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逃亡デート/平吉

「そう言えばあんまり外で会ったことないね」
 吉田氏が暇つぶしに持ってきたらしい本のページを捲りながらぽつりと言った。確かにそうだなと思いつつ、肯定をしない僕は少しばかりひねくれている。「そうですか?」と言えば「そうだよ」と返ってくる。インク壷にペン先を浸した。
 ラッコ部長の背広をなぞりながら暫く途切れた会話を頭の中で繰り返していると、また吉田氏は先の話題を続けた。
「ここ以外で会ったの、平丸くんが持ち込みに来た時だけだよ」
 何が可笑しいのか喉の奥でくつくつと笑う。失礼な。
「打ち合わせはいつも君の部屋だからね。まあ別にいいんだけどさ」
 それにそうですか、と返したところでその話題は終わった。


×


「平丸くん、他の先生に迷惑掛けちゃだめだろ」
 亜城木くんの部屋からの帰り道、吉田氏は溜め息を吐きながら言った。僕はそれに形ばかりの謝罪をする。
 毎週のように"さがさないでください"と書き置きを残しアパートを出る僕を、吉田氏は必ず探しに来た。彼ならばそうするだろうと思い始めた行動は意外に楽しく、僕は立派な逃亡作家として妙な方向に成長していた。全く、喜ばしいことだ。しかし最近は僕の残した書き置きを吉田氏が見るより先に通報されるため、探しに来るというよりは迎えに来るという方がしっくりくるようになってしまったが。だからといってそれに不満はないけれど。
 吉田氏の隣をふらふらと歩きながら、彼の顔を見上げれば少し不機嫌そうな瞳とぶつかる。
「何?」
「怒ってます?」
「まあね」
 大袈裟に顔をしかめて見せる吉田氏は本当に怒っているようには見えなかったけれど、不機嫌であるのは確かだった。その理由が僕には解らず、彼は原稿があがるまで不機嫌なままだった。


××


 僕は水族館の巨大な水槽の前に立っていた。そこで熱帯魚がゆらゆらと流れる姿を見ていたら、何故か腹が減った。僕はふらふらと館内を歩き出した。
 吉田氏はここへ来るだろうか。
 それは今の僕にとっては空腹よりも大事なことだった。締め切りの二日前だし、原稿もまだ二ページ、ペン入れが終わっていない。机の上にはわざとらしくこの水族館のパンフレットを置いてきた。一緒に並べた書き置きは、"さがしにきてください"。
 イルカが円筒形になった水槽の中を楽しそうにぐるぐると廻る。それを見ていたらだんだんと目が回ってきた。空腹と相俟って具合が悪くなりそうだった僕はイルカから目を離した。その時後頭部に何かが当たり、僕は水槽に前頭部を強かにぶつけた。
「なにしてんの」
 なにしてんの、とはまた随分とご挨拶だと抗議の一つでもしてやりたかったが、振り返って見上げた吉田氏の顔が酷く間抜けであったからやめた。そのかわり、少し小馬鹿にしたような態度をとってお茶を濁す。
「イルカを見ていたんですよ、見て解りませんか」
「俺が聞きたいのはそういうことじゃない」
 濁らなかったお茶を逆に浴びせかけるようにぴしゃりと言い放った吉田氏の手は震えていた。それは怒りとはどこか違う感情によって震えているように見えた。次第に俯けてゆく彼の顔を覗き込みながら、ああ本当に間抜けだ、と思った。
 その瞬間、真の間抜けがどちらなのか、わかった気がした。
「……僕は、吉田氏があの部屋ではない場所で会いたいと言ったのだと思った」
「…………」
 手を伸ばして触れた頬は少し汗ばんでいてひんやりとした。
「でも、違ったんですね」
 平日の閑散とした館内には気にする他人の目などない。滑らせた指先が触れる唇は頬とは対照的にかさかさと乾いていた。僅かに寄った眉間の皺に嫌悪感は感じられない。
「吉田氏は、僕に会えるなら場所なんてどこでもいいんでしょう?」
「……ふん」
 やっと気付いたかと言わんばかりに鼻で笑うと、僕の手を振り払い踵を返す。出口へと向かって歩き出した吉田氏はきっと赤い顔をしているのだろう。
 そして照れ隠しに一言、こう言うのだ。
「「平丸くんがちゃんと原稿あげてくれるならね」」








20121113

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