Begonia(黒崎蘭丸)


(2/2)
瞼をゆっくり引き上げると、見慣れた自分の部屋が見えた。
早朝だというのに妙に温かい心地がして、視線を下げると名前が胸の中で寝ていた。
胸の中でと言っても、ソイツは至って普通に仰向けに寝ているだけで、どうやらおれが勝手に抱いて寝ていたような体勢だ。
瞼を閉じてゆっくり胸を上下させるその身体を眺めて、指先でソイツの前髪をサイドに退けたりした。
秒針の音が静かにする。
カーテンの隙間から、日が昇る前のひんやりとした朝の空気が漏れている。
ソイツの身体から腕を離して、ゆっくりと上体を起こす。
そのまま音を立てないように気をつけてベッドを出て、机の上の携帯を拾い上げた。
再びベッドに戻って、真新しいシワの寄った向こう側へ体を戻す。ギ……と静かに音がなる。
携帯を操作して、上から構える。
カシャ、と存外大きく音が鳴ったが、起きる気配はない。
携帯片手にまたベッドに寝転んで、掲げながら操作して眺める。
「……は、何やってんだか」
おかしくなり一人で笑う。
隣に視線を向けて、曲げた指で、ゆっくり頬を触った。


今日最後の仕事であったユニットでの打ち合わせが延期になった、と連絡が入る。
最後の仕事ということはその分早く帰れるということだ。喜ぶのも何だかおかしな話な気もするが、早速携帯を取り出したのだった。
レコーディングスタジオでレコーディングを終え、ベースを背負って部屋を出たところでメールに返信が来ているのを見つける。
『ゴメン、今日は遅くなりそう。発注を取り違えてて何だかゴタゴタしてる』
メールの文章を読み終えて、「マジかよ」と思わず口に出してしまった。
「なにが?」
「うおっ、って嶺二か」
真後ろで突然した声に振り向くと、嶺二が何やら機嫌良さげに立っていた。
「急に声かけんじゃねぇよ」
「めんごめんご! ランラン見つけちゃったからさー嬉しくって! スタジオで会うなんて中々ないじゃない?」
おれは軽く溜息をつきながら、携帯をポケットにしまう。
「つかおまえいつもよりうるせぇな、なんかあったのか」
「『うるせぇ』って! 機嫌が良いって言ってよ! ていうかわかる?」
「丁度いいや、てめぇ今晩、飯連れてけ」
「今晩? いいよん! って何があったか聞いてくれる!?」
嶺二が大袈裟に目を開きながら訴える。
廊下を歩き出しながら別に気にはならないが聞いてやる。
「ドラマのオーディション受かったんだ〜! しかもずっとやりたかった役!」
「ふーん、そりゃめでてぇな」
「でしょ!」
「じゃあ今晩は焼肉にしようぜ」
「それランランが食べたいだけだよね!」
もーと嶺二が膨れっ面をしながら、けれども機嫌の良さを隠しきれていない様子の軽い足取りで廊下を歩く。
じゃあ7時な、と約束を取り付けて別れた。
途中会った藍にも、嶺二は「アイアーイ! ちょっとちょっと聞いて〜!」といつもの割増のテンションで駆け寄っていっていた。

「それでね、もう超かっこいいのなんのって!」
花金の賑わう夜の駅前をふらふらと歩きながら、嶺二が身振り手振りを加えて話す。
「おまえ、案外ガキみてぇなとこあるよな」
ふと思ったことを口にすれば、嶺二はふふんと顎に手を当て笑う。
「ぼくってば男の子にもオトナの男にもなれちゃうんだ〜ドッキドキでしょ?」
「はあ?」と言ってやれば、「もう! マジの反応しないでよ! 恥ずかしい!」と返ってきた。
「ていうかさ、ランランせっかく早く帰れるのに、ぼくと飲んでていいの?」
嶺二がコートのポケットに手を入れながら、脇を通りすぎていく1組のカップルを目で軽く追う。
「別に……アイツだって暇じゃねぇからな」
視線を外して言えば、嶺二が目を丸くして、それから面白いものでも見たかのように目を細める。
「ふっふ〜ん? ランラン寂しいんだ〜?」
「悪いかよ」
「え! 意外に素直!」
嶺二が驚いたように声を上げる。それから軽く笑った。
「ほんとに好きなんだね、彼女ちゃんのこと」
瞼を閉じて笑う嶺二を横目で見て、それからふらと視線を前方に戻して歩いた。
ふと、スーツを着た年配のサラリーマンが、その姿に似合わず花束を持って歩いているのが目に留まる。
少し視線を動かすと、左手に花屋が構えているのが見えた。
「いいんじゃないお花!」
隣の嶺二がまるで心を読んだかのごとく声を上げるから思わず「あっ?」と隣を見る。
「女の子はお花貰うと嬉しいってよく言うし」
「はあ? なんの日でもねぇぞ今日」
「それがいいんじゃない!」
花屋の前まで来てしまい、嶺二が立ち止まる。
「日頃の感謝とかさ、伝えないと案外伝わってないものだよ。ランランのアチチな想いとか〜」
おれはその華やかな店の外観を見つめて思わず臆する。こんなとこ入ったこともねぇ。
「つーか……女なら誰だって好きなもんなのか?」
「うーん、大抵は好きって聞くけど……大事なのはランランの彼女がどうかだよね」
『世間一般がどうじゃなくってさ』
といつかの話の時を越えたフォローなのか、そんなことを嶺二は言った。
「…………」
あんまりアイツにそういうイメージはねぇが……サバサバしてて女々しい感じもしねえ、そういうのが好きじゃない可能性だってある。…………。
足を進めたら嶺二が隣で笑った。


