偽りのダンス(寿嶺二)
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コン、コン、ココン、とボールペンで机を叩いていた。
「ランマル、これ嶺二に届けてくれって頼まれたんだけど」
楽屋のドアが開いて入ってきた藍がそんなことを言った。
「……おう、んだこれ」
「寿弁当らしいよ。熱で苦しませちゃったからお詫びだって」
ふーん、と呟いて紙袋を受け取る。
カミュの助言で、俺と嶺二の姿はあっさり元に戻った。
昨日まで熱にうなされていたのが嘘のように、元に戻った自分の体は軽くてどこも痛まない。代わりに嶺二は完全回復ともいかず、今朝会ったがマスクをして鼻を啜っていた。
「じゃあ、ボクはもう行くけど……」
藍がそう言って眉を曲げて、俺の足先から頭のてっぺんまでを眺めた。
「おかしな事もあるんだね。またどんな感覚だったのか聞かせてよ」
「感覚っつっても俺は殆ど意識なかったけどな」
藍が楽屋を出て行ってまた静かになった。
コン、ココン、とまたボールペンで机を叩いた。


拍子抜けするほどソイツは普通にやってきていて、ギターのCコードをジャランと一度鳴らしていた。
俺の視線に気がついて顔が上がる。
「あ……黒崎さん、おはようございます」
俺は顔を歪めて、一つ息を吐きだした。溜息なのか、安堵の息なのか、よくわからなかった。
「てめぇなあ、返信ぐらいしろよ」
「あー……忙しくて、朝見たんですけどそのまま返信するの忘れてました」
俺は舌打ちを打って溜息をついた。
「まあいいが」と俺は呟いて、広いスタジオの傍に背負ってきたベースを下ろした。別に大した用でもなかったが、名前はいつもすぐに返信を寄越すから、変に考えてしまったのだ。
ケースから中身を出していると、スタッフから声がかかる。
「黒崎さーん、この前の変更を加えた流れなんですけど、確認お願いします」
「おう」
書類を渡されて、それに目を通しがてら、ベースを持ってスタジオの壁張りの鏡の前まで行く。
ジャーン、と何を確認しているのか、名前がギターを鳴らしている。ワンフレーズ試し弾きした音が聞こえてくる。
書類を一通り読み終え顔を上げる。同じタイミングで名前も顔を上げた。
「……んだよ」
「黒崎さんこそ」
あ? と俺は言って、微妙に視線をそらす名前を見ていた。メールの返信といい、このぎこちなさといい。
「お前今日変じゃねぇか?」
名前はギターのケーブルに視線をやっていて、少しだけ顔を歪めたような気がした。
「ちょっと体調が悪くて」
息を吐いて、小さく弦をつま弾いた。
「マジかよ、仕事出来んのか?」
「それは平気、多分大したことないですし」
「ならいいが、嶺二も風邪引くしお前も気を付けろよ」
そう言った返事が、「……はい」という随分覇気のない返事で、俺は眉をひそめる。
本気で熱でもあるんじゃねぇか、と思ったところで、「ああそうだ黒崎さん、」といつもの調子に近いような声がした。
「エフェクター追加してもいいですか? ファズ使わないと決まらないフレーズあるし」
「あーお前に任せる。けどライブなんだから変にこだわりすぎんなよ」
「はい」
ソイツはそう言って、エフェクターのペダルを踏みつつまたギターを鳴らした。
「もう合わせてぇが全員揃ってんのか?」
「なんかさっきキヤマさんが出てきましたよ。確認取りたいことがあるんだって」
ソイツの言葉に返事を返して、自分のベースを肩にかけた。つま弾いてみると音が鳴る。
「……なあ、お前は気づいたか?」
俺の唐突な言葉にソイツは「はい?」と不思議そうな顔をして返した。
「昨日」
「……ああ、いや、全然」
名前はそう言って視線を下げて、音を鳴らしていないのに、エフェクターを踏んだり離したりしていた。
「だってホントに上手かったですよ、寿さん、黒崎さんのふり」
「月宮さんも言ってた。つか気づかねぇもんなのか?」
「大体非現実的じゃないですか、……今でも信じられないし」
ふーんと返事を返すとそうですよと返ってきた。
俺はベースを弾いてみる。
「けど、お前は気づくもんだと思ってた」
俺はピックで一弦を弾いてから、サビ頭のメロディをさらってみたりした。
「私って黒崎さんの何なんですか」
そのベースの音は決して大きな音ではなかったから、それを飛び越えて聞こえた名前の声もそこまで大きいものではなかったはずだった。
だがその声はハッキリ耳に届いて、俺はベースを弾く手を止めた。
名前に目をやると1秒も経たずに、
「何でもないです」
と声がして視線が逸れた。
はあ? と言って眉を寄せる俺を名前は見向きもしないで、ただギターを鳴らしていた。
その内に出ていっていたメンバーが戻ってきて、合わせが始められた。


