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ホグワーツの夏は日本の夏より遥かに過ごしやすい。山々に囲まれ、朝晩は肌寒いと感じる程だ。
ヨーロッパの気候に浴衣やかき氷や蝉の音は似合わないな、とむしむしした日本の夏を懐かしむ。
けれど清々しい夏の空に鳶が飛ぶ姿は、爽やかで大好きだ。半袖に羽織るカーディガンもホグワーツの夏だからこそ。
「シャツ、寄れてないかい?」
「大丈夫ばっちり」
「タイはこれ一本しか持っていなくてね、地味じゃないかな?」
「落ち着いてて素敵ですよ」
誰もいない長い長い廊下を、少しだけ足早に歩く。ローファーの踵が石畳を叩き、カツカツと鳴る。
月曜日の午前10時の校舎。既に其々の授業は始まり、生徒達は教室に。何故この時間に廊下を歩いているか?珍しく遅刻ではないのだ。
「私のワードローブはこれだけでね」
「知ってます」
半袖になった私のシャツを、何か言いたげに見つめる彼の瞳。余裕がないのかな、いつもしゃくしゃく余裕に澄ましているのに。
「先生可愛い」
「そうか、ありがとう」
君も可愛いよ。なんて付け足す辺り、案外落ち着いているのか。隣にならぶ先生を見上げて笑う。先生、こうして横にいるとホントに背が高い。
廊下には私だけの靴音が響く。私の横には地面を歩くゴースト。歩くゴーストってなんかシュール。今は地面を歩きたい気分なんだって、先生。
やがてとある教室に着く。ドアの向こうはがやがやと生徒のおしゃべりで騒がしい。
「いつぶりだろうか、この教室に来たのは」
「今日からルーピン先生の教室だよ」
「そうだな」
思う事は沢山あるようだ。先生の目はなんだかキラキラ輝いて見える。
「・・・・名前」
「はい?」
「心から感謝しているよ、君には」
ふう、と息を大きく吐き、彼は杖を一振り。目の前のドアがゆっくりと開いていく。
先生のありがとうが胸を締め付ける。ゆっくり開かれていくドアがじれってくて、もどかしい。生徒達のざわめきが色を変える。
半透明な革靴で地面を蹴り、教卓へと向かう先生の背中。胸がチクリとして、瞳の奥に焼きついた。
「諸君おはよう」
「来た!」
「わー初めて見た、天文台のリーマス」
「意外と・・・・」
「教科書のまんまね」
床を歩いたゴーストは、教卓に立つと凛とした低い声を教室に轟かせる。
生徒達は好奇の目で彼を見つめる。当事者でもないのに、緊張してしまう私の心臓。
素早く自分の席につき、机の下で祈る様に両手を握る。聞こえてくる生徒達のひそひそ話が、良い物である様にと力一杯祈る。
「私がリーマス・J・ルーピン。見ての通りのこの姿」
では、授業を始めようか。
私はまるで親鳥にでも成ったかのように、教卓の先生へ視線を送り続ける。すると、横に座っていた#name3#がツン、と私の腕を突いた。
「名前」
「あ、・・・・友人」
「ついに始まったわね、先生の授業」
「うん・・・」
「なに?嬉しくないの?」
「嬉しいにきまってんじゃん!」
友人は眉をハの字に曲げ、笑いながら溜め息を吐いた。そして先生へと視線を移す。
「・・・・名前にとっては複雑な事なのね」
「え?」
「私には分かるわ」
どうゆうこと?そう聞こうとしたら、彼女は教卓へ顔を向けてしまった。私にとって複雑な事。その言葉の意味をそのまま受け止めた。うん、ちょっと複雑だ。
こうして、ゴーストのルーピン先生は再び教師としての生活に戻る事となる。
元々は教え方が上手いし、話も面白い人だ。あっという間に人気教師へと返り咲く。きっと彼を愛した人達は、これが素晴らしい結果だと誰もが言ってくれるだろう。
私の不安は杞憂だ。ふわふわと宙に浮かびながら、今日は守護霊について説く先生。教室内には先生の好きなレコードが流れている。
私だけの先生は皆の先生になっていく。複雑だけど、嬉しくもあるんだよ。
「ふう」
ルーピン先生は幽体の体でドカリとソファに腰かけた。ネクタイを緩めながら、息を吐く。疲れてはいない様だが、緊張したと言う。
窓の外は薄暗い。夕陽が射す時間だが、今日は午後から曇りに変わってしまった。
「先生、お疲れ様」
「ああ、少し疲れたかも知れないな」
窓からは薄暗い灰色の光。彼はその光を含み、青白い顔を更に白く見せていた。
私はこれから彼の自室に成るであろう、闇の魔術に対する防衛術の教室の準備室を適当に片づけていた。
準備室にはソファと机、ポットが置いてある。その奥には寝室へと続くドアが佇んでいた。先生はどこをどう見たって人間の形をしている。
それならば、奥のベッドで寝る事が出来るだろう。もう天文台の狭くて堅い柱の上で寝なくていいんだ。
死んではいるけど人間らしい生活の形がとれる。その点も、私にとっては喜ばしい事だ。
「杞憂なのかな」
前任が置いて行った本を適当に本棚へしまいながら、小さく呟く。
私が感じる不自然な気持ち。先生へ視線を流すと、彼はソファでだらりと伸びきっている。よっぽど初日の授業が緊張したのだろうか。
「・・・・名前」
「はい?」
「そこの戸棚に紅茶の葉があるだろう。キャラメルのフレーバーなんだ」
「いいんですか?」
「僕にも入れてくれるかい?」
「え?」
好きに飲んでいいよ。そう言うと思ったが、彼は自分の分も用意してほしいと要求したきた。
飲めないじゃんと心の中で突っ込みながら、ポットの湯を沸かす。
「先生、はい」
「ありがとう」
部屋に紅茶の香りが充満する。甘いキャラメルの香りだ。二つのカップを用意し、彼と自分へ。
彼の向かい側に座り、少し古くなった紅茶の味を楽しむ。
チラリと彼へ視線を投げると、先生はによによと笑いながら私の事をじっと見ていた。
「こうして葉の香りを楽しむだけでいいんだ。香りで舌の上は充実する」
「美味しい?」
「ああ、君が淹れた紅茶はとても」
先生の言葉に、抑えきれない笑みがこぼれてしまう。にやにやと笑う口元は気持ち悪いだろう。
先生とこうして過ごす時間。これからは確実に減るのだろう。私だけの先生は皆の先生になる。それでいい、それで。
私の心配すべき事ではない心配事。それはただの杞憂にすぎない。しょうもない、杞憂に過ぎない。
130106