インターホンが鳴ったのは、もう長い夏の日もとっぷり暮れた頃で、家の中には揚げ物がパチパチと揚がる良い音、良い匂いが満ちていた。 なまえ、私今手が離せないから、とお母さんが呼んだから、私は自分の部屋で読んでいた小説をベッドに伏せて、窓はすべて開け放ってあるのに暑いリビングを横切り、しぶしぶ玄関に赴いた。 郵便屋さんかな、宅配便かな、それともお隣さんが何か持ってきてくれたのかな。 この時間に尋ねてくる人なんてそれくらいしか思いつかない。 はーい、なんて声を出しながら、サンダルをつっかけてがちゃりと扉を開けた。 開けて、その先に立っていたあまりにも予想外の人物に、私はひどく後悔した。なんでこんな、どうでもいい格好の時に。 彼は私を視界に捕らえて、つぶやくように呼び掛けた。 「………なまえ」 目深にかぶった赤いキャップ。見慣れたジャケットは記憶にあるよりずっと薄汚れていて、背負ったリュックも、真新しかったシューズも、みんなみんな擦り切れそうなくらいぼろぼろになっていた。 変わらないのは濡れたように黒い髪と、その奥にのぞく、ひたむきで物怖じしない、まっすぐな赤い目。きれいな顔立ち。 見間違いようもない。 彼だ。 「レッド!!?」 大好きなコロッケも、夏に揚げ物をしてる暑い部屋も、誰が来たの?なんて言いながら、火を止めて確かめに来たお母さんも、何もかも世界から消えてしまったみたいだった。 泣きそうになった。呼び掛けたレッドが、最後に会った時から変わらない顔で優しく笑うから。 「うん。帰ってきた」 「なっ、何で…いつ?どうやって?」 「さっき」 「レッドくん…?あら、まぁ!本当にレッドくん?」 「はい。ご無沙汰してます」 突然会話に割り込んできたお母さんに、レッドはぺこりと頭を下げた。とたんに私の世界に、また暑い部屋と、大好きなコロッケの匂いが戻ってきた。 「お母さんにはお会いしたの?」 「いえ、まだです」 「それはいけないわ!早くお母さんに顔見せてらっしゃいな、うちに上がってもらっても一向に構わないけどね、まずはお母さんにごあいさつしなきゃダメよ」 私のお母さんはぺらぺらと、恐ろしい勢いで言葉を発する。それに淡々と応じる態度も、前と変わらなかった。 私はそんなレッドを、半ば無意識にずっと見つめてた。 懐かしくて。 レッドが旅に出てからのこの四年間、どれだけ思い描いたか分からない姿を、今この目が現実に見てるなんて、まだ信じられなくて。 レッドは自宅に帰る前に、まず私の家に来てくれたらしくて、それが、封印していた嬉しさを呼び覚ます。 たとえ四年間、忘れられたみたいに音信不通だったとしても、それは素直に喜べた。 家の扉が閉まると、やっぱり揚げ物をしてる室内より、日が落ちた外のほうが涼しくて、夜風が下ろしたままの髪を優しく撫でていく。 レッドの家は私のふたつ隣、その向こうがグリーンの家。 お母さんは、まずレッドは家に帰るべきだって言い張った。私もそれには賛成で、レッドはちょっと考え込むようにしてから、同意するようにうなずいた。 それで私はお母さんに言われて、レッドの家まで彼を送っていくことになった。普通逆じゃない?とも思うけど、封印を解かれた気持ちが、それを快諾しちゃったんだ。 送ってくって言っても、どうせ走って一分もかからないし。 レッドは昔から無表情で言葉少なだったし、それは変わっていないみたいで、私も最初の驚きが冷めてしまうとなんだか久しぶりなのが気恥ずかしくて、ふたりして黙って夜風に吹かれながら歩きだした。 「なまえ、」 私が心地よさに目を細めたとき、唐突にレッドが私を呼んだ。 私は、一歩後ろを歩いていたレッドを振り返る。レッド、四年前よりずっと背が高い。 「なぁに?」 「……どうだった?」 「え?」 「この、四年間」 もうレッドの家の前まで来ていた。 私の、続いてレッドの歩みが遅くなり、止まる。開いた窓の向こうに、四年ぶりの母子の対面が待ってる。 また風が吹いた。 「どう、って……」 レッドの言葉を繰り返しながら、少し考えてみる。 この四年間。レッドがいなかった四年間。日々はひどく平凡で、特に印象的なものはなかった、…気がする。 じっと私を見つめて答えを待つレッドを前にして、不思議と思い出されるのは、レッドが旅立った日のことだった。 それがどうやら、『ここ最近』でいちばん強い記憶みたいだ。まるで四年間、記憶力が止まっていたみたい。 「特に何もないよ」 「……何も?」 「うん」 「本当に、何も?」 私がうなずけば、レッドはびっくりしたみたいで、その赤い目を少し見開いた。 昔ならきっと、このレッドのかすかな表情の変化もよく読めたかもしれないけど、四年間止まってたはずの記憶力なのに、こんなところではまったく役に立たなかった。 でも長年一緒にいた勘なのか、何となく、レッドは喜んでいるようにも見えた。理由はまったく検討がつかないんだけど。 「レッドは、どんな旅だったの?」 「…今度、ゆっくり話す」 長くなるから、と言って優しく笑ったレッドは、ふと自分の家に目をやり、それからまた私を見て、唐突に手を伸ばしてきた。 予想外の行動に思わず首をすくめた私の頭に、その手は夜風よりも優しく触れた。懐かしいな、レッドは昔からよく、こうして私の頭を撫でてくれた。 「なまえ、大きくなった」 「レッドもね」 レッドは手も大きくなっていた。頭を撫でる手の下からレッドを見上げて、私はようやく微笑んだ。 その先で、レッドはまぶしそうに目を細めて見つめ返してくる。その仕草がなんだか大人っぽくて、どきっとした。 「レッド、変わったね」 「なまえも、きれいになった」 「…やっぱり、変わってない」 「どうして」 「天然だから」 「……天然?」 ずっと思ってきたことをつい言っちゃったのに、意味が分からない、と言った風に首をかしげるレッドが何だか可愛く見えた。 やっぱりレッドは、変わってても変わってなくてもレッドだ。 そしてずっと、私の好きな人だ。 彼にとっては、昔も今も、私は妹みたいなものなんだろうけど。 「天然って、何」 「秘密!」 ぱっ、とレッドの手を離れて、私は元来た道をゆっくり後退しつつ、笑った。妹なんだから、これくらいの軽口をたたくくらい許してほしいって思いながら。 レッドはびっくりしたのかもしれないけど、表情は変わらなかった。変わらないまま、少しひらいた距離をまた詰めてきて、びっくりした私に視線を合わせてささやいた。 「明日の朝また迎えに行くから、待ってて」 「え?どうして?」 「………。なまえも、人のこと言えない」 「? どういう意味…」 「分からなくて、いい。……まだ」 はてなマークばっかり浮かべた私をそのままに、レッドは身を屈めるのをやめて、私を見た。それに疑問をいっぱい詰め込んだ目で見返すと、またレッドはふわりと笑った。 なだめるようにも、誤魔化すようにも見える笑み。それなのに格好良いのは、私がレッドを好きだからなのか、事実上なのか、レッドを好きな私には分からなかった。 「ただいま」 「……おかえり」 分からないけど、唐突に交わした何気ない日常のことばに、レッドが帰ってきたことの肯定が含まれてたからなのか、すごく安心した。 止まっていた記憶が動き出す (今までどこにいたの?)(……シロガネ山)(…え!?) |