いつの間にかスマホに番号が登録されていて、電話がかかってきたことを名前付きで知らされた。
それも自分で『嶺二さん』などと登録するのもどうなんだ。
「……じゃあ、音一つであんな非現実的なことが起きたんですか?」
「うん、ミューちゃんが言うにはね」
カンカン、カララン、と寿さんがコップの側面を爪で叩いて音色を出した。
「そんなことって……あるんですか?」
「でもあのミューちゃんが大真面目で言うんだよ? それに、よくわかんないけどセッシーの知恵もあったみたいで」
アグナパレスのお墨付きだよ、と言う寿さんに、私はただ相槌を打った。
寿さんのマンションだった。とても広い良い部屋。テレビからはバラエティが流れている。
「それに、本当にあったじゃない?」
寿さんが少し笑ってコップの中にお茶を注いだ。口に持っていって一口飲む。
「…………用ってなんですか」
「なんだと思う?」
寿さんはひとつ笑って、それからコップを持ち上げる。
私に、差し出す。
「これ飲んでみて?」
「……何か入ってるんですか」
「あはは、入ってないよ。ただのぼくとの間接キス」
私は顔を歪める。寿さんはそれを小さく笑って口を開く。
「それとも……、本物のキスの方がいい?」
コップを持つ手とは反対の手が、私の顎をすっとなぞって持ち上げた。
顔が近づいて、合わさった。
ゆっくりと唇が離れる。目と鼻の先で、寿さんの瞳は私をみている。
少し笑って、もう一度唇が合わさった。
テーブルにコップがコトリと置かれた。ソファの間に出来ていた距離が小さくなる。肩が触れる距離。
両頬を手で包まれて、隣を向かされキスをされる。
舌が入り込んできて、絡まる。
寿さんが私をすぐ近くで観察するように見つめた。
「……苦しい?」
指先がピクリと跳ねて、それに気がついたのかいないのか、寿さんは少し下から私をあおり見る。
目が合っている。
寿さんの瞳は、真っ直ぐに私だけを見る。
私は体ごと顔を背けた。
手が伸びた。後頭部に回り、私をゆっくり抱き寄せた。
その胸元に、顔が埋まる。
寿さんの匂いがした。
私は寿さんが作る陰の中で、目を閉じて、震える息をゆっくり吐き出した。何度も深呼吸を繰り返して、そうでもしなければ涙が、出てきそうだった。
黒崎さんに話されては困るから、寿さんの電話を無下にすることもできなくて。
なんていう体で、ここまでやってきた。けれど寿さんはそんなこと一言も言わない。
何も言わずに、背中を優しく叩くリズムがあった。
その後ソファに押し倒されたが。

ソファの背もたれの方を向いて横になっていた。
慣れないものに体が怠くて、すぐには動けそうにない。
バイブ音が聞こえた。
無理矢理体を起こして、ソファの足元にあった自分の鞄の中を探る。
着信は私の携帯で、細かに震えていた。
服を着ていた寿さんが、黙ってこちらを見ている。
「……はい、」
背もたれの方を向いてソファに座り、スマホを耳に当てる。体が重くて、少し頭痛がした。
『おい、てめぇ今家か?』
「……迎えですか?」
すっと手の中からスマホが消える。振り返って顔を上げる。
「やっほーランラン」
明るい声だった。私は目を見開いてしまった。その明るい声を、寿さんはピクリとも笑う事なく言い放っていた。
「ん? そうだよ、名前ちゃんぼくといる。だってさ、この前ご飯行こうとしてたのに、ランランに取られちゃって」
「……寿さん、」
「ん? うん……あははランラン酔っ払ってる?……うん、うん、そうだね今日は名前ちゃんぼくに譲ってほしいなー」
バッと、寿さんの手からスマホを奪った。
「どこ行けばいいですか黒崎さん」
随分と、切羽詰まったような声になった。細かなことが、電話越しでもわかるだろうか。
『あ? けどお前嶺二と……』
「行きますから、……場所、教えてください」
黒崎さんから居場所を聞いて、私は電話を切った。
スマホを置いて、散らばっていた服を取る。袖を通す。
バッグを持って、コートを羽織り、マフラーを掴んで、私はドアに足を向ける。
寿さんがずっと黙っているから、私はドアの直前で一度振り返った。
「ぼくに抱かれた体だよ」
寿さんは笑みのない顔で私を見ていた。
それからふっと笑みを戻す。
「名前ちゃんは、ぼくに抱かれた体で今からランランに会いにいくんだ」
ドアの前にいながら動けない私の方へ寿さんは歩を進める。
すぐ傍まで来て、ゆっくり抱き寄せる。
唇が触れた。
「……それとも君には、こっちの言い方のほうがいい?」
『男に抱かれた体で行くんだよ。名前ちゃんは今、ちゃんと女の子だ』
つつ、と人差し指が、私の胸元に線を引いた。寿さんはひとつ微笑んだ。
「いってらっしゃい」


「あ? ああてめぇかよ」
買ったばかりの傘を差し出せば、そんな声が聞こえる。
シャッターの下りた古本屋の軒下で、黒崎さんは空を見上げていた。
私はずっと傘を差したまま軒下の外にいた。黒崎さんがビニール傘を広げる手元を見ていた。
「別に帰ろうと思や帰れんだ、タクシー呼べば済む話だしな」
「……いいですよ別に、ここから私の家まですぐだから呼んだんでしょ」
「けどお前家にいなかっただろうが」
バサバサと音がして、ビニール同士貼り付いているのを振って剥がしている。
「……自分で帰ったほうが早かった?」
言って足元を見ていると、急に視界が広くなった。下げていた傘が持ち上げられた。
目が、合う。
「てめぇがおかしなこと言うから、会っといた方がいいような気がした。ライブも控えてんだ、体調崩してんだったら困る」
私は揺れる目で黒崎さんを見ていた。黒崎さんの目は真っ直ぐに私を映している。
「…………ありがとう、ございます」
ふらと顔を下げて言った。体を引いたから黒崎さんの手から傘が外れて雨粒が弾けた。
「……」
黒崎さんは暫く黙っていて、それから不意にバンッと傘を開いた。
「……飯食ってたのか知らねぇが、ラーメンくらいなら食えんだろ」
それだけ言って雨の中へ足を進める。
私は傘の下で震える息を吐いた。
ビニール傘の下にぼやけて見える背中へ、足を向けた。
雨で濡れたコンクリートに、街灯の明かりが染みている。


