「…なまえ」 「ん…なに?」 「キスしてもいい?」 がさがさの声のまま答えたら、とんでもないことばが飛んでくるものだから私の眉は跳ねあがった。逆にトオイくんは眉尻をさげて、いたずらが成功した子どもみたいな顔でくすくす笑っている。どきどきと早鐘を打ちはじめる心臓のせいで、体温はもっとあがってしまったかもしれない。 「だっ…だめだよ、なに言ってるのトオイくん」 「どうしてだめなの?」 反射的にふとんを口もとまでひっぱりあげた私のベッドのかたわらにひざをついて、トオイくんは聞き分けの悪い子どもみたいにこてんと首をかしげる。わかってやってるのか、無意識なのか…私にはまだ見分けがつかないけれど、もし前者なんだとしたらたちが悪い、悪すぎる。 だって、キスなんかしたら移してしまう。夏はそろそろ終わるけれど、まだ暑さの残るこの時期にこんなに寒くなるくらいの風邪だから、はやく私ひとりで治してしまわなきゃ。 …なんて、はずかしくて言えるはずがない。きょとんとしたまま私を見つめてくる薄氷のひとみを、私は眉根をよせてじっとにらんでみた。これが精一杯の抵抗だ。 しばらくそのままじいっとふたりで見つめ合っていたんだけど、最初に表情をくずしたのはトオイくんの方だった。ふわり、とこころから浮かびでたような微笑みが、砂糖がけのフルーツみたいにあまくくちびるに乗る。 「…なまえ、かわいい」 普段めったに聞けないことばに絶句してかたまった私は、不意にベッドに身をのりだしてきたトオイくんの行動に、とっさに反応することができなかった。 ちゅ、とちいさなリップ音をたてて、やわらかくて温かなくちびるが私のひたいに落ちる。それからとっさに閉じてしまったまぶた、もう片方のまぶたにも。やわらかな髪の毛がさらさらと肌にふれてくすぐったいけれど、私はもう顔から火がでるんじゃないかってくらい頬が熱くて、あつくて、なんだかくらくらしてくる。 もう離れたかな、とそっとひとみを開けたら、その隙をついて、口もとまで引き上げていたはずの布団をやさしく、でもつよく引きはがされてしまった。 「あ、」 「これなら移らないから、だいじょうぶ」 間近でささやかれるように落ちてきた声に、またぎゅっと目をつぶったら、今度のぬくもりは頬におちてきた。ぎりぎりくちびるの端にふれるか触れないかの境目にも、もうひとつ。そうっと、赤ちゃんにするようにあたまを撫でてくれる手のひらを感じる。 こんなのじゃ、移っちゃうかもしれない。全然だいじょうぶなんかじゃない。 あわてて目をひらいたらトオイくんはもうベッドサイドに戻っていて、ちいさなテーブルに置いてあったらしい薬と水の入ったグラスを手に笑った。 「…薬もあるから、これ飲んでもう一回寝るといいよ。それで熱がさがったら、おかゆ食べよう」 だいじょうぶ、すぐ元気になるよ。 安心するようなあたたかい笑顔はロンド博士にも共通する、いちばんトオイくんらしい表情で…なんだか、本当に、ずるいとしか言いようがない。レースのカーテンの隙間からのぞく日差しはつよくて、きっと寝てからそれほど経ってないんだろうけど、トオイくんはいったいどれくらいこの部屋にいたんだろう。 「…トオイくん」 「ん…?」 「もしかしてずっとこの部屋にいたの?」 「うん。ヒトカゲはプラスルとマイナンと遊びに行かせたよ。移ったらよくないし」 おとなしくグラスと薬を受けとりながらたずねたら、トオイくんは何てことないように答えるからちょっと呆れてしまった。ヒトカゲたちに移さないならうれしいけれど…もしそれでトオイくんに移ったら変わらないのに。 ごくり、とカプセルを飲みくだす。差しだされる手にうながされるままグラスを預けてもう一度横になったら、トオイくんの意外におおきな手のひらはゆるゆると、おでこの生え際を撫でてくれた。 「移せるなら移しちゃっていいんだよ」 「そんなはず、ないよ」 「あるんだよ。人間は大人になっても、1年に2度は風邪をひくんだから」 変なところで頑固なトオイくんが言い張る。無意識なんだろうけど、ちょっと速度をはやめた手のぬくもりがうれしくて、おかしくて、まどろみながら私は笑った。ふたたび迫りくる闇はおだやかであたたかい。 「おやすみ、なまえ」 笑みまじりの声はとても安心する。 冷たくてやわらかいぬくもりが額、まぶたへとまた落ちてきたんだけど、もうまぶたを開ける気にはならなかった。つぶやいたおやすみは届いているかわからないけれど、次にひかりを超えたときにはきっと、熱はさがっているんじゃないかな。 びーちゃんへ捧げます/110902
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