ラップをかけて置いておいた飯が机に。
ソファに座りながら、アンプに繋がないままベースの弦を弾いていた。
ガチャ、と鍵を回す音がして、扉の開く音がした。ただいま、と小さく聞こえた気がする。
暫くして部屋に顔を出す。ボン、と弦を弾いた。
「あれ? おかえり。飲んでくるんじゃなかったの?」
「あー……まあ……」
ソイツはバックを下ろしてコートを脱ぐ。
「どうしたのその花」
脱ぎながら机の上の花に目を留めていう。ハンガーをとってコートを掛ける。おれはベースの弦からピックを離す。
「……買った」
「ん?」
「おまえに」
気恥ずかしくなって逸らしていた目線を上げれば、ハンガーの下で立ったまま、固まっている姿が見えた。
「まあおまえは、こういうの好きじゃねぇのかもしれねぇが……鉢植えだからそのまま置いときゃいいだけだし……まあ、なんだ……」
テーブルの上の花を見る。鉢の部分を淡いラッピングペーパーで包んでリボンがかけられ、深い緑の葉と、ひらひらとした形の花弁は滲んだ水彩絵の具のように外からピンク色に染まっている。
その花の先から、視線を上げると丁度名前の姿が見えた。
「おれの気持ちが伝わりゃ、それでいい」
見つめた先の名前の目は、おれに向いていて、それから下がって花に向く。
この部屋に花があるとどうにも似合わなくて、けれどもそういうことな気がした。この幸せな色をした花が、この部屋にある、いつも。
酷く揺れた気がした。ぐらりと。
次の瞬間涙が落ちて、おれは「はあっ?」と思わず腰を浮かせる。
涙が落ちては遠近法で、目の前の花の上に落ちる。
「ん、な嫌だったのかよ……」
「はは……違う……嬉しく、て……」
おれはただ呆然と目の前の景色を見ていた。
なんとなく、感動して泣いているようには見えなかった。
名前が泣くところを、この時初めて見た。
ベースをソファに立てかけて立ち上がり、側に行って顔を覗く。
「オイ、なんかおまえ……」
名前は片手で目元を覆って俯いてしまい、横髪が垂れて隠すのもあって、ますますわからなくなるばかりだった。
どこでトチったのかと一度机の上の花を振り向くが、そんな浅いところの問題ではないような気もした。
ソイツは一度強く目元を拭ったかと思うと爪先の向きを変えて、洗面所にでも行くのか背を向けようとする。
咄嗟に腕を掴んで抱きしめた。
すすり泣く声が胸の中でしていて、けれども抵抗はなかった。同時にしがみつくこともなかった。
最初は柔い力で抱きしめて、けれども無意識に、強く、段々強く、自分の胸に押し付けた。
ガタン、と風で、窓が揺れた。


翌朝、着信の音で目が覚めた。
意識がはっきりしだすと腕が痺れているのに気が付く。見ると名前を抱きしめたまま寝ていて、左腕が名前の頭の下敷きだった。
引き抜くことはせずにそのまま、腕の中の姿を見つめる。
頬に薄っすらと涙の跡があって、目の周りもどこか赤い。
昨日はあのまま眠ったのだった。あんな状態じゃ何も聞けはしないし、それよりもどうにかこうにか、コイツに添ってやらなければと思ったのだった。
ヴーヴーヴーと携帯が震え続ける。
思い出して、仕方なくそっと腕を引き抜いて上体を起こした。
テーブルの上で携帯は鳴り続けていた。部屋の時計を見ればまだ6時だ。こんな朝早くに一体何の用が。
開いて見れば事務所だった。
通話ボタンを押して耳に当たる。
「もしもし?」
『お前今家か?』
どうやら日向さんの声のようで、けれども挨拶も名乗りもなしの急な台詞に少し面食らう。珍しい。
「そうっすけど……なんかありました?」
『…………』
日向さんはそこで少し沈黙をつくった。それに眉をひそめる。
『……記事が出る』
その言葉の意味を理解するのに時間がかかった。が、日向さんの次の言葉で全てを把握する。
『週刊誌だ』
事務所に来いと言われて駆けつけると、まだ早朝の社長室に、日向さんと親父がいた。
テーブルの上には雑誌が広げてあった。
そこには古びたアパートのベランダ。
『アイドル黒崎蘭丸同棲発覚!』
デカデカと斜めにレイアウトされた黒字と、見慣れたアパートのベランダの写真が何枚か。
「とりあえず、これは事実か?」
日向さんの言葉を雑誌を見つめたまま聞く。
「……はい」
答えれば日向さんは顔を歪めて、それから淡い期待を打ち砕かれたかのように溜息をついた。
「Mr.クロサキ。YOUなら大丈夫だと思ってまシターが、まさか恋愛禁止の掟を忘れたわけじゃーあるまいな」
「破ったのは悪かったと思ってる、考えなかったわけじゃねぇ。けど、コイツが居なかったら今のおれはねぇんだ」
親父のサングラスを見据えながら言葉にする。
「お前が半端な気持ちで恋人なんかつくらねぇのは、よくわかってるけどな……」
日向さんが難しい顔でテーブルの上の雑誌に目を落とす。
「誰もかれもーが、理解してくれるかといーえーば、ノンノンノン。お前達の関係をただの色事だとしか考えない人間もいるだろう」
おれは雑誌の記事に視線を落とす。ベランダで会話をしている所から、抱きしめている所、キスをしている所まで写真が連続して載せてある。
「……とりあえず、」
日向さんが重い口を開いて言葉を出す。
「記事が出るのは明日だ。仕事はほぼ通常通りやってもらうことにして、世間の反応を見て対応を決める。そんで、暫くの間アパートには帰るな。撮られてるっつーことは全部バレてんだ」
日向さんは眉間に皺を寄せたまま溜息をつく。
「相手にもどっか別の場所に帰るように伝えろ。わかってるとは思うが、暫く会わねぇこと」
日向さんは言い終えると、一度おれを見てから雑誌に戻した。
「お前だから余計にだろうな。マスコミも世間もしつこいはずだ……構えとけよ」
日向さんは眉を歪めてそう言った。親父はそれ以上何も言わず、おれは部屋を出た。

プルルルル……プルルルル……と耳元で音がする。
プツッと切れて、『もしもし?』と声がする。
「…………ああ、」
『……どうかした?』
電話の向こうから聞き慣れた声がする。おれは事務所の廊下の壁に背を預けて、瞼を閉じる。
「……おまえ、住むとこあるか?」
『え?』
「週刊誌に記事が出る」
息を吐いて、瞼を開く。向こうからは沈黙が続いて、暫くそのままだった。
『蘭丸、平気……?』
耳元で声を聞きながら、おれはまだ人の通らない朝の廊下を眺めていた。
「おれより自分の心配しろよ、おまえにも迷惑かける」
『…………そう』
ああ、と返す。
「アパートには帰れねぇから、おまえどっか寝泊まりできる場所がねぇと」
『わかった、実家に帰るよ。蘭丸は?』
「おれは事務所の寮の空き部屋を借りる」
『そう』
暫く沈黙が続いて、電話の中からなるザーという微かな音だけがその場にあった。
「黒りーん!」と少し先で呼ぶ声がした。
耳に当てた電話からは何も聞こえない。
タイミングが悪い。昨晩の事を、無かったことにしていいはずはないだろう。
「……名前、」
ゆっくり瞬きをする。
「愛してる」
言った言葉は沈黙をつくって、それから、はは、と微かに笑う声がする。
『……ん……ありがとう』
別れの挨拶をして電話は切れた。
事務所の扉から顔を出して月宮さんが呼んでいた。



