「ほんとに乗ってかなくて良いの? 天香姉、多少遠くても車回してくれるって言ってるけど」 「大丈夫。お兄ちゃんに連絡しちゃったし」 ひらりと手を振ってもなお、気にかけてくれる佑里は良い子だ。お姉さんも良い人だと知ってる。知ってるからこそ、傷つけちゃいけないと思う。 佑里のお姉さんが恋破れた相手は、義理とはいえ自分の兄なのだから。佑里は知らないのかもしれないけれど、知っている自分は多少、気を遣うべきだ。 車体を小さく震わせながら、軽自動車が図書館のエントランスに横付けされる。佑里はもう一度伺うみたいにこちらを見た。微笑む。 「次会うのは始業式ね」 「……ん、それじゃね」 小さくはにかんで、佑里は図書館を出ていく。佑里と、佑里を少し大人っぽくしたような、けれど佑里にそっくりな横顔を見送って、牡丹は小さく息を吐いた。 滅多に利用しない図書館への最短ルートを必死に脳内で確認しながら、俺は雪道を走った。 俺のマンションから駅までが徒歩およそ10分で、その駅の向こうに、市立の大きな図書館がある。この近辺で図書館と言ったらそこぐらいだ。 胸元、いつもぶら下げている飾りボタンのペンダント。痛いくらいにそれを握り締めれば、徐々に鮮やかになるように感じる、幼い頃の記憶。小さな約束。 信じられないことに俺はあのとき、プロポーズまでしているわけだけど、そこまではさすがに照れくさいから詳細は忘れてくれているといいなあと、都合のよいことを考える。というか、今考えてみたら、なかなか命知らずだ。妹が可愛くて仕方ないらしい兄に殺されかねない。 踏切を越えたあたりで、俺の携帯がメッセージ受信を報せた。部屋でシスコン兄貴こと蛭子先輩を食い止めていてくれた名取からだった。 「悪い! 先輩そっち向かった!」 律儀に連絡を入れてくれる友人に笑みが零れる。返信はあとにしよう。せっかく名取が稼いでくれた時間はすべて有効に使う。図書館はもう目の前だ。 エントランスに駆け込んで、傘を乱暴に振る。普段なら多少丁寧にまとめるのだけど、気持ちが急いてしまう今は、閉じっぱなしで傘立てに突っ込んだ。 まっすぐ走ってきたはいいが、彼女のことを見つけられるだろうかと、疑問が過ぎる。けど。 「……あ、」 それは案外、愚問だった。 図書館に入ってすぐのところ、退屈そうに掲示板を見上げる少女。その向こうに、あの日の流星が見えた気がした。 彼女だ。 「ぼたん、さん」 なにも考えずに口走って、しまったと思った。彼女はぱっとこちらを見て、何度か瞬いた。 「ええと……?」 「あのっ俺、深見です、あの、きみと、牡丹さんと会わなきゃって、ずっと、思ってて、」 「……どこかで会いましたっけ?」 牡丹はさ警戒するように身を引きながら、首を傾げる。その仕草に、俺は少なからずショックを受けた。 確かに、もう10年以上も前のことだから、覚えていないという可能性を考えなかったわけじゃない。けれど、いくら脳内でシミュレーションしていたって、初恋の相手に露骨に壁を作られるのは、なかなかキツいものがある。 俺は一つ大きく息を吸った。いいやめげるな、ようやく再会したその奇跡を喜べ。自分に言い聞かせて、なにげなく手をやった胸元に、はっとする。 「そうだ、これ!」 服の下から飾りボタンを引っ張り出す。彼女はそれを見やって、ぽかんとした。 「それ、」 「このボタン、きみから貰ったんだ。約束の、指輪の代わりって」 「指輪の……?」 牡丹は戸惑ったみたいに視線を泳がせた。そうして、しばらく黙って考えて、ぽつりと零す。 「覚えてない」 「ええ……」 そのアンサーに俺は思わず脱力してしまって、ついその場にうずくまった。 このボタンが切り札だったのだ。これ以上どうやって思い出してもらおうか。 「けど、」 牡丹は言葉を続けて、自分のショルダーバッグをまさぐった。引き上げられたらその指先には小さな巾着袋が引っかかっていて、彼女はさらにその中を漁る。 「そのボタンって、これよね?」 ぱっと顔を跳ね上げる。牡丹は少し笑って俺の前まで来て、俺と目線を合わせながらそれを見せてくれる。 きらきらの、俺が持っているのと同じ、飾りボタン。 「それ……っ!」 「あなたの言う、約束っていうのは思い出せないけど。このボタンはなんとなく捨てられなくて、ずっとソーイングセットに入れてたの」 ふわりと、彼女は微笑む。