103号室
†
ノックの音が、静寂に大きく響いた。
「どうぞ、開いてるよ」
ビク、と思わず肩が跳ねた。
扉の前で、暫く立ちつくす。
どういう意味だろう。
不意の来客をまるで知っていたかのように。
ドアノブを恐る恐る回すと、ガチャリ、と扉が開いた。
広々とした部屋だった。
高く大きな窓には、外の漆黒が映っている。
壁際の書棚の前に、立っている人影があった。
「…………あの、」
私は声を掛けた。
瞬間、バッとその影は振り向いた。
私は思わず後ずさる。
「…………誰?」
暗闇の中から放たれる声が、尋ねた。
私はハッと自分の立場を思い出す。
「あの……すみません、勝手に入ってしまい……私、」
「もしかして外から来たの?」
言葉は遮られ、代わりにコツコツと足音が鳴った。
段々と近づく人影は、輪郭がハッキリする。
「歩いて来たの? この嵐の中!?」
パタパタと駆け寄ったその人は、何処かあどけなさの残る少年の姿をしていた。
彼が首を傾げると、茶毛がフワッと揺れた。
直毛だが、微妙に癖毛の混じる髪。
丸く見開いた瞳は、控えめな雰囲気。
おおよそ、素朴な印象を受けた。
「あ……はい、あの……」
「ずぶ濡れ! 風邪引いちゃう。ちょっと待って」
彼はまたパタパタと書棚の前まで戻ると、椅子の背に掛けてあった外套を掴んで戻ってきた。
「とりあえずこれを羽織っていてくれますか? 着れそうなものを、今探してみるので……」
彼は外套を私に掛けた。
フワッと暖かな温度が身体を包んだ。
コツコツコツと足音を鳴らして、彼はキャビネットの方へ向かった。
「うーんと……どうしよう、着る物は大分処分しちゃったんだよね……うーん……」
開いた引き出しの前で、顎に手を当て悩み込む後ろ姿。
白い上質そうな生地のシャツを着ている。
黒いボトムの上から、同色のサッシュを腰に巻いている。
見慣れぬその服装からは、修道者とも農民とも違う、優雅な雰囲気が垣間見えた。
「って、あ! その前に拭くものだよね、えっと……」
キャビネットの別の段を引き出すと、やがて彼はこちらへ戻ってきた。
リネン生地の布を広げると、私の髪と身体に被せる。
「寒くないですか? もし良かったら一階の広間には暖炉があるので、暖まりますか?」
優しい声色と、布の上から押さえるように、水分を拭き取る柔らかな両手。
「あ、いいえ……大丈夫です。すみません、ご迷惑を……」
「いえ、そんな」
あ、と小さな声が後ろで聞こえた気がした。
ピカッと窓の外が光った。
「……すみません。ペンダントを外して頂いてもいいですか?」
布越しに肩に両手で触れられている。
「あ……すみません」
確かに邪魔だろう、と思い、ロザリオを首から外した。
布はまた動きを取り戻した。
ドンッ! と雷鳴が窓の外でつんざいた。
「あの、伺ってもいい事なのかわからないんですけど、」
背後から柔らかい声がする。
「どうしてこんな所に?」
私は床に敷かれた絨毯の模様を見つめた。
「……それは」
「あっ、話したくない事ならいいんです」
言い淀むと、すぐに声がした。
「ただ……自分で言うのも何ですけど、この屋敷を訪ねて来る人なんて滅多に居ないんです。だからちょっと不思議で」
「そう……ですか……」
森の深くにある屋敷。
近くの村までは遠い距離がある。
俗世との関わりは限っているのかもしれない。
「あの、勝手にお邪魔してしまって、すみませんでした……声は掛けたのですが……」
「あ、そうなんですね。この嵐だから、皆んな聞こえなかったのかも」
「“皆んな”?」
思わず繰り返す。
「あ、はい。ここに住んでるのは俺だけじゃなくて、仲間と住んでいるんです。だからさっきもその中の誰かかと思って……可笑しな返事しちゃいましたよね、すみません」
ノックの際の返事は、そういう事だったのかと腑に落ちた。
私は肩の力をやっと抜いた。
「あ、自分で拭きます」
「そうですか?」
布を受け取って、髪を拭った。
「良ければ奥へどうぞ。窓際は少し明るいですから」
案内されるがままに、部屋の奥へ足を進めた。
大きな窓の側には、サイドテーブルと肘掛椅子が置かれていた。
彼はその椅子を引いてみせる。