スタジオの廊下を歩くだけで、いつもは感じない種類の視線を感じた。
ただ真っ直ぐ前を見て進む。
「あ、おはようございまーす……」
スタジオに入れば入り口のところにいたスタッフがおれに気がつきそんな挨拶をした。ちらりと見て返事をして進む。
眩しく照明の当たるセットまで靴音を立てる度に、目線と何かを含んだ挨拶。
「あっランラ〜ン! おっはよー!」
嶺二だけがいつも通りに手を挙げて駆け寄ってきた。
「ランラン聞いた? 後半のCM後のMCちょっと変わるんだってー」
「あーああこれか、わかった」
嶺二が持ってきた台本に目を落として言う。「よろしくマッチョッチョ」と嶺二が無駄にウインクした。
「ああ、黒崎くん」
ディレクターが片手を軽く上げて近づいてくる。
「おはようございます」
「ああ。しっかし君も隅に置けないな」
ディレクターは笑みを浮かべておれの肩に手を回す。
「…………」
肩に置かれた手を見る。
「そうだ! ねぇ今ランランとも話してたんだけどMC変えるんだったらその後のセリフも変えたらどうかな?」
嶺二がディレクターの前に台本を差し出す。
「例えば〜ここの流れをこっちに持ってきちゃうとか! その方がスムーズにいくと思うんだよね」
ディレクターも台本を覗き込んで、「いやそこはそのままで……いやそうか通すとちょっとおかしいか」などと言う。いつの間にか手は離れていた。
収録は無事終了し、簡単に挨拶を済ませてスタジオを出る。好奇の目は変わらない。
「聞きたいのに聞けないって感じかな、皆んな」
楽屋で嶺二が少し皮肉げに笑って言った。けれどもその後に、どこか眉を寄せて視線を落とす。
「……」
黙って嶺二の席の前に缶を置く。
「ん? なにこれ?」
何も返さずに自分の椅子の脇に置かれたベースを担いだ。缶コーヒー。
「……てめぇには迷惑かけるかもな」
一瞥してそれだけ言えば、嶺二は目を丸くしておれを見た。
「ランラン随分大人になっちゃって……!」
「いらねぇなら返せ」
言いながら背を向けて、キャップを被ると扉へ足を向ける。
「ありがとね、今一番やられてるのはランランなのに」
おれはドアノブを握った手を止めて、暫くその自分の手を見つめていた。だが、ガチャリとすぐにドアを開ける。
「ランラン、」と聞こえた。
「駄目になる前に言ってね。ぼくにできることで協力するから」
わざわざ呼び止めて背中に聞こえた声は真剣な声色をしていた。おれはドアを開いて廊下に出た。

場所は変わって別のテレビ局の楽屋。
音楽番組の収録の出番が終わった所で、このまま別の仕事の打ち合わせが入るのでここで待機。
テーブルの上にいくつか重ねられた雑誌の、中の一つに自分の名前を発見する。
表紙にまで文字が出ている。それを取ってページを開いた。
『〈あの〉黒崎蘭丸、秘密の同棲生活』
見開きを一面に使い、コマ送りにしたような写真は堂々と半分を占めている。
『見つめ合い→ハグ→キスのラブラブっぷり』
写真は、向かい合って見つめ合う写真、その隣に抱きしめる写真、次いでキス、そして最後に名前がおれを見て笑う写真が差し込まれていた。
楽屋のテレビから音がして見ると、小さな画面には昼間のワイドショーが映っていた。
『えー今日発売の週刊スキャンダルによると? お相手は同じくらいの歳で、周辺の住人の情報によると半年程前からアパートに入っていくのを見かける……ということらしいですけど』
『どうなんですかね?』と司会が並んで座ったコメンテーターに振る。セット内の大きな画面には週刊誌の写真が映し出されていた。
『どうって言われてもね? 言い逃れできないでしょこれは』
『まあまあ確かに場所が場所ですからねー事務所はまだコメントを出してないということで』
主婦層の女のコメンテーターが、『でも、』と口を開く。
『ファンはショックでしょうね、彼がそんな風に見えなかっただけにねえ』
『黒崎くんは本当そういうイメージがないですもんね、ドラマとかですら女性と絡むシーンも珍しいでしょ?』
司会の男はカメラの向こうのスタッフに確認するように『ねぇ?』という。
『でもこれ相手がさ、』
と一人のコメンテーターが画面の中の写真を指差す。
『これ4枚目の写真、煙草吸ってるでしょ。これはちょっとどうかなって思いますよね、アイドルなわけでしょ? それも黒崎蘭丸みたいな歌でやってる人間のさ。一緒に住んでるのに吸うかね。本当に想ってんのか怪しいよ』
何も知らねぇくせに。
気づけばグシャ、と手元の雑誌が手の中でよれていた。離してもシワはそのまま元に戻らなかった。
携帯を手に取って耳に当てる。
コール音だけが永遠に鳴り響いていて、いつまで経っても繋がらなかった。当然だ、この時間じゃもう昼休憩も終わって仕事の真っ只中だろう。
電話も控えるようにと言われている。どこで誰が聞いているかわからないし、万が一データが漏れては決定的な証拠になる。
鳴り響く虚しい音を聞きながらゆっくり手を下ろした。
あの部屋には暫く誰も帰らない。
あの花はじきに枯れる。