『あれは売れねえだろ』
リハーサルに向かう通路の途中で、立ち止まった。
『何が言いたいのかよくわかんねぇっつーか、要領得てなさすぎっつーか。全体的に薄っぺらいし、そんで独りよがりだな』
私の足はその場から少しも動かなかった。
リハーサルで自分の番が来て、歌番組のスタジオ、ステージの上に立った。
足が固まって、呼吸を忘れて、ワンフレーズ目からミスをした。
考えに考え抜いた掴みのメロディも散々で、伴奏の音ばかりが綺麗に鳴っていて、声も出ないし、息はできないし、プロデューサーの表情が段々と冷めていくのが見えていた。
『最悪ギターは音源で、歌だけにしたらどうかって』
言伝に来たスタッフが言う。
『あ……じゃあ、そうします……すみません』
視線を上げられなかった。
今すぐ全ての歌詞を書き換えたかった。もう歌いたくないと思った。何日もかけた歌詞だけどメロディだけど、二度と誰かの前で鳴らせないと思った。
確かに要領を得てなかったかもしれない、あああの部分は確かに何が言いたいのかよくわからない、自分では色んなものを込めたつもりだったけど本当は何でもない薄っぺらいのかもしれない。あれも削ってしまえばよかったのかも、あれは比喩を込めてるんだけど、ただ耳障りなだけかもしれない。そして誰の為でもない、鳴らしたくて鳴らしてる確かに独りよがりだ。
『…………』
顔を覆って蹲っていた。心臓が切れるように痛んでいた。何度も深呼吸を繰り返した。でなきゃ。
コツ、と足音がした。
まるで私の前で止まったような音だったので顔を上げた。事務所の先輩が私を見下ろしていた。
私を見下ろすその目は、冷たくて色が無かった。心臓が圧迫された。
『あ……すみません邪魔でしたか?』
慌てて立ち上がって、自販機横のベンチから退いた。
その人は私から目を離さなかった。眉を寄せて私を見ていた。
暫く沈黙が降りた。私は耐えられずに目を逸らした。ただ誰かの前に立っている自信すらもうなかった。
黒崎さんが口を開いた。
『他人に、とやかく言われたくれぇで、てめぇの歌は変わんのかよ』
視線を上げたその人と目が合った。
『んな程度ならやめちまえ、歌にする程のもんじゃねぇ』
黒崎さんはふらと視線を外して、自販機に小銭を入れた。カランカランと音がした。
私は顔を歪めて、視線を落とした。
ピ、とボタンを押す音がした。
『……魂がこもってりゃ、伝わるやつには伝わる』
屈んで缶コーヒーを取り出している。
それを私に投げた。
私の右手にパシと収まった。
『少なくとも俺は、てめぇの歌悪くねぇと思ってる』
見開いた目から涙が一筋溢れて、私は慌てて擦った。
黒崎さんはまた新しく小銭を入れていた。
『ありがとう……ございます……』
私の声は震えていた。缶を両手で握りしめた。
屈んで取り出し口に手を入れていた黒崎さんが不意に私を見て、それから一つ息を吐いた。
『泣きたいなら泣け、てめぇそんなんじゃもたねぇぞ』
繰り返していた呼吸が詰まって、同時に涙が溢れた。
黒崎さんはベンチに座ってプルタブを開けた。
私の涙が止まるまでそこに居てくれた。
泣き腫らした目を隠すのにメイクに散々お世話になって、本番開始ギリギリになってしまった。
進行が進んで私の番が来た。
ステージに出ていったら歓声が聞こえた。
大きく息を吸い込んだ。
ギターのネックをギュッと握った。
足はもう震えていなかった。


目を覚ますと部屋の中は暗かった。
起き上がると自分のクシャクシャの髪が視界に入る。頭痛が少しした。
寝息が聞こえていた。
テーブルを挟んで向こう側の床で、黒崎さんが寝ていた。大きな体で横になって、瞼を閉じている。
広い肩幅がゆっくり上下している。
私はソファに座ったまま、暫く動かなかった。
やっと動き出したときには、もう何分か経っていた。ソファから這い出る。
隣の本棚の前に行き、曖昧な視界の中、指で順番に辿った。
見慣れた背表紙を見つけて、手を止める。
そこから五枚ほどを、丁寧に、なぞった。
手を床に落として、膝を抱えた。
黒崎さんの本棚に、自分のCDが並んでいることが嬉しい。
愛とか恋とかそんなんじゃない、ただ純粋に嬉しい、尊敬している、ただ純粋に、純粋に。
それだけならよかったのに。
膝に顔を埋めたまま、真っ暗な視界に震える息を吐き出していた。
奥へと奥へと、尊敬なんていう荘厳な感情の裏に隠した。木を隠すなら森の中、好きとすきをごちゃごちゃに混ぜ合わせてわからなくした。絶対に露見しないように、誰にも気づかれないように。
『苦しい?』
私は黒崎さんの何なのかって、後輩だ、後輩でいよう、後輩でいなくちゃいけない、後輩でいたい。
息を吐ききってから顔を上げた。
黒崎さんの体としたソファが、目に入った。
『名前ちゃんは今、ちゃんと、女の子だ』


