戻している。 けれど自分のとは違うその小さな手を離すことが惜しまれて、その結び目を解く気にはなれなかった。 雨は、もう、やんでいた。 090623 →戻る |