この記憶は幾千より遠い



(ロイクラ前提クラトス過去話)


ぱしゃぱしゃと顔に降り注ぐ雨に、ゆっくりと目を開く。
瞬間、酷い頭痛に見舞われた。
世界は随分と朧気で、霞んでいる。
そろりと目だけで辺りを見回せば、今、自分が地面に倒れている事が解った。

そして、そんな自分から広がる赤。
空から降り続ける雨が、その赤に落ちて雫を散らした。

指一本も動かせない状況。
なぜ自分がここに倒れているのかも解らない。
ぽっかりと、目を覚ます以前までの記憶が欠落していた。

また遠退き始めた意識の中、ふと人影が目の前に浮かぶ。
顔も見えないその人が、何かを呟き手を差し伸べてきた。
ただ、わけもわからないまま、その手を掴もうと夢中に手を伸ばす。

「    ──……」

遠くから、少女の悲鳴が聞こえた気がした。





「それが、"私"の始まりだった」

呟く人はその端正な顔立ちを僅かに伏せる。
長い睫が白い頬に影を落とす様は、とても美しいものだった。
──すぐに、その顔はあげられたが。

「雨の中、血塗れの状態で倒れていたところを、とある貴族の少女に拾われ、一命をとりとめた私は"アウリオン"の姓を頂いた」

ちん、と男が手入れを終えた長剣を鞘へとおさめる。
ベッドのサイドテーブルに立て掛けられたそれは、無言の重圧を放っていた。

「ってことは、あんたの名前は本名じゃないってことか?」

風呂から上がったばかりの少年の髪は、未だに水気を帯びている。
男はそれをちらりと横目で見、静かに立ち上がった。
きしりと床の音を立てながら、男は少年の肩に掛かっていたタオルを手にして目の前の髪の水気を優しく拭っていく。

「いや、"クラトス"という名は本名であると思う」

「なんでだ?」

背後から髪を拭われる感触に目を細めながら問い掛ければ、男は形の良い眉を僅かに寄せた。

「……奴が、私をそう呼んだ」

「奴?」

「……極まれに、記憶を取り戻しそうになる時がある」

ちらりと頭を拭われながら男を見上げれば、その顔は渋められていた。
うん、と頷き、言葉の続きを待つ。

「その時私は酷い頭痛に襲われ、立っていることも儘ならなくなる」

「……」

「そして、それが急におさまったと思えば、顔の見えない人影が手を差し伸べてきて、こう言うのだ」

『おいで、クラトス──』

さらり。
拭い終えた髪を手ぐしで整えられながら、少年は「そっか、」と声を漏らす。
ざわりと視界の隅であるのはずもない金の色彩が揺れた気がした。

「どんな人だったんだろうな、その人」

髪を拭ってくれた礼に、男の子左瞼に唇を落としながら、少年は呟く。
そっと目を伏せた男は、ただ、静かに少年の唇を受け入れた。

「さあな。だが……、大切な人だったのだろうと、思う」

ぽつりと溢された言葉に、少年はくすりと笑んでそのアールグレイの髪に触れた。

「なんか妬けるなあ……。クラトスが俺以外を"大切"って言うなんて」

冗談を撒けば、男も同じ様にくすりと笑む。
そっくりなその表情に、少年は血の繋がりを見た。

「馬鹿なことを……。大切だと思わなかったものの方が少ない」

「嘘つけ、他人に興味ないくせに」

「嘘ではないさ。私を拾って下さったお嬢様や、その母君であるシルヴィア様、騎士として迎えて下さった陛下や騎士団のものたち……。今ではもう失われてしまったが、変わらず私の"大切"だ」

懐かしむような男の表情に、少年は少しだけ安心する。
以前、記憶を取り戻すことが怖いと言った男は、確かに過去を慈しんでいた。
全てが暗い闇であるわけではなかったのだ


そんな少年の心境も知らず、男は少年をひたと見据える。
どきりと目を見張った少年に、男は微かに微笑った。

「勿論、アンナやお前も、私の"大切"だがな、」

「それ、最高に可愛い」

「ふふ、」

確信犯め、と顔を赤く染めながら少年は男を抱きしめる。
あたたかな温もりに、そのまま男は目を閉じた。

さらりと髪に少年の指が差し込まれる。

『私は貴方の役に立ちたいのに……!』

『使用人としてでなく、兄の様な存在として、あの娘を守ってほしいの』

『過去なんて関係ねぇさ、俺はお前の剣の腕を見込んでる』

『団長には俺たちが付いてますから!』

瞼の裏に浮かぶいくつもの"大切"なものたちの姿。
それと同時に、いくつもの声が鼓膜を振るわせた気がした。

『おいで、クラトス──』

最後に浮かんだ。その顔は、相変わらず影になっていて見えなかったけれど。

四千年前に比べれば、記憶を取り戻すことへの恐怖もうすれていた。
今なら、取り戻しても良いのではと思う。
きっと闇ばかりではないと。
なぜならその人は、いつだって私を苦しみから救ってくれていたのだから。

「ありがとな、話してくれて」

「……ロイド?」

「少しでもあんたのことを知れて、嬉しかったぜ」

眼前に広がった太陽の様な少年の笑みに、男もつられて微笑う。

男の耳元で、『ありがとう、クラトス』と誰かが笑った。


この記憶は幾千より遠い
(失われた、いくつもの太陽)

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「地瀝青。」のノン様より頂きました! ロイクラ前提なクラトスの過去話です…!
お忙しい中、とっても素敵なお話を本当にありがとうございました!
大切にいたします!






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