▼ 38 変わらぬ愛おしさ
昔の夢を見た。
まだ変声期も迎えていない子供だった頃。村の男の子達───悪ガキ達、と表現しても間違いではないかもしれない───から、女の子だからという理由だけで仲間外れにされてしまった少女は、ひどく悲しい思いをしたのだろう。
泣きながら帰ってきたかと思えば、少女は真っ先に少年の元へ。名前を呼ぶ声が小さく震え、ぽろぽろと大粒の涙を流し、スカートの裾を皺が寄ってしまう程に握りしめて。
怪我はしていない。暴力を振るわれたわけではないのは救いだ。だからと言って、泣いてしまう程に嫌な思いをした事実は変わらない。
無意識だったと思う。少年は、少女をその腕の中へと引き寄せた。大丈夫だよと伝えるように、優しく背を撫でながら。時折少女の名を呼ぶ声が、ひどく穏やかだった。
泣き声は次第に小さくなり、ややあって落ち着いた頃に顔を上げ、赤くなってしまった目元を緩ませありがとうと微笑むのだ。
お前にはオレがいる。だから安心しろよ。子供同士の会話。抱きしめる腕も、掛ける言葉も、内に秘めた想いも、その意味を知らず。
けれど今、夢から覚めたルーネスは、腕の中で眠るユウリに確かな想いを抱いている。幼き日の自分。少しだけ年下のユウリ。当時はまだ分かり得なかった感情が、いつからか愛だと知った。
ああ、これが、誰かを愛するという事なのか。傍に居たいと思うのも、守りたいと思うのも、抱き締めたいと思うのも、触れたいと思うのも、すべて。
全て、この少女を愛おしいと思っているから。ベッドサイドに置かれたネックレスに込められたアメジストの意味、それを受け入れて欲しいと願う。
そう言えば、最初に唇を重ねた翌朝も、同じようなシチュエーションで、同じような事を考えていた。その時よりも、もっともっと互いの心は近付いているだろう。昨夜の甘くてとろけてしまいそうな雰囲気が、それを顕著に物語っていた。
抱き締めて、髪を撫で、温もりを感じながらキスをして、甘えてくる彼女を可愛いと、愛おしいとまた抱き締めて。視線が絡めば、何度だって飽きる事なく繰り返される口付け。
幸せな気持ちになるとユウリは言った。本当にその通りだ。愛する人と触れ合えるのだから、溢れる程の幸せを感じるのは当然かもしれない。
「ん…ルーネス…」
もぞりとユウリが動いたのと同時、微かに聞こえた名を呼ぶ声。瞳は閉じたまま、ふにゃりと目元が笑ったように見えた。
起こしてしまった訳ではないみたいだ。ゆるく、今度はこちらの口元に微笑みが浮かぶ。彼女は今、どんな夢を見ているのだろうか。
夢の中の自分は、彼女に何をしてあげて、どんな言葉を掛けているのだろうか。戦いのない、平和な時を過ごしているのだろうか。
「ユウリ…」
愛おしい彼女の耳元に唇を寄せ、吐息と共に。
「…好きだよ」
小さく、零された言葉。
想いを言葉にしてしまうと、より愛おしく感じてしまう。しかし今はまだ伝えてはならない、それも分かっている。けれど相手に、届いていないのならば…
「大好きだよ、ユウリ」
その時くらいは、口に出しても、許されるのではないだろうか。夢の中の自分は、こう伝えているかもしれない。それならば…もしも今、ユウリが目を覚ましても、夢の中の事だったと思い込むだろう。
好きだよ、もう一度言葉を紡いで優しく頬に指を滑らすと、そのまま触れるだけの口付けを落とした。
今日はアーガスを発ち、シドの元へ向かい飛空艇を完成させてもらう予定になっている。その後はいよいよ、この浮遊大陸を飛び出し新たな世界へ降り立つのだ。
あの、古代人の村で見た、雲の海の向こう側へ。着実に前へ進んでいる。皆の助けを借りながらでも、自分達の力でここまで来れている。
これから先も、今までのように一つずつ壁を越えていけばいい。だから大丈夫だ。仲間と一緒なら乗り越えられる。
信じよう。必ず、伝えられる日が来る事を。想いを言葉にして届けられる日を。その時まで、必ず君を守るから。仲間も皆、守るから。