ねえー? お客さーん」
一階から続く階段から呼び声がして、自室でエプロンを着ていた私は「ちょっと待って」と返す。
エプロン紐を後ろで結びながら、木でできた階段を降りると、最下段で妹が顔を出して待っていた。
「誰?」
「わかんない、なんか男の人」
階段の最後の一段を下りて店の中、カウンターの中に出ると、妹は左手の席に座る男を指差した。スーツを着ている。記憶を掘り返しても、見覚えのない男だ。
「どうも、私に用だと聞いたんですが」
テーブルの側に立って声をかける。
「ああ、君が」
少し眉を潜めて、「はい?」と口にする。
「君、――っていうバンドのメンバーだよね?」
久しく耳にしなかった名詞を聞いて、目を細める。相手を見据えて、それから眉を歪める。
「……そんな事聞いてどうされるんですか」
「ああいや」
男は曖昧に濁して、それから少し考えるような仕草をした。
ジャケットの胸ポケットに手を入れた。
「実は私、こういうものなんだけれけど」
差し出された名刺を見て、眉を寄せる。聞いたことのある出版会社の名前が書いてあった。
「よかったら話を聞かせてくれないかな。なんでもいいんだ、忙しいなら少しでもいいし」
「失礼します」
背を向けて歩き出せば、「ちょっと」と声がしたが、振り向きもせずに歩いた。
カウンターの中に戻ると、母が馴染みの客とカウンターで会話していた。その口を止めて「なんだって?」と聞く。
「……今日は裏を片しとく」
それだけ言ってバックヤードへ続く扉を開けた。狭いキッチンには父と妹が立っていて、妹が同じように「なんだって〜?」と聞いた。

ヴーヴーヴー、とベッドの上に放った携帯がくぐもった音を立てた。
風呂から上がってまだ濡れたままの髪を、肩にかけたタオルで拭きながら手に取る。
自室は出た数ヶ月前と何も変わっておらず、つまりは子供の頃からの変化もあまりない。ただ妹の服や靴が箱に入っていくつか床に置かれていた。
「……もしもし」
登録されていない番号だったので、少し考えながら耳に当てる。
『ああ、久しぶり。おれおれ』
「……詐欺? ……何?」
笑い声が聞こえた後に、聞こえた名前はまたもや久しい名で、最近蘭丸の口から聞かなければもっと懐かしい感覚がしたかもしれない。
そういえば、同窓会の時に番号を変えたからと教えられたのだった。それきり登録し忘れていた。
キャラクター柄の掛け布団のままの、ベッドに腰を下ろせば、ギ、と音がした。
肩に携帯を挟んでタオルで髪の水分を拭く。
『いやもうビックリだわお前、まだ蘭丸と繋がってたんだ? スゲーな』
「…………まあ」
言いながら、手を止めて、ただ絨毯の敷かれた床を見ていた。
『意外っつーかびっくりっつーか? テレビ見て思わず立ち上がったっての。どっからどう見てもお前じゃんと思って!』
「…………ふーん」
電話の雑音が、耳元でガサガサ鳴っている。
『てかどういう繋がりよ、あいつ今アイドルやってるんだろ? 初めてテレビで見た時笑ったもんな〜あいつがアイドルって……』
「用件は何? 切ってもいい?」
窓の外ベランダの向こうの空は暗い。
『は? なに、キレてる? ってうおっ……待て待てママのとこ行ってろって』
「…………」
プツッ、と通話を切った。
通話終了、の文字を、膝の上でただ眺めていた。
もう一度電話が鳴ることはなかった。
湿った髪が、重くこうべを垂れた。



『なんと過去に組んだバンドのメンバーらしいと別の雑誌が報じてますね』
いつの間にかソファでうたた寝をしていたらしく、ソファをはみ出して床に垂れた左腕は、筋が少し痛んだ。
瞼を開いて天井を眺めていた。どうやらそれ程時間は経っていないらしく、レコーディングの時間まではまだ時間がある。
事務所の寮なだけあり、仕事のちょっとした合間に部屋に帰ってこれるのは良点のようだ。
テレビからは相変わらずワイドショーがやっている。
『バンドは数年前に解散していて、現在音楽関係の仕事をしてるのは黒崎君だけですね。お相手の彼女も今は普通にアルバイトで店員をしていると』
時が経つごとにどんどんと新しい情報が露見してくる。それに一々世間は反応を返す。
事務所は様子見だと言って沈黙を守っていて、おれも何も話していない。
PRイベントなどのファンを直接相手にする仕事は取りやめにと、事務所が指示を出した。この時期はレコーディングに専念したいからとライブの予定がなかったのが、兎に角幸いだった、らしい。
黒崎蘭丸は、はぐらかしてはいけない。その手の質問に答えずに舞台からはけていくことも許されない。だからそもそもそういう場をつくらないことに躍起になっているのだ。
本当は、言ってやってもいい。洗いざらい話してもいいと思っている。けれど、そんな簡単な話ではないことがわかるようになってしまったから。
ただ音をかき鳴らして叫んでただけのあの頃ならば間違いなくそうしていただろう。事務所もユニットもファンも将来も何もかもを顧みず。
『関係者の話によるとバンドをやっていた頃は2人はそういう風には見えなかったということらしいですね。恋人関係になったのはアイドルになってからってことなんでしょうか?』
テーブルの上の携帯に手を伸ばして掴む。
無駄に通知が多くて、そのどれもをすっ飛ばして電話帳を広げた。
「…………」
眺めるだけにして結局閉じる。天井に掲げたまま、画面に映したのは、たった一枚の写真。
泣いていた、あの理由を。それに平気だろうか、何かおかしな事になってねぇか。
「…………」
携帯の画面を、額に当てた。
会いてえ。
瞼を閉じればテレビの音も聞こえなくなって、ただ静かな部屋は午後の光を入り込ませて。