机に突っ伏していた。頭がガンガンと痛んだ。
ライブハウスの爆音の中では些細なことになってわからなくなったが、終わってしまうとどうにも立ち上がるのもやっとだった。
昨日も体調が悪かった。無理せず早く帰って眠れば良かった。
「あの〜」
声がかかって私は一度眉間にしわを寄せた。顔に出さないように努めて、上体を起こす。
「お疲れなところごめんなさい」
整った顔の女性がいた。髪が長くハーフアップにしていて、品のいいバレッタで留めてあった。
こんなところにいるような感じの人ではなくて、楽屋の壁の落書きをバックにしていると違和感が凄かった。
「どうかされましたか」
ドアが開く音も閉まる音も全然聞こえなかった。相当ダメだな、早く帰った方がいいのか。
「あの、黒崎さんはいらっしゃいますか?」
私は動きを止めた。が、それも一瞬のことにして、口を開く。
「多分ステージにいると思います。今機材撤去し終わったところだから、そっちで駄弁ってると思う」
誰だろう、観客は裏には入れないだろうし、ライブハウスのスタッフだろうか。それとも終了後のこの時間は挨拶に来る人が多いからそれか? 見たことないような顔だけど。
「そうですか、ありがとうございます」
「あの……えっと、貴女は……」
私が遠慮がちに聞くと、その人は「あっ、ごめんなさい」と声を上げた。
「あの、一度だけ共演したことがあるんですけど、覚えてないですよね」
え? と思って良く観察し直して、「あ」と声を上げる。
「ああ、うわ、すみませんbeesの、」
私が言うとその人は控えめに笑った。
他事務所のアイドルだ。思い出したはいいが、こんな雰囲気の人だっただろうか。
「実はわたしグループを抜けるんです」
「えっ、ああ、そうなんですか、すいません」
「いえいえそんなの。……実はそれで今日お話したくて。大ファンなんです黒崎さんの……! だからソロ記念で出すCDに、どんな形でもいいから参加して下さらないかお願いをしたくて」
グループの時じゃできないことで、と言うその人のスカートを見ていた。膝丈の、白。こんなの絶対に履かないような、キャラクターだったような。
「……でも黒崎さんも、忙しいから」
頭が痛い。その頭痛の波に押し出されるように、次々に言葉が出た。
「CD出すみたいだし、ユニットの活動もあるし、だから、どうだろう……忙しいんじゃ、ないかな」
私は一体何を言って、こんなの、まるで。
「んでてめぇが決めんだよ」
心臓が止まった。
黒崎さんが楽屋のドアを開けたまま、怪訝そうな顔をしてこっちを見ている。
「あっ、こんばんは、すみません勝手にお邪魔してっ」
「ああ、さっき他のやつから聞いた」
黒崎さんが中に入ってきた。
「名前、お前具合悪りぃなら……」
ガタンッと音が鳴り響いた。
「はあ? おいどこ行くんだよ」
ドアを開けて楽屋を飛び出た。
頭が痛くて頭痛がして、心臓が痛くて呼吸が乱れる。
ポケットからスマホを取り出した。タップ、タップ、タップ。
ぐわりと立ちくらみがして、その場にしゃがみ込んだ。
かべに寄りかかって蹲って、スマホを耳に当てていた。
呼び出し音が途切れない。何度も繰り返す同じ音に気が狂いそうだった。
壁に着いた手をキツく握りしめた。震える息が漏れた。祈るような心地で。
『もしもし?』
いざ呼び出し音が途切れても、私は何も言えなかった。ただ震える呼吸を繰り返していた。
『……こと、ぶきさん…………』
やっと出た声の、弱々しさに失望した。
『うん? どうしたの、そんなところで蹲って』
震えた呼吸で顔を上げた。
スマホを耳に、寿さんが立っていた。
「……ことぶきさん……」
「うん、『寿さん』」
寿さんは静かにそう言って、それから数秒黙って私を見下ろしていた。
「……ねえ、どうしてそんな声でぼくを呼ぶの」
寿さんは言いながらしゃがんで、私の腕を肩に回した。
「……っていうのは、後で聞こうかな。歩ける?」
寿さんは私を支えて立ち上がり、そのまま歩いた。
酷く頭痛がしていた。


「ランランに差し入れ持ってく約束しててね。けど収録が長引いちゃってスタートに間に合わなかったから、終わってから顔出そうと思って」
寿さんは私に水を渡すと、自分はその隣に座った。
「でも持って帰ってきちゃったよ。あんまり日持ちしないし、名前ちゃん食べる?」
私は呼吸を繰り返していて、頭痛と目眩に顔を歪めていた。
寿さんが私に視線を向けた。それから私の手の中の錠剤を見た。
手の中のそれがなくなって、パキパキという梱包の折れる音がしていた。
持っていたコップが奪われて、水を含んだかと思うと、頬を掴まれて唇が合わさった。
「んっ、う……ん……」
水と薬が一緒に口の中に入ってきて、唇が強く重なる。
全てを私の中に移し終えると、私が飲み込んだのを確認してゆっくり離れた。
「……辛い?」
「……誰のせいで……」
「あはは、ごめんね、こんなに綺麗にうつっちゃうなんて思わなくてさ」
あの日の前日に寿さんが倒れるほどの高熱を出していたことを、私もすっかり忘れていた。同じ部屋にいて、キスをして、身体まで重ねれば当然うつるだろう。
「でもそっちじゃなくて」
寿さんがすっと私の太ももに手を置いた。
「ぼくにあんな電話してくるほどの、何かがあったんでしょ」
ゆっくりと上から下に撫でて、それから視線を上げる。
私は瞳を揺らして、そうして逸らした。
ああ、何を言った。私は、本当に、もう。
「……最低、だ、あんなの…………あんなのは……」
触れていた手が、股の間に触れた。
「っ、何して」
「だとしたらね、」
寿さんが言葉を被せて言った。視線が上がって、目が合った。
「……電話をする相手を間違ってるよ。ぼくに掛けたら……こういうことするんだよ。名前ちゃんが弱ってるなんて、絶好の機会だからね」
寿さんに笑みはなかった。
「…………ぼくはね……、ランランと名前ちゃんの関係なんて壊れたらいいじゃないって思ってる」
薬の梱包のゴミが、机の上でパキ、と広がったのか音を立て。
「名前ちゃんを信じ切ってるランランも、隠し通せると思ってる名前ちゃんも、ばかみたいだよ。名前があるような関係でも些細なことで壊れてしまうのに、そんなおぼろな関係が続くわけないじゃない」
寿さんは眉間に皺を寄せて、顔を歪めていた。
「……だから、」
キスをした。
寿さんの腕を掴んで唇を塞いだ。
目を見開いた寿さんの顔が、ゼロの距離にあった。
「だっ、たら、もう……もう、壊します、無理なんだったら、できないんだったら」
あの人に惚けた様を見せるくらいなら、もう、離れた方がいい。きっとまたああいう事をする。
私はそういう“女”だったのだ。
私の溢れて止まらぬ涙を、寿さんは指で拭った。
顔を歪めて私を見て、そうして目を閉じてキスをした。
そのまま体が傾いて、ソファに沈んだ。
寿さんが私を見下ろしている。
「……名前ちゃん……すき、愛してる」
私は熱と涙でぼうっとした脳でその言葉を聞いていた。
「愛してる……」
耳元に寄せられた声は掠れていた。
私はまた一筋涙が溢れた。
いつもより長い夜だった。



