▼ 1 始まりは突然に
空は青く綺麗に澄み渡っている。
人々の声、小鳥の囀り、葉擦れの音、川のせせらぎ、草原を優しく吹き抜ける風は、いつもの村の風景と変わりない。
先日感じた大地の揺れ以降、陽の光が弱まったような…若干の暗さを帯びているように感じられる事、そして村の外に潜んでいる魔物達が凶暴化した事を除けば。
魔物は以前から生息していたが、比較的おとなしく自分が知る限りあちらから危害を加えてくることは滅多に無かった。隣町に行くのにも、散歩感覚で出掛けられる程に。
「魔物が村の中に入ってくる事って、あるのかな?」
村の東にある、いつもの泉のほとり。ふと沸き上がった疑問を、隣で本を読んでいるアルクゥに尋ねてみる。
彼は博識だ。ユウリの知らない事も、聞くと大体の事は答えてくれる。その多くは書物から仕入れた知識か、それに基づく彼の考察だ。
「人が住んでいる所には結界が張ってある事が多いから、簡単には入ってこれないみたいだよ」
読んでいた本から顔を上げ答えると、
「結界より強い魔力を持っていたり、誰かが破ったりしたら入り込んでくるかもしれないけどね」
そう続けた。結界が張られているのは知っていたが、それはいつ、誰が張ったものなのかは、誰にも分からない。
おそらくは村を創った御先祖様なのだろうが、それも定かではない。どれほどの力を持っているのか、効果はいつまで続くものなのか。
考えてみると、そういった特殊な魔法の類の事はよく知らない。関わる事もないと思っているし、何より普通の人間には扱えるわけがないのだ。
それ相応の修行を遂げた人にしか与えられない力。それは特殊な魔法に限らず、どんなことにも言える事だろう。それこそ勉強も。
「勉強かー…」
「え?何の話?」
「アルクゥが色々知っているのも、勉強の賜物なんだろうなと思ったの」
「ああ、そういうこと。うーん、僕の場合は好きで本を読んだりしてるだけだから…勉強というより、趣味になるかな」
「立派な事だよ、それを知識に変えて蓄積するなんて、誰にでも出来ることじゃないもの」
「そうかな?」
ありがとう。アルクゥは少し照れたように微笑んだ。
「魔物の事が気になるの?」
「うん、少し。凶暴化したって聞いたから」
「そうみたいだね。地震のあと、別の生き物みたいになったって」
「やっぱり人間を襲ったりするのかな?」
「歴史の書には、魔物に襲われて命を落とした人は沢山いるって書いてあったかな」
「そ、そうなんだ…」
怖い。素直にそう感じた。武器を持たない私達なんて、凶暴な魔物からしたら格好の餌食なのだろう。と、思う。
…餌食?魔物は人間を食べるのだろうか?
「食べるのかな?」
「え?」
「人間」
「食べるんだろうね。魔物からしたらご馳走になるんじゃないかな」
聞かなければ良かったと自分を恨んだ。
やはり痛いのだろうか…それとも痛みを感じる間もないほど瞬時に絶命してしまうのだろうか。
「まあ、とは言ってもそれは遠い地の歴史の本の中のお話だから。ここらの魔物は文献で見ると、そこまでの力は無いみたいだよ」
余程怖がっている顔をしていたのだろう、アルクゥはふわりと微笑むと、ユウリの頭を優しく撫でた。
ずっと、この村で一緒に育ってきたのはいつからなのだろう。物心がついた時には既に一緒にいた。
ユウリ、アルクゥ、そして今この場にはいないルーネス。三人はいつも一緒で、食事も遊びも勉強も、育て親の元、兄妹みたいに寄り添いながら育ってきた。
育ての親。
その事を聞かされたのはいつだったか、はっきりとは覚えていないが、三人は一緒に生活している誰とも血が繋がっていないと聞かされている。
「多分、僕たちが思っている以上に世界は広いと思うんだ」
ふいにアルクゥが口を開く。
「本でしか読んだ事はないけれど、資料はたくさん残されているから、これは間違いないと思う。この世界のどこかには、世界中の本を集めたようなとても大きな図書館がある国もあるみたいだよ」
遠い、想像しか出来ない地に馳せる思い。
いつか、行ってみたいと。一体どれほどの知識が眠っているのだろう、それは全く想像もつかなくて。
もし古代人の残した文献などが保管されていたとしても、そもそも記されている古代文字が読めないかもしれない。それはそれで、解読する楽しさも味わえるかもしれないが。
きっと読みきれないほどの本があるんだろうな、瞳をきらきら輝かせながら呟くアルクゥに、ユウリは苦笑した。
いつか見る事が出来るといいね、そう返すしかなかった。そもそもユウリ達は、この大陸どころか、ウル、カズス、サスーン城の生活圏内にしか出た事がないのだ。
それでも別段、不便はしていないが。それは世界を知らない故かもしれないけれど。ただ、まだ好奇心が旺盛な年頃。
今のアルクゥもそうだが、特にルーネスは外の世界に興味があると普段から零している。
「そういえばルーネス、どこまで行ったんだろう?村の外を探索してくるって言ってたよね」
「うん、魔物がいるから危ないよって言ったんだけど、僕が止めても意味がなかったみたい」
今度はアルクゥが苦笑し、肩を落とした。
「僕たちがまだ赤ん坊の頃くらいかな、この前の地震よりももっとすごく大きな地震があったみたいなんだけど、魔物はその辺りから人間を襲うようになったんだよね」
「その話は私も聞いたことがあるよ。本当に物凄い揺れだったって」
「そう、そしてその時も、陽の光が弱まった。この前の時みたいに」
「え、それじゃあ…この前の地震は、十何年前の大地震と何か関係があるという事なのかな?」
「はっきりとは分からないけど、ほぼ間違いないんじゃないかな」
「そっか、なんだか怖いね。世界に何が起こっているのかな…」
「本当にね。このまま陽の光が弱まり続けたら、いつか世界は闇に包まれてしまうよ…」
眉間に皺を寄せ、憂うようにアルクゥが呟いた。
確かに、太陽の光が届かなくなると、花や木々は枯れ作物も育たない。暖かさを感じる事も出来ず、心を病む。人が生きていく環境ではなくなってしまうだろう。
この先どうなってしまうのだろう、そうユウリが口を開こうとした、その時だった。
───おまえ達は選ばれた
凛とした声が、心に直接語りかけるように、聞こえてきたのは。
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