arcana/鳳瑛一


目を覚ますと、部屋の中はまだ暗かった。
ベッドから体を起こした姿勢で、私は辺りを見回す。
シーツから素足を伸ばして、床につけた。
部屋から抜け出す。手を離した扉は、パタリと静かに音を立てた。

リビングに行くと、小さく音が聞こえてきた。
扉を開けて暫く、私はドアノブから手を離すこともせずにその音色を聴いていた。
ふ、と顔が上がり、横顔は瞳でこちらを捉えた。
「……起こしたか?」
おもては私に向き、少し口元を緩めた。片腕をギターのボディに引っ掛ける。
「あ……いえ、私こそ邪魔をしました……」
「ハハ、そんなことはないさ。別に何か曲を弾いていた訳でもないからな」
瑛一さんはそういうと、膝に乗せていたアコースティックギターのネックを掴んで傍らに立て掛けた。
ソファから立ち上がると、こちらへやって来る。
「何か飲むか? それとももう少し眠るか? まだ朝まで時間がある」
言われて時計を見上げると、随分早い時間を指していた。日もまだ昇っていない。
部屋の中には、薄ぼんやりとした静寂が漂っていた。
「いえ…………」
私は普段よりゆっくりと時を流しているようなその部屋を眺めて、曖昧に答える。
そうして少し考えながら、視線を上げた。
「……眠れませんでしたか?」
瑛一さんは私の目の前に立っているので、随分と顎を引いて私を見た。高い所にある顔だ。
「いいや、むしろよく眠れたさ。お前と共に眠った夜はいつも決まって寝付きがいいからな。お前が腕の中に居ると安心するんだろう」
瑛一さんは、部屋を眺めながら呟くように言った。
私はどう返すべきか迷って、何となく瑛一さんが見ている場所へ同じように視線を向けた。
少し笑ったような息遣いが聞こえた。
視線を向けるより一拍早く、腰の横に提げた手のひらに指先が入り込む。
肩を跳ねると同時に、それは重なり力を込めて握った。
「目が覚めているなら少し付き合ってくれないか? たまにはこんな朝も悪くないだろう?」
触れ合う手から確かな体温を感じる。
断る選択肢は浮かびもせず、私は「はい」と同時に指先に力を込めた。
握り返される力を一瞬感じると、そのまま手を引かれて、二人でソファに腰を下ろした。

「朝方は少し冷えるからな」と言って、瑛一さんは私に自分のカーディガンを持ってきて掛けた。少しだけ瑛一さんの匂いがするような気がする。
アコースティックギターの、弦の擦れる音が、音階と呼べる音色に混ざって時折鳴る。
ソファへ並んで腰掛けながら、ギターを弾く瑛一さんの隣でその音色に耳を傾けた。
弦をはじく指先を見ていると、その指先の整っている事と、自分のそれより厚く皮が張っている事がわかる。
スプルースの板に響く音色らしく柔らかくも、芯のある音。音色から、その音色を生み出す指先の感触を想像できるようだ。
いや、そうだ感触は。
腕にれ、頬に触れ、首筋に触れ。
「この時間だと辺りも静かに感じるな」
「音が良く響く」と呟く瑛一さんの隣で、私は少しだけ体を跳ねさせた。
気づかないでくれ、と内心で呟きながら、浮かんでいた昨夜の記憶をばっと振り払う。
「どうかしたか」
「いいえ、何でも」
思わず早口で返して、私は肩に掛けられたカーディガンの襟を引き寄せる。
グ、と瑛一さんは少し体を傾けて、私の顔を覗き込んできた。
「俺の演奏に不満か? リクエストがあるなら聞こう」
バチっと至近距離で目が合う。
私は視線を逸らせず、う、と声が詰まる。
そのまま暫く互いに何も言わぬので、ただ近い距離で見つめ合う。
ふ、と不意に私の髪が視界の端で揺れる。
髪をくぐるようにして、頬に指先が触れた。
そう、この、感触。
バッと私が後ろへ身を引いたので、瑛一さんの手のひらは宙に留まる。
私は頭の中で必死に記憶を追い出して、そのためにか一緒に心臓も体温も必死に回る。
瑛一さんが僅かに首を傾けた後、グッと私に体ごと近づけた。
「なっ……んですかっ」
「逃げられると追いたくなるだろう?」
瑛一さんが手を付いたので、ソファの座面が沈む。
「追わなくていいです」
「では逃げるのをやめたらどうだ」
背中でソファのクッション性を感じる。
瑛一さんの片手がソファの背もたれに沈み、体が近づく。
薄暗い影の中で私は思わず目を瞑った。
頬を手のひらで包まれ、唇に柔らかな感触が一瞬した。
ソファの、尤も、無音に近い復する音を聞きながら、ゆっくり目を開ける。
その瞬間チュ、とまた唇が触れた。
「っ……」
私は何か言おうとして何も言えない事を、表情で朗々とものがたる羽目になる。
ハハ、と瑛一さんは溢すように少し笑って、再三のキスをした。

「……音色を聴いて、感触を思い出したんです」
聞かれたわけではないがそう言うと、瑛一さんはギターを弾く手を止めて、こちらを向いた。
「感触を?」
私はサウンドホールの上で止まった手を見つめたまま答える。
「音色の様子から……それを奏でる指先がどんな、硬さをしているのかとかって……何となく想像できませんか」
「まあ確かに、指を使って弾くならば、指先は皮膚が分厚くなる。奏者の技術を測る一つのバロメーターとしてということか?」
「それもあるかもしれませんがもっと……曖昧なものです。響きとか、強さとか……人となりみたいなものも、加味して……イメージするというか……すみません妙な事、言ってるのかも……よくわからないけど……」
「音色から当人の本質を見出し、その姿を想像するということか。何もおかしくはないだろう? その個々たる魅力は指先にまで宿るものだ」
瑛一さんはギターのボディの上に両腕を置いて、こちらに体を向けて話をした。
私はその両手を暫く見つめていた。腕を辿って、徐に視線を上げていく。
「……でも私は貴方の指先の感触を知っていて……妙な感じなんですよ。音を聞きながら、その音が記憶の中の感触と重なって……触れられてる、みたいな」
視線が顔まで辿り着き、視線が合った時、瑛一さんは少し目を見開いていた。
「……成る程な」
瑛一さんはそう呟くと、長い睫毛を伏せて微かに口角を上げた。
横顔は視線を下げてギターを見つめ、木板が服や腕に当たる小さな音を立てながら再びそれを構える。
一本の弦が弾かれ音を鳴らす。
単音で静かにメロディを生み出していく指先を、私は見つめていた。
「その通りだろう」
どれ程その音色を聴いていたか、瑛一さんが不意にそう言った。
「お前へのラブソングだからな」
艶黒子を携えた唇はゆっくりと弧を描き、派手な瞳は強く何かを物語って笑んだ。
固まる私の傍でまた、気まぐれな旋律は生み出されて行く。
柔らかく、けれど芯を持って、時に強く、時に誘うように。
カーテンの隙間から部屋へと入り込んだ一筋の光が、段々と伸びていく。
色を帯びて染まってゆく空に、応じるように音色は強く、愛を教えた。


『arcana』Fin
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