自分の部屋のリビングで目が覚めた。
まだ日が昇る前の薄い藍がカーテンの付近に漂っていた。
ソファには名前ちゃんが寝ていた。目のあたりが赤く、少しだけ涙の跡が見えた。
そっと頭を撫でる。唇に、キスを落とした。
時計を見るとまだ四時過ぎだった。
特に何もする事はなく、けれどももう一度眠れそうな感じでもなかったから、ただソファの肘掛に腰掛けて宙を見つめていた。
不意にハンガーにかかったコートが目に入った。名前ちゃんのコートだ。
ポケットから白い紙がはみ出していた。
ぼくは立ち上がって、コートのそばまで行く。
見てはいけないものだったらどうしようかと考えはしたが、大事なものならポケットなんかに入れないよねと手を止める事なくその紙を取り出した。
B5サイズの紙で4つに畳まれていた。裏にも罫線が見えるからどうやらスーズリーフのようだった。
「…………」
段落に分けられた文字が書かれていた。
歌詞だ。
それはただ一列に書かれているだけではなく、横線で消されて上に訂正が書かれていたり、くの字で新しい言葉が割り込まれていたり、時にはぐちゃぐちゃと下の字が読めないくらいの濃さで一文が塗りつぶされていたりもした。
ぼくは目を通しながら、顔を歪めた。
この訂正、全部……。
名前ちゃんの歌う歌はほとんどがロックが反映されていて、夢や希望を歌った曲ばかりだ。
けれど、このルーズリーフに書かれた歌詞は紛れもないラブソングだった。
それに「道」とか「明日」とか、「ひとり」とか「走る」とか、生き様を語る言葉が付け足されているのだった。
名前ちゃんは、もしかしたらいつもこんな書き方を。
ぼくはソファの上の名前ちゃんに目をやった。
胸を微かに上下させて、静かに眠っていた。


コン、ココン、コンコン、とボールペンで机を叩いていた。
ノックの音がして、返事をするとドアが開く。
「……おはようございます」
顔を見せた名前はマスクをしていた。
「……おう」
俺はそれだけ言って立ち上がる。楽屋に置いておいたギターのケースと鞄を持ち上げた。
「ほら、……荷物も持たずに帰んじゃねぇよ」
名前は俺の手から持ち手を受け取って、「……すみません」と覇気無く謝った。
「具合悪いのか」
「あ……いや、ただの風邪で」
ふーん、と返しながら、らしくなくはっきりしない答えに眉を寄せる。
「……じゃあ、ありがとうございました、もう行きます」
そう言ってさっさと出て行こうとする名前を、止められなかった。
おう、とだけ呟いたら、ソイツは会釈をして、楽屋を出て行った。
嶺二の顔が浮かんだ。
昨日、後を追って出た通路の先で、名前の腕を肩に回しながら、こっちを見たその顔。
「…………」
ガタリと椅子に腰を下ろした。息を吐く。
ココン、コンコン、とまたテーブルを叩いたりなんてした。

「ぼく、名前ちゃんと付き合ってる」
ランランには言わなきゃいけないと思って、そう嶺二は言った。
どうして俺に言う義理があるのか、と思ったが何も言わなかった。
「知ってる。アイツから聞いた」
「え?」
俺の言葉に嶺二は目を見開いて驚いた顔をした。
「『アイツ』って、名前ちゃん?」
「他に誰がいんだよ」
嶺二は暫く無言で視線を落としていて、それから顔を上げた。
「……ランランは名前ちゃんの歌詞のラフ、見たことある?」
それはあまりにも唐突な話題で、俺は思わず「は?」と呟いた。
だが嶺二が真剣な顔をしてこっちを見るものだから、俺は少し視線を外して答えた。
「……ねぇよ。アイツが見てほしいっつえば見るが、そうじゃねぇもんはわざわざ口出さねぇ。そういうもんだろ」
嶺二は暫く黙った後、「……そうだよね」とだけ呟いてそれきりだった。



