不意に引かれた手。
驚いて振り返ると、そこには蓮がいた。
「あ、蓮…?」
「なまえ、信号」
「えっ?」
指差されて前を見れば、信号が赤に変わっていた。
全然気付かなかった。
「死ぬつもり?」
「ご、ごめん」
「それにしても、なまえ、走るの速いね」
「あ…」
そうだ、蓮。
どうして彼がここにいるのだろう。
それが顔に出ていたらしく、蓮は額の汗を拭いながら笑った。
「追い付けてよかった」
「…ごめん」
無意識に、ほんと無意識に走っていたから自分のスピードなんて分からないけど、蓮が言うぐらいだ。きっと速かったのだろう。
普段の私からは想像が出来ないくらい。
「なまえ」
「ん?…わっ」
蓮を見ようと顔を上げると、何かで片目を覆われる。
蓮のにおいがするそれがハンカチだとすぐに分かった。
「……ありがとう、蓮」
「ん」
彼のさりげない優しさがすごく身に染みた。
*****
「ごめんね、まだ授業あるのに…」
蓮を学校に戻して私は帰ろうとしたが、彼は頑なに拒んで『送るから』と言ってくれた。
「1人が良かった?」
「そんな事ないよ!」
寧ろ蓮が来てくれなかったら今頃車に轢かれていたのだから。
「なら良かった」
「あの、学校…」
「大丈夫だよ」
「でも…」
「大丈夫」
ふわり、と頭に手を置かれる。
小さい子供をあやすようにぽんぽんと叩かれた。
拓海にそうされるのは平気なのに、蓮だとすごく恥ずかしくてごまかすように声をあげた。
「あの角を曲がってすぐが家だよ」
「なまえんちに行くの初めてだね」
「そういえば」
中学時代は拓海と蓮の3人でよく遊んでいたけど、それは外でだから私の家は初めてだ。
私だって蓮の家は行ったことがない。
「普通の家だよ?」
「普通じゃない家ってあるの?」
「え?うーん………に、忍者屋敷とか?」
「それ、家じゃないよね」
「うっ」
蓮は口元とお腹に手を当てて笑いをこらえている。
は、恥ずかしい…。
「あ、なまえ?」
角を曲がってすぐ、玄関に入ろうとしているお姉ちゃんが出てきた。
「お姉ちゃん!」
そういえば今日は大学の授業がないって言ってたっけ。
蓮とお姉ちゃんは顔を見るとお互いに頭を下げた。
「なまえの姉の弥生です」
「一ノ瀬です。なまえさんとは仲良くさせて頂いてます」
蓮の名前を聞くと、お姉ちゃんは顔を輝かせた。
「貴方が蓮くんね!いやー、やっぱり噂通りカッコいいわ」
「噂…?」
「うん。友達の妹が同じ学校みたいで、それでね。って…」
お姉ちゃんはジトっとした目で此方を見る。
「あんた学校は?」
「あ、はは〜」
乾いた笑いを張り付けていると何かを悟ったのか、ただ『はぁ』と息を吐いた。
「とにかく家に入りなさい。蓮くんはまだ学校があるでしょ?送ってあげるから戻りなさい」
「あ、いえ。大丈夫です」
「いいの。どうせなまえのカバンを取りに行かないといけないみたいだから」
突き刺さるような視線には『あとで何か奢りなさいよ』というのが込められている。
「すみません、お願いします」
「ふふ、助手席にカッコいい子が乗るなんて、運転のしがいがあるわぁ」
楽しそうにキーを人差し指でくるくる弄びながら、お姉ちゃんはガレージに消えていった。
「じゃあね、なまえ」
「うん。色々とありがとうね。ハンカチはちゃんと洗って返すから」
「気にしないでいいのに」
「ダメだよ」
首を振って微笑んでみせる。すると蓮も笑い返してくれた。
「ん」
「…あの、聞かないの?」
「なにが?」
「その…」
私が何を言いたいのかすぐに察した蓮は、もう一度私の頭に手を置いた。
「無理に話さなくていいよ。いつでも聞くから」
「蓮…」
あぁ、やっぱり蓮は大切な友達だ。
「蓮くん、車に乗ってー」
「あ、はい」
お姉ちゃんに向かって『お願いします』と、律儀に頭を下げたあと、彼は助手席に乗った。
「蓮、ありがとう。また明日学校でね」
「ん、また明日」
蓮を乗せた車は静かに走り出した。
拓海にさよならをしてぽっかり空いた穴が少しだけ塞がった。
そんな気がした。
end