綺麗に切りそろえられた長い黒髪が揺れた。 「だから多分、あなたとわたしは、二回目のはじめましてなのね」 その、言い回しとか。目元を染めた笑顔とか。あるいは、記憶では舌足らずだった一人称が、流暢になっていることとか。おてんばだった彼女が、ソーイングセットなんて持ち歩くような、“女性”の雰囲気を纏っていたりとか。変わらないところと、変わったところのギャップに、酔わされそうだ。 「あの」 「はい」 「俺、深見です。瀬崎深見っていいます」 「はい。蛭子牡丹です」 「このボタンと、牡丹雪ってキーワードだけを頼りに、ずっときみを探していました」 「はい」 「……なんか、飲みましょっか」 全部を肯定して受け止めてくれそうな、彼女の返事が照れくさくなってきて、俺はちょっと顔を隠しながら、自販機を指差した。牡丹は視線だけで俺の指の先を見て、はい、と笑う。 ポケットに手を突っ込みながら立ち上がる。幸い普段使いしているコートだし、俺は小銭をポケットに入れっぱなしにする癖があるから、指先に触れた冷たい感覚にほっとする。誘っておいて所持金ゼロでは格好が付かないところだった。 ポケットの中の硬貨を探り出して確認しようとして、視界の端で牡丹が立ち上がってはっとした。手、差し出すべきだった。 「ごめん」 「え?」 「いや……きみは、気にならなかったかもしれないけど。俺は悔しいし、そうだ、飲み物おごらせて」 「え、いいよ悪いよそんなの」 「いいの。俺も飲むしさ」 手のひらの五百円玉の存在に力を貰って、ちょっとキザに出てみる。 彼女はまだ少し迷ってたみたいだけど、俺は自販機の方に歩くことにした。振り返ったら牡丹が消えていて、なんてのも一瞬頭を過ぎったけど、多分、声もかけずにいなくなるような子ではない。 どれにするかな、と自販機の限られたラインナップを眺める。ぱたぱたと近づいてくる足音が、なんとなく嬉しかった。ほっとしたらなんか、甘いもの、飲みたいなあ。 「ねえ、やっぱりわたし自分で、」 「ココア」 「え?」 「かなあ。俺は。牡丹さんは? ココア好き?」 隣に並んだ、俺より小さなその人は、目をぱちくりさせて、ちょっとだけ眉を下げて、困ったみたいに、笑う。 「すき」 どきりと、した。 その言葉は、俺に向けられたものでは、ないんだけど。 「もう、じゃあお言葉に甘えておごられちゃいます。見た目に似合わず、結構ズルい人なのね、瀬崎くんて」 「はは……はじめて言われたよ……」 いまさらなにもかも恥ずかしくなってきて、赤面する。右手で口元を覆った。 さっき、牡丹さんって呼んじゃったなあとか。彼女は俺のこと、苗字で呼ぶのに。 自販機にコインを入れて、ふっと思い出す。あの時は彼女も、俺のことを深見って呼んでくれた。だってそうじゃなきゃ。 「不公平か」 「え?」 「ねえ牡丹さん。俺のこと、名前で呼んでみて」 「……はい?」 「俺だけきみのこと、牡丹さんって、名前で呼ぶの、不公平じゃん。だから、名前で呼んでみて」 言って、彼女と視線を合わせてみると、彼女はかっと赤くなった。まあそりゃそうか、と思う。ほとんど初対面の男をいきなり、名前呼びは抵抗があるだろう。 「あーいや、無理には」 「あの。……なんとなく、その、聞き覚えがあるんだけど、その台詞」 「……え、」 「ちょっとだけ、思い出したっていうか。ほんとに、二回目のはじめましてだったのね」 呆然とする俺に、彼女は赤い顔のまま、微笑みかける。 「……ふかみ、くん」 その、まっすぐ俺に向けられる音が、何とも言えずこそばゆくて。お互いぱっと顔を逸らしてしまった。つい黙り込む。なんだこれ、俺今すごい、幸せかもしれない。 「あの」 「はい」 「ココア、自販機のボタン」 「……あっごめん、忘れて、」 「一緒に押しても、いいですか。……なんとなく」 消え入りそうな提案を、何度か瞬いて呑み込む。なんでだろうとか、そういう言葉も浮かんだんだけど。 「ど、どうぞ」 なんとなく、いいかなあと、思った。 彼女はほっとしたみたいに、照れくさそうに、笑う。そうして、茶色の缶の下の、赤く光るボタンに指を添えた。おずおずと、その横に俺も指を並べる。穏やかな幸福感に包まれながら、なんとなく、思う。 「せーのっ」 きっとこれが、流星雨の中で止まっていた俺と彼女の歴史を動かす、スタートボタンだ。 [back] |