夕立の日



ふと、雨の気配を感じた。
開け放たれた窓の向こう側から、それ特有の香りが漂ってくる。
部屋の中から見上げた空はやはり何処となく曇っているように見えて、急に降ってきてもらっては困ると立ち上がった。
入り込んでくる風の心地良さに目を細めながら、両の手で質素な造りの窓を閉める。
今日は冷え込むだろうかと、辺りを見渡しながら考えて―――不気味な程の静けさと物足りなさに、目を瞠った。
ああ、そういえば…まだ帰ってきて、いなかったのか。
詰まるような息苦しさに思わず自らの胸元を握る。そのまま、もう一度青さを残す空を仰ぎ見た。
夕立…なのだろうか。今にも雲に覆われてしまいそうなそれが、ひどく不安定なもののように見える。

どこへ行くと言っていただろう。
曖昧な記憶をひたすらに辿りながら、当てすらもないままに駆ける。
見計らったかのように降ってきた雨のその冷たさに溜息を吐けば、霧のような白色が寒さを示すかのように零れ落ちた。
何かに吸い込まれてゆくかのように消えるそれに、焦燥感は積もる。
「ロイ、ド……」
……思い出せない。
彼は、どこへ行くと言っていただろう。
本の内容ばかりに気を取られて、何も聞いていなかった。
それを今更後悔する。
「ろ、い…」
服に沁み込んでいく雨粒がひどく冷たい。
まるであの時のようだと――そう考えて、思わず立ち止まった。
昨日のことのように覚えている。
アンナを、……ロイドを、無くしたあの日。
あの時もこんな激しい雨の日だった。



「あー……ついてねえなぁ」
最悪のタイミングだとひとりごちながら、巨大な樹木の枝葉の下で空を仰ぎ見る。
降り止む気配の全く見せない雨に思わず溜息を零した。突き刺すような寒さに自らの片腕を強く擦る。
雲行きが怪しいことには気付いていたのだが、まさか自分がこんな所で足止めを食らうとは思ってもみなかった。
そうならないように今日は早めに帰してもらったというのに、これじゃまるで意味がない。
「早く止まねえかな…」
せめてもう少し小降りになってくれないかと何度目かも知れない溜息を零す。
流石にこの大雨の中を走り抜けるのは気が引けた。ただでさえこんなにも寒いのだ。そんなことをしたら確実に風邪を引くだろう。
それだけは嫌だ。
「……大丈夫かな、クラトス」
雨をしのいでくれている樹に背中を預け、頭上に広がる枝葉を見上げながら思う。
心配する必要はないと思うのだが、それでもやっぱり心配なものは心配だ。
だって、朝っぱらから本読み始めてたんだぜ、あいつ。しかも何処が楽しいのかさっぱり分かんない、辞書みたいな分厚いやつ。
俺が出かけるって声をかけた時もずーっと読んでた。あれ、絶対にまだ読み終わってないって。
今頃、部屋中水浸しなんじゃ…と、そこまで考えて、ロイドは再三の溜息を吐き出した。
早く帰りたいのに、雨は弱まる所か更に強くなっている。
「…さみー…」
吐いた息が真っ白に染まる。
指の先まで悴んで、寒さに体が震えてくる。
……こんな日は嫌いだ。寒いし、じっとしていなきゃいけないし。
それに、少しだけ―――どうしてか、寂しい。
「クラトス……」
会いたいな、と、無性にそう思った。
今すぐにでも会って、その顔を見たい。
「…走って帰るかな」
びしょ濡れは確実だろうけど、…まあ、大丈夫だ。多分。
枝葉の下からもう一度空を仰ぎ見、強まるばかりの雨に苦笑いを零す。
もしかしたら風邪引くかも、なんてことを何処か客観的に考えつつ、すうっと息を深く吸い込んで走り出した。
冷たい雨粒が一気に服に沁み込んでいく。本当に体調崩しそうだなあと、溜息を吐き出した、瞬間―――。
「―――ロイド!」
背後から、つい先ほどまで脳裏に浮かべていた人物の声がして――思わず立ち止まった。
何も考えられないままに振り向き、その瞬間視界に入り込んだ鳶色に目を見開く。
ぐいっと痛いぐらいに強く腕を引かれて、気付けば抱き締められていた。
「クラト…ス?」
ぐるぐると頭の中で疑問が巡る。
尋ねたいことが山積みになって、結局なにもかもが言葉にならない。
ただ、無言のままに抱きついてきたクラトスが、何かに怯えでもしているかのように震えるから。
何よりもまずそれをどうにかしてやりたくて、凍えたその身体をぐっと抱き返した。
「クラトス…」
大雨の中、男が二人して抱き合っているなんてひどく可笑しい光景だろうけれど。
どうせこんな日に外に出ようとする人なんていないだろうし、もう少しこのままでいい。
重たくなっていく身体すら気にならないくらいに、互いを互いで支え合って。
雨音に誘われるかのように湧き上がってくる寂しさをこうやって埋め合って。
――怖いと、感じなくなるまで。


しかしまあ、珍しいこともあるもんだ。
内心だけでそう呟き、ひっそりと口端をつりあげる。
だって、ちょっと冷たすぎるくらいにクールなあのクラトスが、だぜ?
あんな大雨の中を、俺を探すためだけに駆け回ってくれていたなんて。
買い物をするついでに迎えに行こうとしただけだ、なんて本人は言っていたけれど、俺には解る。
クラトスは俺のことを心配してくれたんだ。
「…何か面白いことでもあったのか?」
ばさばさという乾いた音が不意に止んで、少し訝しげに問いかけられる。
突然の声に驚いて顔を上げると、白いタオルを肩にかけて首を傾げているクラトスとばっちり目が合った。
いつの間に着替えたのだろうか、その全身はシンプルな黒色の寝間着に包まれている。
「いや。なんでもないよ」
そう笑って首を振り、突っ立っているクラトスに向けて手招きをする。
不思議そうな顔をしながらそれでも素直に近寄ってくる彼のその様子が、頬が緩みそうになるくらいに可愛い。
ぽふんと寝具の上に座っている俺のその隣に腰を下ろして、クラトスはまた首を傾げる。
無言のままじっとこちらを見上げる瞳に笑みを零し、風呂上りのその身体を抱き寄せた。
ぽかぽかの体温と共に、クラトスのいい香りがふんわり伝わってくる。
「クラトス」
「…何だ?」
「クラトス…」
だから何だと首を傾げるクラトスを無視し、抱き締める両腕に力を込める。
温まった彼の体には、さっきまでの凍り付きそうな冷たさはもうない。
「なんでもないよ」
ほんの少しだけ体を離し、笑いかけてから口付ける。
温かさにすっかり満ちた胸の内で、好きだよ、と呟きながら。





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