ふと服が引かれる感覚がして視線を落とした。確かな意思を持ってゆるく握られた手。ユウリが目を覚ましたのだと気付く。
まだ寝惚けているのかその瞳はとろんと開き、ゆるゆると視線を彷徨わせた後にルーネスの姿を確認すると、ふにゃりと破顔した。
「………───ふふ、おはよう、ルーネス」
「おはよう。なんか顔緩んでるけどどうした?楽しい夢でも見てたのか?」
「うん、とっても。すごく幸せな夢だったよ」
「へぇ、どんな夢?」
「うん?んーとね、んー…あー…ちょっと、秘密かも?」
「秘密?なんで?」
「恥ずかしいのと、あと…うん、やっぱりちょっと、言えないかな?あ、でもね、ルーネスの夢だよ」
「オレの?」
「そう。夢の中のルーネスがね、すごく嬉しい事を言ってくれたの」
「気になるなー、どうしても秘密?」
「ふふ、うん。ごめんね?あと、ありがとう」
「ん?え、何が?」
「ううん。ねぇ、ルーネス。…私も、だよ」
「…!?」
ふわり、微笑みながら。嬉しそうとも幸せそうともとれるような表情で零されたそれに、息が詰まった。
一見すると、よく分からない事を言っているように聞こえるだろう。だが、もしかしたら。寝言でルーネスと呼んでいた、あの後の事がユウリの夢に反映されていたのではないだろうか。
勿論、ルーネスの憶測にしか過ぎない。過ぎないのだが、なんとなく、内容は言えないという事は。私もだと、返事のような言葉を伝えてきたという事は。
───やはり、告白の言葉を、夢の中で伝えていたのではないだろうか。
もしくはあの時から半分覚醒していて、聞こえていたのかもしれない。だがそれも夢の中の出来事だったと思い込むだろうと、そう予想したのもあながち間違いではなかったのかもしれない。
どちらにしても、本当の事は分からない。曖昧なままにしておいた方が良いのかもしれないと、そう思うのも事実ではあるのだが。
大きなベッドに横になったまま、僅かな距離を空けて向かい合っている二人。甘えるように触れてきたユウリの手を取り、指を絡めた。
「あーーー…もう、まじで………」
「え、なに、どうしたの!?」
「なんでもない…オレが勝手にそう思ってるだけかもしれないし…」
「?」
「…聞いてもいい?」
「うん?何を?」
「…何に対しての、私も?」
「ん、それ!?ええと…ちょっと、それは言えないっていうか…」
「あのさ、もしかして…起きてた…?」
「いつの話?…もしかして私が寝てる間に何かしたの!?それとも寝相ひどかった…!?」
「してない!してないし、そうじゃない!そうじゃなくて…」
この場合のユウリが言う「何か」とは決して性的な意味ではなく、無防備な寝顔の頬を両側から引っ張ってみたり潰してみたり、所謂変顔にされたのではないかといった危惧である。
触れる事はあっても、嫌がるような事はしていないつもりだ。勝手にキスをしたり髪を弄んでみたりしたのはまぁ…幸いながら嫌がられた記憶も無いし、許されるだろう。
「本当、ユウリって…」
「な、何…?」
「…なんでもないよ。それよりユウリのその服、お姫様みたいだな」
これ以上はある意味で心臓に悪い。危機感を覚えたルーネスは話題を変え、レースやフリルをふんだんに使っている華美なワンピースのようにも見える寝間着に視線を落とした。
「え?あ、これね、本当にお姫様が着てたものなんだって」
「ああ、どうりで」
「このふわふわの寝間着とか天蓋付きの大きなベッドとか、小さい頃に憧れた事があってね、それが借り物とはいえ叶って嬉しいな」
「そっか、良かったな」
「あとお風呂…大浴場って言うのかな?も、貸し切りにしてくれて。レフィアと入ったんだけどね、すーっごく広くて。お身体流しますね、ってメイドさんが入ってきた時はびっくりしたなぁ」
「へぇー、男湯には来なかったけどな」
「恥ずかしいから、結構ですって断っちゃったんだけど…えー、もしかしてルーネスは女の人に来て欲しかったの?」
