「もう、焦凍の顔も見たくない」

約一時間前の話。思わず口を衝いて出た言葉が私の中で反響して、消えない。事の発端は何だったっけな、些細な口論が膨らんで、広がって、気付けば取り返しがつかないくらいに大きくなってしまった。確かきっかけは、明日予定していたデートの日程をずらせないか、という焦凍のお伺いメッセージを受信したこと。日程変更なんてお付き合いする中でけして少なくない回数を刻んできたし、予定総崩れだってざらにある。日常的な、在り来りで、有り触れたこと。私たちにとっては本当に些細なことなのだ。些細なことだったのに、つい、噛み付いてしまった。明日は、二人の一回目の記念日で。ただ、それだけの理由。もっとも、それを迎えられないまま終わりを迎えたのだけれど。
今まで数え切れない程の我慢をしてきた。それなりにいい彼女でいたという自覚はある。連絡がなくても、予定が総崩れしても、デートの途中で仕事が入ってしまっても、待ち合わせ時間を過ぎてから連絡がなくても、1ヶ月という単位で会えなくても、誕生日をすっぽかされても、全てを容認してきた。それがヒーローと付き合う人間の運命だと。ヒーローを恋人に選んだ自分の覚悟だと。おおよそ我慢という言葉が出てくる時点で覚悟なんてなかったのかもしれない。だからこそ、明日くらいは私を優先してくれると思っていたのだ。
メッセージが届いてすぐ、焦凍に電話をかけた。明日の予定はどうしても行かなければだめなのか、焦凍でなければだめなのか、時間をずらすだけじゃだめなのか、という所から、明日は絶対空けると言ったのに、約束したのに、私はその程度の女だったんだね、という面倒臭い所まで登り詰めた。我ながら面倒臭い女だと思う。ほんのり鼻の奥がつんとして、それを堪えるのに全力を注いでいた私の口は、いつも我慢してるのに、と零してしまった。我慢しろなんて一度も言っていない、と抗弁したのは焦凍。
終わった、そう思った瞬間、我慢していた涙は呆気ないくらい簡単に流れる。もう顔も見たくないと吐き捨てて、一方的に通話を終わらせた。着信拒否、ブロック、スマホの電源を落として、今。何もやる気が起きなくて、ベッドの上で蹲っている。涙は止まったが、思考が止まない。きっと焦凍は記念日なんて覚えていなかったのだろう。きっと私の存在なんてちっぽけなものだったんだろう。正解のない自問自答が続く。やっぱり言い過ぎたかな、と後悔の念が渦巻き始めた頃、自宅の玄関が開く音が聞こえた。少し乱暴に靴を脱ぎ捨てる音と、足早に床を踏みしめる足音も。

「…おい」

聞きなれた声を聞いて、反射的に顔を伏せた。予想もしていない人物の登場に、心臓が波打って、体が硬直する。なんとも言えない緊張感。返事をしない私を見るに見兼ねたのか、その人物が、焦凍が、ベッドに近付く気配。

「なまえ」

すぐ近くで名前を呼ばれた。無反応、無言を貫く。少し前まで言い合っていた相手に、なんと言えばいいのか分からない。それと、単純に気まずい。怒っているのだろうか。だからわざわざ家まで来たのだろうか。時計の秒針が時を刻む音だけが鮮明に聞こえる空間に、分かりやすい溜め息が落ちる。握り締めたまま動かせなかった私の手に、焦凍の手が重ねられた。急な接触に背筋が跳ねる。

「俺が悪かった、だからちゃんと話がしたい」

顔だけを動かして、声のする方を見る。色違いの瞳が思ったより近くて、息を飲んだ。怒ってるんじゃなかったのか。そんな悲しそうな目で、見ないで欲しい。私の返事を急かすように、再度名前を呼ばれる。

「...話すこと、ない」

「俺はある」

喉が張り付いて声帯が上手く振動しない。目を背けると、重なる焦凍の手に力が籠った。悪かった、と言うから、なにが、と返す。我ながら、本当に面倒臭い女だと思う。こんな察してちゃんではなかったはずだが。

「なまえに我慢ばっかさせてたこと、気づいてなかった」

「…うん」

「俺の配慮が足りなかった、なまえに甘えてた」

今後気を付けるじゃ、だめか。そう言い終わると、重ねられていた手が退いて、私が握り締めていた手を解く。それはするりと二人分の指を絡ませて、また元の位置に収まった。

「なまえに我慢しろなんて言わないし、なまえが我慢してるのに気付けねえから、言って欲しい」

その言葉にまた、鼻の奥がつんとする。そういうことか。私が勝手に我慢して、爆発しただけ。やばい、と思った頃にはもう遅くて、止んだはずの涙がまた溢れた。私こそごめん、と伝えたかったのに、私の声帯は不格好に震える。繋がれてない方の焦凍の手が、私の背を撫でて、それで更に涙が溢れて、止まらない。いい彼女でいたかったの。負担になりたくなかったの。でも明日は記念日だから、一緒に過ごしたかった。我が儘でごめんなさい。しゃくり上げながら、必死に紡いだ言葉を、焦凍は私の背を撫でながら聞いていた。どのくらいの時間が経っただろうか、私の呼吸が落ち着いた頃、名前を呼ばれる。

「ひとつ、聞きてえことがあるんだが」

「…うん」

「…記念日って、」

もしかして、と続けて、焦凍は分かりやすく表情を強張らせた。心做しか焦っているようにも見える。内心笑いながら、私は分かりやすい溜め息を落とした。ほら、やっぱり覚えていない。大人しく時を刻んでいた時計は日付を変えている。これもいつか笑い話になるといいな、なんて思いながら、繋いだ手に力を込めた。



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