十一、【追懐の月】 








彼の日もそう、それは紅だった。



月光しか確かな灯りにならない真夜中。
静けさの中に微かに聞こえる砂利の音。


ジャリ、ジャリ、ジャリ、


ゆっくりと続く濁音。

こんな夜更けに寝所に近づく輩は一体何か。

物取りか、夜盗か ――


いつも枕元にある夜須千代を掴み取る。
音のする方へ滑り寄る。
歩く度に板張りの廊下が軋む。

気配は、裏口の方から。
勿論人のそれ。猫ではない。

相手の出方を見る。
音はしない。
動きもない。
おそらく入り口で止まっている。


息を止め、一気に間を詰めた。


その瞬間、扉が開いた。



「……ゆぅ、み、さん」




目に入ったのは、

血に濡れた男だった。








目が醒めた。
どうやら寝入ってしまったようだ。


「……夢か」


ゆっくりと、確かめるように紅は顔を上げ辺りを見回す。
周りに見えるのはいつも通りの殺風景な部屋。
調度品は必要最低限、色も形も質素で実用的。
座っているのは備え付けの硬い椅子。
今、紅は洛叉監史本部白鶯館に隣接する屯所で書類整理の途中だった。

本当は執務室で処理をしようとしたのだが、連日の寝不足と度重なる徹夜を頼光に咎められ追い返されてしまった。
仕方なくそれに従った紅だが、決裁が済んでいない書類だけはと何とか掴み取り屯所に帰って今に至る。

机に突っ伏していた身体を立て直し椅子に背筋を伸ばして座り直す。
今はきっちり着込まれていた漆黒の隊服ではなく濃紺の着流し。
簡略化されたそれでも乱れる事無くしっかり着込んでいるのが紅らしい。


(……あの時の夢なんざ視ねぇと思ったのになぁ)


少しばかり溜め息を吐いて頭に手をやった。



あれは夢であって夢ではない。
視たのは過去の事実。
それは一年前、二日月の淡い光が届く頃。

あの日は滅多にない一日中暇な日で、だから滅多にいない自宅にいて、夜もただ時間が過ぎるのを眺めていた。

その時にそれは訪れた。
真夜中の訪問者。
それは紅のゆするべ。
自宅へ直に来ることなどまず考えられない人物に驚く前に、その血塗れた姿に一瞬言葉を忘れた。

紅のゆするべは元を辿ればかつて将軍の御庭番衆まで務めた密偵の家柄。
そう易々と見つかることも、ましてや傷を負わせられるような連中でもない。

だが目の前の男は息も絶え絶えに血を滴らせて立っている。
紅が駆け寄る前に男は重力に従って倒れた。

手を伸ばし触れたその先には生暖かい液体と乾いてぱらぱら剥げ落ちる血の感触。
温度を感じるそれは腹の辺りを赤黒く濡らしている。
おそらく肝の蔵をやられている。これでは半刻すら保たない。
それでも腹を押さえ、喋るなときつく言い放つ。
しかし男は口を開いた。



夕美さん

貴女が追っているのは宗璃王

血のような紅い眼をしていました




助けを呼びに行く前に男は息を引き取った。





過去を思い出せば、死ぬまで鼓動を繰り返す循環器しか入っていない胸が痛む。

自分の前で人が死ぬのを見たのはあれが初めてではない。
でも、この遣る瀬ない気持ちばかりはどうしようもなかった。

何と夢見が悪いことだろう。
忘れることなどできるはずもないのに更に海馬が記憶を掘り起こす。
人ひとりの命を対価に得たその名。
陳腐な考えだが、一生忘れることはないだろう、と紅は思う。


また溜め息を一つ吐く。
多分もう眠れない。
もともと寝るつもりで寝たわけではないから、紅は徐ろに立ち上がった。


窓から空を見上げる。
黒一色の常闇。
そこに一点だけ輝く二日月。
あの日と同じ、空から下界を映し込む名鏡がそこに在る。


「厭な月だぜ」


その光が銀の髪を煌めかせる様を見ながら、紅は苦々しく呟いた。




「べーにーさんっ」


突然窓から声がした。
目をやれば窓からの侵入者・生田園衞第一分隊隊長が窓枠に足を掛けている。


「おい、園衞。そう呼ぶなって言ってんだろ。てめぇここ何処か分かってんのか?」

「屯所でアンタ専用の仮眠室でしょ?ちゃんと周りに誰もいないの確認してますから大丈夫です」


昼間の時のように眉間に皺を刻む紅に物応じせず窓から土足で上がり込む園衞。
ご丁寧にその場で木屑や埃を丹念に払って園衞は一言何でもないように告げた。


「出動ですよ」

「三分で出る」


直ぐ様紅は掛けてあった隊服を掴み取る。
同時に園衞は出口に向かって足早に去っていく。今度はちゃんと扉の方へ。



「── 場所は、円鵠楼です」



糸のように細い月の日は、良い事なんざありゃしない。

そう思えてならなかった。


【了】 


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