名前ちゃんは助手席で窓を全開にしていた。
「ねえ! 寒くない!?」
ぼくがそう言うと名前ちゃんは振り向いて、笑った。鼻の頭にシワを寄せる、ちょっと少年みたいな笑い方だった。
「ツッコミ待ちでしたー!」
名前ちゃんは走行音にかき消されぬように珍しく大きな声で言った。それから窓を閉める。
「もう、名前ちゃん髪ボサボサだよ」
「あははっ、ごめんなさい」
名前ちゃんが髪留めを解いてくくり直すのを横目で見ていた。視線を前に戻して、ウインカーを出す。
「ぼく下ろした方がすきだなー」
「寿さんは可愛い女の子が好きそうですもんね」
そうじゃなくって、と内心で呟いて苦笑いをした。
交差点で信号に引っかかった。車がゆっくりと止まる。
「……でもぼくがすきなのは名前ちゃんだよ」
「……あはは、物好きですね」
ハンドルに腕を乗せたまま、名前ちゃんを振り向く。
目が合うと、名前ちゃんが視線を逸らしたから手を伸ばす。
頬を捕まえて、口の端にキスをした。
「…………」
名前ちゃんはぼくがキスしたところへ手を当てて、下を向いた。
「だいすきだよ。……デートで髪ボサボサにしちゃうところとか」
名前ちゃんが「うっ、」と変な声を上げて、窓の外に顔を背けた。
信号が変わってゆっくりアクセルを踏む。
「からかってるでしょ」
「うん?」
再び走り出した車の中で名前ちゃんが言う。後頭部しか見えない。
「ホントにすきなのか疑わしい」
「ひっどい……! こんなに愛してるのに!? なんなら今すぐ教えてあげようか? ぼくがどれだけ名前ちゃんを愛してるか、あっ! ちょうどそこにホテルが」
「いや、いいですミスった、何でもないです」
ぼくは小さく笑ってみせる。
少しの間沈黙が落ちて、名前ちゃんが少しだけ窓を開けた。
「ぼくを試すようなこと言って、どうしたの?」
ぼくの言葉に名前ちゃんが目を見開いた。窓に映る名前ちゃんの、睫毛が少し伏せった。
「……なんもないですよ」
ぼくは「そっか」とだけ呟いてそれ以上何も言えなかった。
ランランと名前ちゃんは、相変わらず一緒に仕事をしていたり、音楽について熱く議論したりしている。
けれども以前のようにランランが急に呼びつける事もなければ、プライベートで2人で会うこともほとんどないようだった。
第一にランランがぼくに気を遣ってくれているみたいだし、第二に名前ちゃんも誰よりぼくを優先するよう努めてくれているみたいだ。
それと、名前ちゃんが雑誌のインタビューでランランの名前を出すことがなくなった。
いいんだろうかこのままで。
ぼくらこのままで、名前ちゃんはこのままで、幸せになれるのだろうか。
それに。
「ねぇちょっと、ランマル完全に酔っ払ってるよ。誰が送っていくの?」
「寿は逆方面だったか? ならば誰か呼んだ方が早いか」
アイアイとミューちゃんが言っていると、ガンッと居酒屋の低いテーブルに手がつかれた。
「い……ける、1人で帰れる……余計なことすんな」
ランランがアクセサリーのついた腕をジャラリといわせて起き上がる。「本当に大丈夫?」とアイアイが疑わしげな視線を送る。
「ランラーンぼくが送ってくよ、また公園で寝て風邪なんて引いたら大変だし」
「てめぇと相乗りしたら高くつくだろうが、タクシー代舐めんなよ……」
「うーんだけど……」
ランランは言いながら半分寝てしまっていて、ぼくは結局ランランを家まで送り届けることにした。
タクシーの車内で窓の外を眺めていた。不意に、視線を内に戻す。
ランランは? ランランは、幸せなんだろうか。ぼくが、ランランから名前ちゃんを奪って。自分を純粋に慕う後輩を奪って。
ぼくは目を逸らした。
こんなの偽善かな。ぼくは自分がほしいものを手に入れたから、勝手に罪悪感に追われて。もし名前ちゃんがぼくの元から離れていったら、こんなこと、とても思えないくせに。
「……ねぇ、今週末どこか行きませんか?」
名前ちゃんの言葉に「ん?」と返す。名前ちゃんがお風呂から出てきていた。
「いいけど、どしたの? 名前ちゃんからデートのお誘いなんて、珍しい」
「お誘いっていうか……別に……」
口ごもる名前ちゃんに少し笑って、ぼくはソファの自分の隣を叩いた。
「じゃあ、週末は天気がいいみたいだしピクニックでもしよっか。まだ寒いかな」
「ああ、それいいですね」
「ね! 名前ちゃんの手作りのお弁当が食べたいな〜」
「えっ、弁当屋の息子に手作り弁当って、ハードルがちょっと……」
「あははっ確かにね」とぼくは笑う。名前ちゃんがやって来てぼくの隣に座った。
「でも、うん……あんまり期待はしないでくださいね」
「えっ! 作ってくれるの!?」
「ハードルなるべく低く見積もっといてください」
名前ちゃんの言い草にぼくはあははと笑って、それから少し視線を外した。
「……寿さん、」
「ん? なに?」
笑顔にして顔を上げると、名前ちゃんは暫くぼくを見つめて、結局「いや……なんでも」と言った。

「……嶺二、」
番組の楽屋でランランが不意にぼくの名前を呼んだ。
「ん? なあに?」
弁当を食べていたぼくは顔を上げた。ランランはすでに食べ終わっていて、ご飯粒ひとつない空箱が手前にあった。
「……歌、アイツがまた一緒にやりてぇっつってんだが、てめぇはいいのか?」
ぼくは目を見開いた。手が止まったまま、ランランを見た。
「……あっはは、どうしてぼくの許可がいるの? 歌のことはさ、ぼくは関係ないじゃない。仕事に恋愛なんて持ち込まないよ」
ぼくは何とか手を動かして唐揚げを箸で挟んだ。笑顔を浮かべた。
「……まあそれもそうか。ならいい」
ランランはそう言ってまた雑誌を読み始めた。ぼくの箸は暫く止まったままだった。
「あ、寿さん」
楽屋に戻ってきてドアを開けたら、名前ちゃんが振り返ってぼくの名前を呼んだ。
「お邪魔してます」
「あ、うん……どうしたの〜? ランランと何の話?」
ぼくはなるべく明るく努めて言った。名前ちゃんは先に楽屋に戻っていたランランと話していた。隣に座って、ノートを間に談義していた。
「さっき言ってた歌の話だ。イメージだけでも固めとくかっつー話になって」
「そっかそっか」
ぼくはそう言って、二人の向かいの椅子を引いた。
二人はああだこうだ言いながら、ノートに書き留めたり、書き留めたメモを指して議論したりしていた。ぼくはそれを眺めていた。
色々あったって、音楽を間に挟めばこの二人はこんなにも隔たりなく向き合うことができて、ぼくなんか眼中になくなって。
「……ぼくちょっと飲み物買ってくるねー」
「コーヒー」
「はいはい。名前ちゃんは?」
「あ、じゃあ私もコーヒー。ありがとうございます」
うん、とぼくは笑って部屋を後にした。

