昔、夏目漱石はI LOVE YOUを[月が綺麗ですね]と訳した。
おもしろいよね、と彼女が楽しそうに話していたのを覚えている。僕はあまり物覚えがいい方ではなかったけど、この事は何故か覚えていた。
彼女が引っ越すらしい。いつものように公園で遊んでいたら、突然言われた。
まだ少し寒さが残り、辺りはそんなに遅くないのにもう暗い。まだまだ冬だなぁと頭の隅でぼーっと思ったりした。
「ちゃんと聞いてた?」
あまりリアクションをしなかった僕の顔を覗き込む。
「ちゃ、ちゃんと聞いてたから」
慌てて顔を逸らす。顔が火照ってしょうがない。夜でよかったと心底思った。
「私、引っ越すの明日だからね」
「はあぁ?いや、えっ?」
事態の深刻さをやっと理解し、慌てる僕を見て彼女はその反応を待っていたの、と満足そうに微笑む。
「そんなの聞いてない」
「だって今初めて言ったもん」
当たり前だよ、と笑った。
「マジかよ……」
何がなんだか分からず、頭が真っ白になった。
最初は笑っていた彼女だったが、わざとらしくため息をついた。「そんな、泣きそうな顔しないでよ」
だから言いたくなかったのに。彼女は困ったように微笑んだ。
「笑って、見送ってくれないかな」
彼女はポツリと言った。
あぁ、もう、困らせたくないのに。言いたいことがありすぎる。でも、何を伝えればいいか分からなくて、口はパクパクと動くばかり。
早く、何か言わなくちゃ。
「つ……、月が」
彼女は首を傾げた。
頑張れ自分…、グッと拳を握りしめた。
「月が、綺麗ですね。とても」
彼女は目を見開いた。
どうして……と言いたげだが、そんなの関係ない。
一度口にでてしまうともう止まらなかった。狂ったように、ただ、ただ月が綺麗だと言い続けた。気づけば涙が頬を伝る。他の人から見ればとても滑稽に違いない。しかし、そんなの関係ない。涙も言葉も止まらない。
涙を拭い、彼女の目を見て、はっきりと言った。
「月がとても綺麗だった」
彼女はただ優しい瞳でまっすぐに僕を見つめ一言言った。
「バイバイ」
2012.09.10改訂
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