会釈を返して腰掛けると、彼はまたキャビネットの方へ向かった。
脚に彫刻装飾の施された小さなテーブル。
椅子は猫脚、座面と背面にはロココ調のテキスタイルが張られている。
家具の一つ一つが、アンティークとして価値を得るような立派な物と見受けられた。
私はそれが珍しく、暫く部屋の中を見回した。
視線を元に戻すと、テーブルの上に目が留まる。
本が一冊開かれていた。
覗くのは不躾かと思いジッとしたが、目に入る分には植物図譜のようだった。
コツ、と足音がする。
「これなんてどうでしょうか。俺の服で申し訳ないんですけど、ゆったりしているから女性でも着られるかな」
コツコツと響く足音に、私は立ち上がる。
振り返ると、彼は衣装を抱えていた。
受け取ると、襟ぐりに編み上げの通ったチュニックと、柔らかい生地のキュロット。
「ありがとうございます」
「いえ」と優しい笑顔を向けられる。
「えっとじゃあ、俺あっちを向いているので、着替えてしまって下さい」
「あの、」
背を向けかけた相手を呼び止める。
相手は「はい?」と振り向いた。
私は受け取った衣装を握りしめた。
「……心苦しいのですが、もう一つお願いが……」
「お願い……? 何ですか」
「夜が明けるまで……泊めて頂けないでしょうか」
彼はパチパチと瞬きをした。
そして表情を崩した。
「もちろんですよ! こんな雨の中、歩いて帰るなんて危ないですから。是非泊まっていって下さい」
目を細めた柔和な笑みと、口の中で空気と紡ぐような優しい声色。
「ありがとう……ございます」
深く頭を下げると、彼は慌てたように「そんな! 大丈夫ですよ」と両手を振った。
カタリ、とテーブルの端を借りてロザリオを置く。
借り物の衣装を、一旦肘掛に据え置いた。
書棚の方向へ、体を向ける。
ウエストで結ばれた紐に触れる。
その紐を解いて、腰に巻いたペティコートを脱ぐ。
足元からそれを引き抜く。
布の擦れる音が響いて聞こえた。
ペティコートをゆっくりと椅子に掛ける。
くすんだ色のシフトドレスの、裾を手繰り上げる。
「ゴメンね」
前触れもなく、耳元で声が。
背後から抱きかかえられたと同時に、首元を痛みが貫いた。
「……!」
痛みと驚愕に、声を上げられなかった。
何か鋭い物が刺さっている感覚がする。
何かが抜かれていく感覚がする。
「ん……」
耳元で息遣いが聞こえ、吸い上げる音。
「っ……は……ぁ……」
痛みから逃がれようと、足を踏み出す。
だが、腹を抱える腕がそれを止める。
ズルズルと体を引き寄せられ、私はされるがままに凌辱され続けた。
やっと解放されると、体の力は思うように入らない。
崩れる体を、背後から抱きかかえる腕が支えた。
「……は、……あ……」
私は乱れる呼吸の間に声をこぼした。
視界に自分の湿った髪の毛が、1束流れる。
耳元で息遣いがした。
「……ごめんなさい。でも、凄くいい香りがして……我慢できなくて」
これ程近くで囁かれているのに、頭がぼうっとして何も入ってこない。
「ん……」
吐息と共に、ペロ、と痛みの上を舐められた。
グ、と私を抱く力が強くなった。
「俺……人の生き血を飲んだのってはじめてで……こんなに……あまいなんて……」
鼓膜の側の声が、段々と浮ついて、覚束なくなっていった。
グ、と急に背後から体重がのし掛かった。
私は支えきれずに崩れる。
ドサっと絨毯の上に倒れ込んだ。
はあ……はあ……と上がった息遣いが、耳元で聞こえる。
私は、う、と乗り掛かられている重さに少し呻いた。
首筋に触れる、切り揃えられた毛先の感触。
「ああ……すごくいい匂い……俺…………貴女が欲しいです」
呟かれた瞬間、左耳に痛みが貫いた。
「いっ……! ぁ……」
私は押し殺すような声を上げる。
耳たぶに牙が突き刺さって、その痛みは筋肉を有する首筋とは比べ物にならず。
ジュ、と吸血される。
耳たぶに通るのは微細な血管のためか、牙が奥へ奥へと突き進む。
ブチッ、と鼓膜に破裂音が響いた。
絨毯に赤い血が滴り落ちた。
「ぁ…………」
牙が耳たぶを突き破ったのだと分かった。
それ程の痛み、音、出血。
私の目尻には涙が滲んだ。
牙がゆっくりと抜けると、ボタボタッと赤い滴が落ちた。