ランランが名前ちゃんに少しでも恋愛感情を持ったら、あの二人は、きっと。
「あの、寿嶺二さんですよね」
小声がしてスマホから顔を上げた。綺麗な女の人が立っていた。
ぼくは周囲にちらりと視線を向けてから、とりあえず笑みを浮かべる。
「あはは、」
口元に人差し指を当てたら、その女の人は、あ、と小さく声を上げて頷いた。
人が雑多に通る駅前は、夜なのに明るく煌めいている。
「あの、プライベートなのにごめんさない、大ファンなんです。その、良ければ握手していただけませんか……?」
「わっほんと? ありがと、嬉しいなあ」
手を差し出して握手をした。
と、手元のスマホがヴーヴーと音を立てた。
「あ、ごめんね、呼ばれちゃった」
小さく手を振ってその子と別れて、スマホを耳に当てた。
「もしもし名前ちゃん、どこにいるの?」
電話の向こうからは何も声がしない。ぼくは人波の中で辺りを見回しながら「名前ちゃん?」と呼んだ。
突然ガッと腕を掴まれて体が後ろにつんのめった。
「うわっ! びっくりした、どしたの名前ちゃ……」
そのまま腕を引っ張られて、名前ちゃんが走り出す。
「ええっ? ちょっと、車あっちだよ!?」
言っても止まらないのでぼくは引かれるがまま走った。
名前ちゃんは人波の中を器用にすり抜けて、意外と速く走った。
駅前を離れて、人足もまばらな住宅街に差し掛かったところで、名前ちゃんは足を止めた。
「一体どうしたの?」
少し弾んだ息で尋ねた。名前ちゃんは肩でしていた息を整えていた。
ぼくを見た。その顔が。
「…………なんでもないです。あと、遅くなってすいません」
名前ちゃんは顔を歪めて言った。視線が斜め下に落ちていた。
「…………名前ちゃんやきもち焼いてくれてるの…………?」
ぼくの言葉に「うっ」と名前ちゃんが変な声を上げて、額に手を当てた。
「…………」
黙り込む名前ちゃんをぼくは呆然と見ていた。
暫くの沈黙の後名前ちゃんは軽く咳払いをした。
「……戻りませんか」
「あ、うん……」
ぼくは上の空で返事をして、踵を返す名前ちゃんを見ていた。
手を掴んで、引き止める。
「うわっ、何……」
ぼくの顔を見て名前ちゃんが言葉を止める。
ぼくは瞳を揺らして、名前ちゃんを見た。
「だってランランは?」
え? と名前ちゃんが声を上げた。
「だって……だってぼくが、二人を無理矢理引き離して……あんなに気が合うのに……あんなに幸せそうなのに…………名前ちゃんは、あんなにランランが好きなのに」
名前ちゃんは目を見開いて、眉を寄せてぼくを見ていた。
沈黙が降りた。名前ちゃんが、視線を揺らしていた。
「…………私、寿さんがすきです……ていうか、寿さんがそうさせてるんじゃ……」
「え?」
名前ちゃんの言葉の意味がわからなかった。
「じゃあランランよりもぼくがすきなの?」
「そう、ですよ……最近折り合いがついてきて、また一緒に仕事できるような気がして……」
名前ちゃんの言葉にぼくは目を見開いたまま眉を曲げる。
「嘘だ、だって名前ちゃんあんなにランランがすきだったのに」
「だって寿さんがすきにさせたんじゃないんですか……え? 素ですか……? てっきり私は……」
黒崎さんと元の関係に戻れるように、惚れさせようとしてくれてるんだと思ってた、だからあんなに優しくて、愛してくれて。
ぼくは呆然と固まった。
沈黙が増すごとに名前ちゃんの顔がどんどん赤くなった。
「わ……忘れてください何もかも……」
名前ちゃんが顔を覆う。
ぼくはその手を取った。目が、合う。
「……それが本当だとしたら相当安い女の子だよ名前ちゃん……」
「っ、」と名前ちゃんが顔を歪めた。
「何とでも言ってください。……けど私、救われたんです、苦しかった……黒崎さんに嘘つくのも、自分に嘘つくのも、苦しかった」
名前ちゃんは眉間にシワを寄せて瞼を閉じた。
「寿さんだけが気づいてくれた、私も嫌いな私を愛してるって言ってくれた」
名前ちゃんの目尻に涙が浮かんで、拭っていた。
名前ちゃんを抱いた。抱き寄せて、抱きしめた。
嬉しくて、愛しくて、どうしようもなくて、こんな夢みたいなことは、すぐに壊れてしまいそうだと怖くなった。
名前ちゃんの手がぎこちなく背中に回って、ぼくを抱きしめた。



黒崎さんが公園のベンチで横になっていた。
「風邪ひきますよ」
黒崎さんの体が動いて、目が開く。ゆっくり起き上がった。
「どこでも眠れるのはいいけど、ちゃんと屋根の下で寝てください」
「てめぇ免許とか取れよ」
「自分で取ってよ」
「それじゃ酒飲んだとき使えねぇだろ」
ああそうか、と私は言って、自販機で買った水を差し出した。
黒崎さんは暫くその水を見ていて、受け取った。ジャラリとシルバーアクセサリーが鳴った。
「今日嶺二は」
「日向さんと飲んでるんだって」
「ふーん、よく許したな」
黒崎さんはキャップだけ開けて、飲まずに持っていた。
「信頼されてるんですよ、黒崎さん」
私はそう言って笑った。
黒崎さんは暫く黙った後に、「そりゃ有り難ぇことだな」と呟いて水を飲んだ。
私は夜空を見上げた。
星は見えないが、なんだか綺麗だった。
何かが触れた気がした。
顔を下げると、黒崎さんの手が引いたところだった。髪が、余韻で揺れている。
「……行きますか?」
黒崎さんは「……おう」と言って立ち上がった。
マフラーの中で、私は少しだけ眉間に力を入れて、目を閉じ笑った。


