シロガネ山の夜は漆黒の闇が支配する別世界だった。痺れるほどつめたい黒にふうと息を吹きかけるだけで、視界はふわふわとモノクロのマーブルに染まる。シロガネ山に来て以来、吹雪ばかりの日々のなか、ぽっかりと晴れたはじめての夜だった。もの珍しくて何度もそれを繰り返していれば、さくっとなごり雪を踏む音がして、背後に人の気配。 「…こんなところで何してるの」 振り返れば、雨風を防ぐにはもってこいのひろい洞窟から漏れる明かりを背後に、見慣れたひとが立っていた。 言ってしまえば、失踪したチャンピオンをシロガネ山で見つけたのは単なる偶然だった。ただただ強さに目のくらんだ私とポケモンたちは、強くなるためにたくましく育った野生のポケモンたちに勝負を挑みつづけていて。シロガネ山に登りはじめたのも登りきったのも、特に大きな意志があったわけじゃなかった。 出会って倒して、出会って倒して。繰り返すことでしか、私とパートナーは燃えるように熱い血潮を抑えるすべを知らなかったんだ。 「だって、はじめての夜空だから」 「ほんとに? 今まで空を見上げたことがないの」 「こんなに近くで見るのははじめてだよ」 黙ったままこちらを見ているレッドの顔は、光を負っているせいでよく見えない。切り取られた影から目を逸らして、もう一度宇宙を見上げる。メッセージを受け取りたくなるひとの気持ちがわかる気がするほど、満天の星空だった。 手が届きそうだね。ことばを発する代わりに、ちらちらとつめたく光る手を伸ばしてみたら、音もなくとなりにやってきていたレッドの手が伸びてきて、するりと絡めとられてしまった。 私とポケモンたちがただひたすらに強さをもとめてたどり着いた頂点には先客がいたのだ。ホールドされた指先からこぼれていくような星屑を見つめ、その犯人の方へ振り向いてみれば、闇のなかにあってなお赤い、怖いほど何かを訴えてくるつよいひとみに射抜かれる。 「…寒くないの」 「寒くないよ」 「こんなに冷たいのに」 「……人のこと言えないくせに」 ちいさく返したつぶやきは闇に溶け、天に伸ばした手からちからを抜けば、レッドの冷えきった手もろともいとも簡単に自由落下してしまった。 レッドにはぬくもりと呼べるものを感じたことがなかった。図らずも生きる伝説に出会ったあのとき、私たちは内に爆ぜる衝動につき動かされるようにバトルをした。そこいらのポケモンやトレーナーじゃあ到底止められないほどの、言わばちからの塊になりかけていた私たちは向かうところ敵なしだった……本当に、だれにも負ける気がしなくて。 洞窟ではたぶん今ごろ、私とレッドのパートナーたちが焚き火を囲んで微睡んでいる。暖かな生きた光は、手を取り合ったまま向かいあって立つ私たちの足元にすら届かないほど遠かった。 出会って、倒して、倒されて。始めのうちはただ、久しぶりに手に触れたと錯覚するほど手応えのあるトレーナーに出会えたことに私はふるえたのだ。次のボールに手をかけるのも、ボールを投げるのも、寒気がするほど楽しかったはずだった。 何もかもが崩れたのは、私が3つめのスーパーボールを取り出したときだった。 ふと合った視線の先で、レッドの目が、私とは正反対の光を伴っていることに気がついてしまったあの時に。 「……なまえよりは熱いよ」 すこし、ムッとしたような声が返ってきて私はこっそり微笑む。いつもなら照らすものなど何ひとつない山奥なのに、今日はダイヤモンドの粉々になったかけらが私たちに降りそそいでいるせいですぐにばれてしまったけれど。 「なに笑ってるの」 「だってこんなに冷たいくせに熱いなんて言うから」 「…それ、さっきオレが言った」 だからなまえの方が冷たい。不満げに、頑ななまでに言い張って、レッドはつないだままの手をゆるめ、そのまま手首を伝って二の腕あたりまでスライドさせてくる。ふたりぶんの白い吐息が混じり合い、氷を押しあてられているような指先に首をすくめようとしたのだけど、それはかなわなかった。 二の腕をうえからつかむ形だった手のひらが、とつぜん肩をつかんでちからを入れてきたんだ。満天の星が流れ、ふたりぶんの呼吸が漆黒に白くたなびくのがまぶたに焼きつく。 圧倒的なまでの熱につつまれて、気づいたら息をとめていた。 私はあの頃たしかにちからの塊になりかけていた。ちいさな光を奪ってあつめて、それでも満たされないまま生きてきた。あつめれば集めるだけ重たく光りだすそれを止めるすべはきっと、ひとつだけだったから。 「これでもまだ、自分の方が熱いって言い張るの」 耳元にうずめられたくちびるから直接脳を溶かす声が、またひとつ私からちからを奪っていくことをレッドは知らないんだろう。強すぎて、奪いすぎて輝くほどずっしりと重くなったそれは、ひとりで負うにはきっと重すぎたはずなのに。 うん、って言ったらどうするの? 尋ね終わらないうちに、背にまわされた腕にちからが篭って締めつけられるような苦しさを増してきた。 強大なちからがぶつかったんだから、いっそのことちいさく分散してしまえばよかったと、一体だれのために、何度祈ったかしれない。 「……レッドの負けずぎらい」 「……うん」 「熱いってば」 「そう」 「だから、ねえ、離してよ」 「いやだよ」 喉のおくで愉快そうに低く笑う、その笑い声が珍しいものじゃなくなってから気づいたことだけど、もしかしたらレッドの方が先に知っていたのかもしれなかった。世界中から切り離されたこの頂きに私をしばりつけるそのものの名前を。 「本当に離してほしいなら、抵抗してみせてよ」 ささやきはどこか祈りのようにも聞こえ、私はレッドの心地よい腕のなかで、ただただ冷淡なまでにしらを切ちりつづける夜空を恨みがましく見上げることしかできなかった。 鏡花さんへ捧げます
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