「連日凄いね。ランマルだからかな」
楽屋で藍が口を開いた。
「あ?」
おれは雑誌から顔を上げる。藍はカタカタとパソコンを操作しながらこちらを見はしていない。
「ランマルのような売り方をしていると、イメージがない分、世間は余計に知りたがるんだろうね。裏切られたって意識も強い。分析してみたら、普通のアイドルの場合、やっぱりという反応が半分程は占めている。その分熱の引きも早い。あとは年齢によっても違うけど」
「でもじゃあ、」と嶺二が口を挟む。
「アイアイもミューちゃんも、ランランと同じような反応を呼びそうだよねー2人ともどこか浮世離れしてるじゃない? お伽話の王子様みたいだからさ」
嶺二は遅めの昼飯(寿弁当)を食べている。ちなみにおれの前にも空箱が置いてある(嶺二が持ってきたから二度目だったが昼食にした)。
「そう?」
「そうだよーガール達夢見てると思うな〜」
嶺二がにこにこいうと、カミュが本から顔を上げないまま口を開く。
「そうなると、寿の場合だけは世間はやっぱりなと思うわけか」
「年齢的にもね」
「ちょっとちょっと! 誰が年増だ!」
嶺二が箸を持ったまま立ち上がる。
「しかし……まったく貴様には呆れるな黒崎。貴様の事などどうでもよいが、俺の仕事に影響が出るなら話は別だ」
中止になったPRイベントはユニットで行うものだった。
「悪かったと思ってる」
「フン、どうだかな。女にうつつを抜かして持ち前の嗅覚も働かなかったか。ロックが聞いて呆れるわ」
「あ?」
「まあまあ2人とも」
嶺二が唐揚げを飲み込んでから止めに入る。自分の非は確かな手前それ以上何か言う気もなく、おれは口を閉じる。
「まあだが、マスコミはよい方向へ流れているではないか。この分ならば、傷痕は案外少ないやもしれんな」
「はあ?」
カミュの言葉に思わず眉をひそめる。
「女の方にバッシングの目が向かっている。其奴は芸能人ではないのだしな、賢い選択だ」
思わず眉を寄せる。
「どういう事だよ」
「知らんのか? 連日の報道を見ていればわかるだろう。明らかに世間の非難の目は貴様ではなく女の方に向いている。非難の可能な点がいくつか出ているからな。例えば、『“アイドルの黒崎蘭丸と”付き合いたかったのではないか』などな」
カミュが口の端を上げて言った言葉に、思わず立ち上がって眉を吊り上げる。
「ああ? んだそりゃ、勝手なこと……」
「ボクも賢い対応だと思うよ」
藍がキーボードを叩きながら言う。
「スキャンダルを起こしたアイドルの人気の推移を見ると大体3割から5割は低下する。下手すれば半分以下。この先もやって行く気があるなら、なるべく最小限に抑える必要があるんだよ」
「だとしても他のやり方があるだろ。むしろ勝手な憶測でアイツがどうこう言われるくらいなら、落ちるとこまで落ちた方がマシだ」
「ランマル1人の話じゃないんだけど?」
藍が手を止めて眉をひそめておれを見る。
「文句ならば早乙女に言うべきだろう」
「はあ? 親父?」
見ればカミュは目を閉じて本のページをめくったところだった。
「マスコミが得ている情報に作為を感じる。早乙女が裏で情報を統制しているのだと考えるのが道理だ」
顔を歪めるおれに構わずカミュは澄ました顔で続ける。
「全てを伝えるのではなく、嘘を伝えるわけでもない。ただ必要な部分を隠す、そうして世間が勝手に想像する余地をつくればよい。嘘をつかずとも誤った方向へ大衆を促す一種の策略だ」
貴様に理解できるかわからんがな、とカミュは付け足してページをめくる。
「…………」
顔を歪めてテーブルに視線をやるおれを、藍がチラリと一瞥する。
「ネット上の反応を見る?」
ガッと机の上の携帯を掴んで大股で歩く。
「ねえ、まさか連絡取るつもり?」
藍が続けて何か言いかけたが、それより早く、
「ランラーン、」
と声がした。
「半にはスタッフさん呼びに来るから、それまでには戻ってきてねー」
その声を背中で聞いて、止まっていた手を動かしてガチャリとドアノブを回した。
「ちょっとレイジ、」「まあまあアイアーイ、ピリピリしてたら本番前に疲れちゃうよ!」という会話が聞こえて扉が閉まった。
大股で歩きながら耳に携帯を当てる。人気ひとけのない場所を探す。
コール音は、鳴り響くまま。


姿を見せれば、ソイツは固まってこれ以上ない程目を見開いた。
「らっ……何してんの……」
掠れたように言いかけた名詞は音になることはない。
ソイツは店の制服なのかエプロンを着て、店の奥まった狭いレジの中でステッカーか何かを整理しているところだった。エプロンの胸ポケットには缶バッチやらストラップやらがジャラジャラついている。
小物やら電子機器やら、CDやら何やら置いてあるこの店は雑貨屋らしいが結局何屋かわからない。
「……おまえ何時に上がる」
深く下げたキャップのツバの先からソイツを見据えて言えば、ソイツは見開いた目を少し歪めた。
「何してるのほんとに……誰も客いないからいいものの……」
ソイツがものに溢れた店内に少し視線をやって言った。ウィンドウの外も見る。街中だ人は通るが、ごちゃごちゃと並べられたグッズや何枚も貼られたポスターで店内はあまり見えていない。
「会いたかった」
視線を合わせて、少し伏せた目で言えば、名前は目を見開いた。
それが、花の向こうに見た顔と重なって。
「名前ちゃーん、ねーよーどこー?」
レジ奥の小さな入り口から声がした。扉はついておらず、四角く抜かれたそこは一段高くなっている。
名前はおれに顔を向けたまま、その声を聞くと眉を歪めて、それからおれに向かって何か口を開いたが何も言わぬまま閉じた。その入り口に顔を向ける。
「奥の倉庫だったかもしんないです」
何となく嘘だとわかって、視線が戻って来るまで名前を見ていた。「マジー?」と声が聞こえた。
「…………」
名前は眉を寄せておれを、おれのコートのボタンの辺りを見る。
「……蘭丸、」
「……言わねぇなら終わるまでここで待つ」
名前はおれを見て顔を歪めて、それから視線を落として瞼を閉じた。
「…………5時には終わる」
視線を落とすソイツの姿を眺めながら、「わかった、5時だな」と返して、靴先の方向を変えた。
雑多な店内を真っ直ぐ出口まで歩いて、ガラスの扉を開けた。ガラン、とドアベルの音が響いた。