「うーん寒いね!」
寿さんがそんなことを言って肩を震わせた。
「けど前回よりはまだマシな気はします」
「確かにそうかも! この前はほんとに寒かったもんね! 日向に行けば暖かいかな、はいっ」
寿さんはそう言って手を出した。
私はポケットに入れていた手を出して、その手に重ねた。
「名前ちゃん手冷たい!」
「末端冷え性なんですよね」
「そうなの? 名前ちゃん寒がりだしね。マフラーをぐるぐる巻きにしてる姿、可愛くってぼくすきなんだ〜」
「なんの告白ですか」
視線を逸らす私を笑って、寿さんが手を握る力を強めた。
小さなレジャーシートを広げて弁当の蓋を開ける。寿さんが言ったように、日向は太陽の陽気が暖かく充満していて、この季節の乾燥すらあまり感じなかった。
「寿さんの唐揚げはホント美味しいですよね」
「名前ちゃんにもいずれ教えてあげる、寿家の人間になったら必須だもんね」
にこにこと上機嫌で言う寿さんに私は顔を逸らした。
「名前ちゃんってすぐ照れるよね〜可愛い。あっ、名前ちゃんの作った卵焼きも美味しいよ。甘味でぼくのすきな味!」
何から反論すればいいのかわからなくなって、結局何も返せずに受け止めることになる。
寿さんがそんな私を見て肩を震わせている。この人は……。
「名前ちゃんはさ、本当にちゃんと女の子だよね」
ふと寿さんが言う。私は唐揚げを口に入れかけたところで止めた。
「まさか名前ちゃんがこんなだなんて、誰も知らないんだろうなあ」
前を見ていた寿さんが、こっちを向いてふふふと笑った。
「苗字名前の女の子の部分は、ぼくにだけ見せてね」
膝の上の手に手がそっと重ねられて、ゆっくり顔が近づく。
「……って、外! 外ですけど」
慌てて身を引くと「もうちょっとだったのに」と寿さんが笑う。ダメだつい雰囲気に流されて。
寿さんと目が合って、ふふと小さく微笑まれる。
重ねられた手が動いて、指と指の間に、指が絡まる。
手から視線を上げると、寿さんが私を柔らかく笑って見つめていた。
私は思わず顔を背ける。
「あははっ」
寿さんが笑うのを聞きながら、私は唐揚げを口に放り込んだ。
「でも実際、そんな調子だと心配だなあ〜名前ちゃん、またすぐランランに心変わりしちゃったりして」
「黒崎さんが寿さんみたいに熱心に毎日愛してるとか言ってきたらわかんないけど」
私はプチトマトを挟んで口に入れた。
「ぼく毎日言ってる?」
「言ってますよ、ずっと」
「なんのときに?」
喉に詰まらせたら、寿さんが隣で目を細めて笑っていた。誘導尋問だ。
寿さんが楽しそうに隣で笑っている。
まだ春は遠いが暖かい風が吹いていた。木々が心地いい音を鳴らしていた。


「貴様、さっきから煩いぞ」
「あ?」と俺は声を上げて、自分がずっとボールペンで机を叩いていたことに気がついた。
「ストレスが溜まっているなら外を走ってきてはどうだ。単細胞には長考よりもそれがお似合いだろう」
「ああ? 誰が単細胞だ。つーかてめぇこそ知識詰め込み過ぎて頭重てぇんじゃねぇの、なんだよさっきのターンは」
「あれは寿が相談もなくアドリブを入れたからああなったのだ」
「へーえ? まあ、アイツ最近浮かれてやがるからな」
カミュは音を立てて本をめくった。足を組んで楽屋の椅子に踏ん反り返って座っている。
「……なあ、」
「なんだ。愚民のする愚問に使う時間は一秒たりとも無いのだが?」
「てめぇは普通に返事もできねぇのか」
ぺラリ、とめくられる本を見ていた。
「……人間の中身が入れ替わるって、アレ、よくあることなのか」
カミュはまたページをめくった。聞いてんのかよ、と思ったところで、視線が上がった。
「なんだ? 貴様また誰かと入れ替わりたいのか?」
カミュが怪訝そうに俺を見た。ココン、と手の中のボールペンが机に掠って音がした。
「別に、んなこと誰も言ってねぇだろ」
「ふん、どうだかな」
カミュと会話すんのは他人の何倍も面倒くせぇな、と散々思ったことをまた認識して溜息をつく。
「……あんなものは、滅多にありえん。寸分のズレもなく同じ時に同じ、それも決まったメロディーを奏でるなど不可能に近い。なんの問題もなく解けたのも奇跡と言っていい。愛島が言うには、一度消費されたメロディーは二度と効力を持たぬらしいしな」
まったく、運が良いのか悪いのか、とカミュは呟いた。
俺はふーんと返事を返した。
「つーかてめぇやけに詳しいよな」
「……書物を読めばこれしきのことは書いてある。貴様ももう少し読書をしてはどうだ、その頭は何の役にも立ってなさそうだが?」
「立ってるわ」
舌打ちを打ってボールペンを机に放った。読んでいた雑誌を手に持った。
「……しかし、貴様も自分以外の誰かになってみたいなどと思うのだな」
俺は自分の手に視線をやった。
ゆっくり目を閉じて、そうして開く。
「勝手に決めつけてんじゃねぇ、誰がんなこと言った」
俺の言葉にカミュはふんと鼻を鳴らしただけで、何も言わなかった。
俺は顔を歪めて、小さく息を吐いた。
ヴーヴー、と机の上のスマホが音を立てて、見ればメールが来ていた。
通知画面では内容が何もわからない長文のメールだった。
ああ、そういや今日シングルの店着日だったか、と思い出した。
メールを読み進めながら、俺は小さく笑った。


End
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