「ん?いや、知らない女の人はちょっと…ユウリとだったら大歓迎なんだけどなぁ」
「そ、えっ!?なっ…!?」
思いもよらない発言だったのか、物凄く驚愕した様子でユウリの肩どころか全身がびくりと跳ねた。
ユウリからしたら少しからかってみただけのはずだったのに。返ってきた言葉は逆に自分がからかわれているような、驚き離そうとした身体を逃さまいと抱きすくめられ、頭上からくすくすと含んだ笑いが聞こえてくる。
「ちょっと、よくそんな恥ずかしい事をさらっと…!!」
「ごめん。でも結構本気で言ってたりする」
「ひぇっ!?」
「ははっ。そんなに驚くか?小さい時は一緒に入ったりしてただろ。あー、でもやっぱこの歳になるとまずいかな」
「いやー、まずいって言うか…」
正直に言うと、一緒に入る事自体を嫌だとは全く思わない。けれどそういった云々よりも何よりも。
「は、恥ずかしいでしょう…?」
本当にその一言に尽きる。一緒にお風呂となると、当然ながら服を脱がなければならない。明るいバスルームで裸体を晒す事になるのだ。
スタイル抜群で非の打ち所が無い体型というわけでもない。自信なんて持っていないし、自分の事もそうだけれど、彼の………
「うん!やっぱり恥ずかしい!ものすっごく恥ずかしいね!?」
「うおっ!?」
想像してしまった動揺の勢いそのままに思い切り抱きつき頭をぐりぐりと彼の胸元に擦り付けると、ルーネスから驚愕の声が漏れた。
背に回した腕に力を込めてぎゅうっと絡めてみても、無駄なお肉が付いている感触はしない。いつだって受け止めてくれる胸も、包み込んでくれる腕も、シャツの襟元から覗く鎖骨も、その全てが綺麗なラインを描いているのは容易に想像できてしまう。
落ち着かせようと頭を撫でてくれるこの手も、自分より大きくて。剣を握っているためか少し硬くなっている手のひらも、節がしっかりした指も、穏やかな低音の声も、全てが男性のそれで。
幼い子供の頃ならば、男女の体格にあまり差はないけれど。でも今は、違う。今のルーネスとユウリは、身も心も完全に異性なのだ。
「嫌ってわけじゃないのか?」
「ううん?ん…うん、嫌ではない、かな。ルーネスとだったら…ただ心の底から恥ずかしくて…」
「…そっか。じゃあ…」
少し、可笑しそうな色を含んだ声が聞こえて顔を上げた。僅かにしか離れていない距離、互いの視線が絡んだと同時、
「…今度、本当に入ろうか。二人で一緒に」
囁くようにそう零したルーネスが、物凄く色っぽい目をしていて。細められた瞳に射抜かれ、思わず息を呑んだ。身体の芯がじわりと熱を持った感覚がする。
ルーネスがふとした時に見せる、この表情に弱い。普段の彼とは違う、色香を孕んだ男性の顔。美しい銀色の髪と、夕闇色の瞳が一層彼の魅力を引き立てている。
───ああ、ずるい。好意を持っている相手にこんな表情で見つめられたら、心がかちりと捕らえられ抜け出せなくなってしまうではないか。
とはいえ、元より相手に依存しているのは誰か。或いは互いに同じ想いを秘めているのではないか。だからこその現状、そして今までの行為なのだろうか。
「…ライト、消して入っても良いのなら…」
その“今度”がいつになるのかは分からない。けれどその時が来たら、素肌で触れ合う事になるのかもしれない。今まで抑えてきた関係が壊れてしまわないように、細心の注意を払って。
羞恥心は当然、ある。けれど───彼に触れてもらえる事の方が、それよりも嬉しいと思ってしまう。
「…ん、分かった」
ルーネスの形の良い唇が、笑みを深めた。我儘を聞いてくれてありがとう、と。瞳をいつもの優しい色に戻して。途端に解かれる熱情の糸。
そのまま与えられる口付けは優しく、甘く。直前まで感じていた緊張を、包み込むようにゆっくりと溶かしていった。
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