実家近くの公園の裏の山の高台は、土の被ったコンクリートを土台に木製のベンチと屋根が建てられている。
覆い茂る木々の中の細い階段を登って開けるそこは、目の前も木が生えていてそれ程見晴らしがいいわけでもないので、人もまずいない。近所の子供が遊びでやって来るくらいだ。
「……仕事大丈夫なの」
「あ? まあ、PRのイベントが取り止めになったからな」
蘭丸はコートのポケットに手を突っ込んで、屋根の柱に背を預けて話す。黒いキャップは被ったままだが、マスクは取ってしまっている。
少し距離を開けて向かい合っている。高台の風に髪が揺れた。
蘭丸が柱から背を離して、一歩こちらに足を向ける。一歩、一歩、近づく。
目の前で足が止まって、顔を覗き込むように、蘭丸の顔が少しだけ傾けられた。
「……おまえが望むなら、全部話したっていいと思ってる」
ゆっくり紡がれる言葉に、私は目を見開いた。
「……蘭丸、」
「おまえだけに背負わせんのはどう考えたって違うだろ。おれは、全部話して受け入れられなきゃそれでもいい」
真っ直ぐ向く視線に、瞳が揺れる。
「……蘭丸、大丈夫だから。私は芸能人じゃないんだし、何言われたって実害はないよ」
「名前、」
呼び止めるように呼ばれた名前と、それからその両目が真っ直ぐに私を捉えて離れない。
「おれはおまえが大事だ、大事にしてぇ。わかんだろ」
真剣な瞳はただ私だけに向いている。その瞳に渦を巻く熱を私だけに向けている。
風が、木の葉の先を揺らした。息を、静かに吐く。その息は震えていた。
「蘭丸、一回冷静になって」
逸らした視線を、上げる。蘭丸が眉を寄せた。
「蘭丸が今優先しなきゃならないのは歌で、アイドルだ。蘭丸にとって一番大事なものを冷静になって考えて」
見つめて言えば、蘭丸は眉間にシワを寄せて口を開く。
「どっちが一番とか考えたことねぇよ」
迷いのない口調でそう言う。
「そりゃどっちも取れるのが一番いいけど、選ばなきゃならなくなった時に蘭丸が選ぶべきなのは歌でしょ」
蘭丸が怪訝な顔をして私を見た。私は思わず視線を逸らす。
「蘭丸にとって歌がどういうものなのか少しは知ってるつもりだし、そんなに手をかけてくれなくったってどこへも行かないよ、ずっと傍にいたいと思ってる。私は……少しでも蘭丸が想ってくれてるならそれで充分だ」
口にする間、下を向いているせいで蘭丸の靴ばかり目に入った。
風が流れて髪を揺らした。日がもうすぐ全て沈む。少し冷えかけた風だった。
グッと顔を上げさせられる。蘭丸の片手が頬を押さえて持ち上げていた。
目の前に、蘭丸の顔がある。
「…………何が理由で、んな寂しいこと言うんだ」
呟くように落とされる言葉に、自分の瞳が揺れたのがわかった。
顔を背け手を振り払って逃れる。
が、腕を掴まれる。
「名前、」
私は背けた顔を土の地面に向けたまま、膜を張った瞳がゆらゆら揺れているのを堪えるのに精一杯だった。
「言わなきゃわかんねぇ、なあ、名前、」
蘭丸が、必死な顔で私の名前を呼ぶ。
蘭丸が、その瞬間の全てを私に向ける瞬間が、確かに嬉しくて、
苦しい。
私が顔を背けているからか、蘭丸がもう一方の腕も掴んだ。引っ張って、体が正面を向く。
片手を振り払った。後から掴まれた片手を。
蘭丸が目を見開いて、眉を寄せて私を見る。
瞼を閉じたら涙が溢れて、頬を伝って筋ができる前に俯く。頬に触れずに地面に落ちた。
震える息をゆっくり吐き出す。
「どうしたら……いいんだろう……」
震えた声は弱々しく宙に広がって、漂い続けた。
片手間でも愛してくれるならそれでいい。
しがみついてしまわないように、私も片手を埋めたのに。


蘭丸は電話をしていた。初めは出ないつもりだったようだが、暫く鳴り続けるのと、私が促したことにより電話を取ったのだった。
丸太で少し整えられただけの細い階段ももうすぐ終わる。公園に出るのでこれ以上一緒にいてもまずいだろう。
階段を降りたところで、蘭丸の電話が終わるのを待っていた。土の上にドングリが落ちていて、上を見上げるとカシの木が天を覆っていた。
頭を戻すと、蘭丸と目が合った。
蘭丸は電話に相槌を打ちながらも、私から目を逸らさない。
私は目を逸らそうとしたが、それより一瞬早く蘭丸の眉が歪められる。
思わずその視線の方向を振り向くと、側の駐車場に一台の車が停まっていた。中からカメラを構える男が見えた。運転席にもう1人乗っている。
しまった、こんなところ、見られたら。
離れようと足を動かすより早く、腕を掴まれた。
そのまま引っ張られて、足がコンクリートへ踏み出される。
「蘭丸っ、ちょっと、」
腕を引かれて、問答無用で駆けることになる。並木道を車と反対方向に走る。
「蘭丸、逆効果だってっ」
暫く止まっていた車は、距離ができるとエンジン音がした。撮られたに決まっている。腕を掴んで走り去る姿。
山の麓の公園に出て、その中を駆ける。
公園の各入り口には車両進入禁止のブロックが置かれている。公園の中を突っ切って反対の道へ出るのか。
日の沈んだ公園は人影はまばらだった。けれど誰もいないわけじゃない。
声を出すのは諦めて、ただ引かれるがまま走った。
「チッ、」
進入禁止ブロックの間に足を踏み出したところで、蘭丸が立ち止まったので思わず背にぶつかりそうになる。
前方には赤煉瓦色のビルが見えて、その交差点には信号。その信号待ちの中に先程の車があった。
「別れようっ」
「まだ走れるか?」
何も聞かずにまた腕が引っ張られて、信号待ちの交差点を前に左に道を行く。歩道を走る。日が沈んだ夕方の道を、ひた走る。犬の散歩をした飼い主とすれ違う。
「はあっ……もうじゃあ実家……店行くっ?」
息切れの合間に叫べば、
「わざわざ実家の場所バラしてどうすんだよっ」
と、まだ全然余裕そうな息遣いで返ってくる。
前方に見えるスーパーに視線を留めて、「人がいるか」などと蘭丸が呟く。
とりあえず角を曲がって、それから連続して何度か曲がる。
馴染みのあるよく知った道を、けれども考える余裕もない程のスピードで走る。手を引かれて。
薄い藍色の、日の落ちた夕暮れの街だ。
流れていく。腕を引かれて、灯り始める街灯と住宅の明かり、店の照明。
息も絶え絶えだ。目の前を走る背中の、輪郭にまだ微かに残る夕日の白い色が滲んで、揺れる。
俯くと、アスファルトに叩きつける自分の足が目に入る。握る手は、強い力で。
不意に、ギターケースが目に留まる。楽器屋から出てきたその男の前を通り過ぎたところで、あっと気がつく。
足を止めるとつんのめったように蘭丸が「うおっ」と声を上げた。
「店長!」
振り向いて叫べば、ギターケースの男はこっちを見て、それから「おお」と手を挙げたが、私の後ろの姿を見て目を見張る。
「おまっ……それっ」
「オイ、」と後ろから声がして腕を軽く引っ張られる。
その腕を引っ張り返して男のところまで戻った。
「車! 買ったっつってましたね、今ある!?」
「はあ? あるけど何事!?」
無理矢理迫って、スーパーの駐車場まで走って車に乗り込んだ。
車が駐車場を出るところで前をあの車が通って行くのが見えて、慌てて顔を下げた。
古ぼけた中古車は煙草の臭いが酷く染み付いている。
「しっかし蘭丸、久々だな。恩返しくらいしにきてくれよー」
前でハンドルを切る男の言葉に、後部座席で隣に座った蘭丸は「あ?」と声を上げた。
それから少し考えるような仕草をして、それから「ああ、」と口に出す。
「あんときのハコの……マジか」
「お前完全に忘れてたろ!」
はっははと男は笑う。バンド時代にライブをしていたライブハウスの店長だ。たまに実家の喫茶店にも立ち寄るので、私には馴染みがあった。
「いやしかし何だよ。やっぱりおまえらそういう関係なわけ?」
店長の言葉に私は整ってきた息の合間に、視線をそらす。
蘭丸は何も言わない私を見つめて、結局何も言わなかった。