傷がジンジンと経験し得ない程痛む。
痛い、痛い。
ボロボロと涙が溢れるが、顔に熱が上って余計に痛みが増すような気にもなった。
「…………泣いて……るんですか……?」
ポツリと声が聞こえた。
そしてふっと背後の体重が消えると、私は肩を掴まれた。
グイッと体がひっくり返される。
仰向けの私の体を、彼は呆然と見下ろしていた。
フラリ、と手が持ち上がった。
「……ごめん、なさい……俺……俺のせいで……」
彼の手は、私の左耳を震えながら包んだ。
彼の指も赤く染まる。
「でも俺……貴女を傷つけるつもりなんて…………ああ……どうしよう俺……こんないい匂い……でも……!」
ブンブンと彼が頭を振る。
衝動に悶えるように、両手で髪をかきあげて握りしめている。
はたとその動きが止まる。
髪を握りしめる片手を、ゆっくりと目の前に下ろした。
視線が血に濡れた手の平を見つめた。
そして私に向く。
眉を、目元を歪めて、呼吸は荒く。
「ゴメン! ごめんなさい……!」
バッと覆い被さった体は、私の首筋に再び牙を刺した。
痛みに、溜まっていた涙が溢れる。
吸い上げられる。
ジュ、ジュウ、と唇が音を立てる。
痛みに意識が遠のいていく。
ビクッ、と不意に私の体が跳ねた。
相手の動きが止まる。
「…………」
丸い目が上から私を見つめた。
私は襲った妙な感覚の訳が分からず、瞳を右に左に動かす。
彼がゆっくり顔を近づけて、牙を浅く差し込んだ。
そのまま引き抜く。
「っ……!」
襲った言い様のない感覚に、体が勝手に跳ねる。
「…………感じ、ますか……?」
上から言葉が降る。
「……こうするのは、気持ちいいんですか?」
顔が近づくと、また全く同じ行為が繰り返された。
電流が爪の先まで駆け抜ける感覚。
荒い呼吸を繰り返すと、首元に牙を立てたままの顔とすぐ側で目が合った。
ジュ、と再び吸い出される。
「あっ……! んんっ……」
けれども先程までとは決定的に違った。
なんだか、痛みとは別の、けれども酷く似た感覚が、体を突き抜けて。
「んっ……はあ……気持ち、いいですか?」
体の条件反射の合間に、必死に首を振る。
「……じゃあ、」
ドレスの裾がめくり上がり。
「こういうのは……どうですか? 気持ちいいのかな……」
太腿の内側を、冷たい体温が撫で上げた。
「っ……! うあっ……」
「ああ……すごい……匂いが変わった」
痛みが走り吸血される。
手の平が脚をスルスルと撫でる。
「……! ぁっ……」
片手が胸を包むように触れた。
可笑しな熱が体の奥を駆け上がる。
そして深く突き刺される牙。その感触は、とても。
「もう……もうやめっ……やめて……」
「嫌ですか?」
ビクッと体が跳ねる。
「貴女にも……気持ち良くなって欲しいんです。こんなにいい血を貰っているのに……痛いだけの辛い思いは……させられないです」
「気持ちいいですか?」と耳元で囁かれる。
体が意思とは裏腹に反応して、声を上げる。
酷い背教行為だ。
ヴァンパイアに血を与えて、さらに快楽まで感じているなんて。
「はあっ……俺……“エイジ”っていいます…………俺の名前を呼んでっ……!」
もう、全ては意思とは裏腹に。
「っ〜〜〜……エイ……ジ……」
「!」
ブツッ、と肌を牙が突き破る。
酷い痛みと酷い快楽が体を突き抜けた。
「貴女は……? 教えてください俺に……貴女の名前……」
窓の外で稲妻が光った。コンマ1秒もせずに雷鳴が轟く。
私の微かな呟きを、雷鳴が掻き消した。
だがエイジは惚けたような表情で、目を細めた。
「ナマエ……ナマエさん……」
私の名前を口にしながら、エイジは深く深く牙を突き立てる。
私が少しでも反応を返せば、その動きを記憶して、寸分違わず繰り返される。
そんな地獄のような快楽に何度も侵された。
何度目かの果てに、意識を朦朧とさせながらエイジの声を聞いた。
「ナマエさん……一晩と言わずにずっと……ここに居てくれませんか? 俺どうしても…………貴女が欲しいです……」
言葉と共に突き刺さった牙は、今迄のどれより痛く、そして悦楽を教えるものだった。
† † † Welcome to heaven…with EIJI