「散らかってんな」
蘭丸はマットレスの上に置いてあった音楽雑誌を取って、その辺に置かれていた段ボールの上へと退けた。そしてマットレスに腰掛ける。
物置のような部屋だった。店長に連れられやって来たのはあのライブハウスで、バックヤードにある部屋の一つが空いているから使えと勧められたのだった。
普段飲んだ後に帰るのが面倒な時は、この部屋で寝泊まりしていると言い、物置部屋だが奥に分厚いマットレスが直置きされていてシーツも掛かっていた。
ボン、と軽いバネの音がして、蘭丸が自分の隣を叩く。
「…………」
私は部屋に入ったまま突っ立っていた足を進めて、蘭丸の隣に座った。
「……大丈夫なの」
「……まあ、何とかなんだろ」
あんな写真が出たら、もう風化は期待できない。火に油じゃないか。
「おまえと……もう少し話すいい口実が出来たしな」
蘭丸はゆっくり呟く。木板の床は少し埃被っている。私は自分の靴を見ていた。
蘭丸はそれから何も続けない。私も何も言わなかった。静けさが部屋の中に充満していて、漂っている。
隣で、口を開く息遣いがする。
「……音、聴こえるな」
扉の向こう側から、溢れかえる物や棚でも遮ぎりきれずに微かに、音が漏れ聞こえていた。
「……ん、ライブかな……」
静かに呟く。ずっと床を見ていた。
そっと触れた。膝の上にあった左手に、指が触れて、優しく掴んだかと思うと、間に、シーツの上に持っていく。
柔く握られた。二人の間の、シーツの上。
視線を落としたまま、瞳が揺れた。酷く、滲む。
暫くまた静かだった。沈黙が降りていた。柔く、ゆっくりと。
店も実家も忙しくはない。煙草をやめられないのもそういうことなのかもしれない。
手を埋めようと思った。伸ばしてしまわないように。けれどもあの時諦めたもの以上にのめり込めるものがないのはわかっていて、虚しさが付き纏う。
手が離れた。シーツの上の、繋がれていた手。
蘭丸がマットレスから腰を上げる。段ボールを一つ跨いで行き、何かを掴んで引っ張り上げる。
「は、すげぇ安物」
ボディに被った埃を丁寧に払うと、それを持って戻ってきた。マットに再び腰を下ろして、それを膝の上に乗せ構える。
爪弾いた弦の音が、ビーン、と鳴った。チューニングをするのか、その指がペグを回す。
ボン、ボン、ベン、ボン、と巻いては鳴らす音がする。
私はそれを眺めていた。
ボディのカーブを腿に乗せて、肘をボディ上部に乗せて、左手は弦を爪弾く。右手はネックの先のヘッドに添えられ、ペグを順番に調節していく。
ベン、と良い音が鳴って、一度何かフレーズじみたものが演奏される。左手の親指は弦を、右手はフィンガーボードを滑り、フレットを押さえる。
低く身体の底に震えるような音。
その手が紡いで響かせる。
それが彼だと思う。この姿が、黒崎蘭丸だと思う。
見つめていた目が、その目と合った。
大きな手が伸びて、私の首の後ろを掬って顔が重なる。
瞼を閉じた顔は私の唇と唇を重ねた。時間をかけて触れて、時間をかけて離れた。
睫毛の先が肌に触れそうな距離に、その顔がある。
瞬きもせずに、私を捉えている。
二人の間に重なる影の中で、その目ははっきりと色を持っていて。
「……嬉しいよ、本当に、死ぬ程」
口を開いた。その距離のまま、変わらない。
「蘭丸の言葉は……いつも嬉しい言葉ばかりだ……救われてる」
静かに、涙が頬に流れた。私はもう拭うこともしないで、ただそのままにした。薄暗い中で、音もなく涙がゆっくり落ちる。
「……でも蘭丸の……全部を私に向けたような言葉は、感情は……恐ろしいよ。蘭丸の……全てを求めてしまいそうになる……」
両手を、このまま空け続けていては、いつか両手を蘭丸に伸ばしてしまう気がした。両手を差し出されたら、両手で受け止めなければならなくなる。蘭丸には、そんな空きなどないのに。
アイドルの仕事も、音楽も、私は関われない所だ。もう、蘭丸のその部分と私が、重なることはないのだろう。
「蘭丸の手は……ベースを弾くためにあるんでしょ」
静かに言って、それからいい加減頬の涙を拭った。
ゆっくり、顔が離れていく。影が引いていく。
蘭丸の手は再びベースを構える。その横顔を見ながら、やっぱり一番様になる姿だと思った。
ベン、と音が鳴る。
「……おまえが、いなかったら今のおれはねぇ」
横顔の、伏せられていた目が、ゆっくりと上がる。そうして、こちらを向いて私を捉えた。
布擦れの音がした。目の前に、右手が差し出される。
蘭丸の視線は私に向いていた。それから、自分の差し出した手に下がる。
再び、上がった。
蘭丸の、ベースを弾く大きな手だ。
その手を見つめながら、私はゆっくり手を伸ばした。
触れて、重なる。柔く握られた。
そうして、ベースが床に立てかけられて。
もう一本、差し出される。
視界が揺れた。引いた涙が、また滲みそうだ。
蘭丸の目は、私を、私だけを捉えている。真っ直ぐに、見つめている。
「名前」
ゆっくり、一音一音を確かめるように、蘭丸の低い声が私の名を呼ぶ。
「おれは、いつだっておまえに、おれの全てを差し出してる」
蘭丸が、少し眉を歪めて、どこか必死さを滲ませて、口を開く。
「受け止めてくれんだろ、おまえなら」
涙が溢れて、もう止まらなかった。
胸がつっかえて、苦しくって、けれども熱く血を送り出す鼓動を感じる。
滲む視界で、指先が触れた。



数ヶ月は、そのスキャンダルはついて回ったが、それも気がつけばどこかへ行っていた。
方法なんてただ一つだと思った。おれがおれの思いを、歌に乗せてありったけ叫ぶことしかねぇと思った。
おれがおれであることの証明を、どれだけ“お前ら”を愛しているかの証明を、地道だが確かに続けていくことしかないと思った。小難しい策略なんかに頼らずに、ただ真っ直ぐに、真っ直ぐに。
ゲリラで開いたライブは準備までのゴタゴタが嘘のように大成功をして、気がついたらおれはステージの上で歌っている。
こんなに幸せな事はないだろうとぼんやり思った。
「ラーンラーン!! お疲れちゃん!」
いつものテンション割増の割増で、姿を見せるなり肩に腕を回してきた嶺二を顔をしかめて見る。
「痛ってぇな、てめぇ力加減考えやがれ」
嶺二は笑って体を離すと、そうだと手に持っていた紙袋を覗き込む。
「これアイアイとミューちゃんから差し入れ! 仕事で行けないからって預かってきてあげたよんっ」
「はあ? 藍はともかくカミュが!? ぜってぇ変なもんだろ貸せ」
紙袋をひったくって中身を取り出すと、どうやらこちらは藍からのようで様々な種類の大福がパックで入っていた。
「ランランはフルーツが好きだからフルーツの味多めだって! あとずんだも! 『ランマルの胃袋の実験のためにも多めに入れておいたよ』だってさ〜」
「アイツやるじゃねぇか」
後で礼を言っとかねぇと、と考える。
「んで? はいつのははんはほ」
「えっとね〜ってもう食べてるし!」
大福を口に入れながら聞けば嶺二が律儀に突っ込んで、それからもう一つの紙袋を開けた。
「わ〜ロールケーキだー! これこの前ミューちゃんが番組で紹介してたやつじゃない?」
「はあ? アイツがんなまともなモン寄越すわけねぇだろ」
一緒になってケーキ箱を覗き込めば、色取り取りの生地で巻かれた小さなロールケーキがいくつか入っている。
「マジかよ……どうなってんだ……」
「明日は雪かな?」
嶺二がふふふと笑って、それから少し瞼を閉じる。
「なんだかんだ、2人だって心配してたんじゃない?」
嶺二の言葉におれは口の中の大福を咀嚼して、飲み込む。
「……どうだかな」
「おっ、ランラン照れてる〜?」
「うるせえな、んでてめぇは?」
「もっちろん世界一美味しいお弁当だよ! 特別に唐揚げ多めで!」
嶺二がガサと手に持っていた袋を上に上げる。
ははっ、とライブの熱が冷めやらぬのか、おれは思わず少し笑っていた。
「うわっ! ランランのそんな笑顔初めて見た……!!」
「うるせぇよ、サンキューな」
「えええっ!? 明日はハリケーン!?」


「あっはは、はははっ」
名前は腹を抱えて笑った。おれも一緒になって笑ってしまった。
「おまえっ……先に言えよ」
「先に言ったらプレゼントじゃないじゃん」
ライブの打ち上げを終えてアパートに帰れば、部屋には似合わない綺麗な花があった。
そうしておれの手にも同じ花。
「ライブ成功おめでとうって渡そうと思ったのに……ははっ、蘭丸のそれはなんなの?」
ソイツは可笑しそうに笑って言う。おれは中に入って、テーブルの上のそれの隣にもう一つ並べた。
微妙に色が違っているが、ひらひらした花びらが、鉢からいくつも咲き溢れている。
鉢から手を離して姿勢を戻すと、傍に立っている名前と視線を合わせる。
「なあ、名前、」
「ん?」と名前は笑ったまま少し首を傾ける。
身体の横の手を手繰り寄せて握った。ちゃんと、両手を。
そのまま顔を寄せて、キスをする。
唇が柔く合わさって、静かに離れる。
「……おれと結婚してくれ」
至近距離の名前の顔は、暫くおれを見つめていて、それから数秒遅れで目が見開かれる。
「はっ?」
「そういう意味の、花だ」
ちらりとテーブルの上に横目を向けて、また戻す。目を見開いた名前は固まっている。
「籍は入れられねぇかもしれねぇ、式だってまともに挙げられるか怪しい。けど、なあ、」
握った手に、力を込める。
「一生、おれといることを約束してくれ」
ライブの熱が渦を巻いていて身体中を掻きまわす。そしてそれとは別のもう一つの熱も、たった一人の前でだけ渦を巻く溺れそうな程の熱も、全身を駆け巡ってそれが、おれの魂になって歌になるのだ。
顔を近づけて、額がこつと合わさった。間に影が落ちている。
「……蘭、丸……」
数センチもない距離で見据える。ただその目を、おれにだけ向く目を。
「…………はい」
掠れたような震えたような、緊張しきった声は初めて聞いたものだった。
おれは思わず笑って、そのまま口を寄せた。
チュ、と触れるだけのキスになる。
「……ありがとな。……ぜってぇ離さねぇ」
片手を外して首の裏に指で触れた。そのまま引き寄せてもう一度キスを。
さっきより長く重ねる。離れると名前がおれを見つめて、それから顔を崩して笑う。
ソイツの綺麗な指がおれの頬に伸びて、触れた。
引き寄せられて、また唇が合わさった。
幸福な日々をここに。
この花のもとに。


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