Act.02 本当の幸せ
精市から珍しく今日は休むと連絡があった。
『映子みたいに俺を苦しませないよね? アイツみたいに俺といるときに違う奴の名前なんか呼ばないよね? 俺とヤってるのに、他の奴の。なまえは違うだろ? ねえ、なまえ』
精市がそう言って泣いたのは昨日のこと。
よっぽど精神的にきてるんだろうか。結局昨日も一緒には帰らなかったし、精市の痛みをすべて受け止められたかどうかわからない。どうすれば、彼は幸せになるのか。幸せは本当にくるのか。最近はそんなことばかり考えてしまう。
でも、もっと心の奥深い場所での私は。精市に頼られることが嬉しくて、こんな関係でも彼のそばにもっといたいと強く思うようになっていた。なんてずるくて、わがままで、いじましい感情なんだろう。
『もう、壊したいよ』
だったら、壊しちゃえばいいじゃん、馬鹿。
幸せになって欲しい気持ちとは矛盾するその気持ちを抑えて、私は玄関を開けた。
◇
「みょうじはいるか?」
朝のホームルームがはじまる前に、珍しく真田が私を訪ねに教室に来た。
廊下側の女子たちはテニス部の来客に騒ぎ出したが、私はどうせ精市のことだろうと席を立つ。風紀委員の彼に見つからないよう、こっそりスカートの丈を直すのを忘れない。
「真田、どうしたの?」
「幸村から何か連絡は来ていないかと思ってな。体調が悪いんではないかと部員が心配している」
「ああ、精市なら今日はお休みだって。風邪気味らしいよ」
私はそれらしく言い訳をして、真田くんを落ち着かせた。本当は恋煩いです、なんて言うと、はり倒されるんだろうなとぼんやり思う。
「そうか、すまなかったな。……見舞いには行かないのか? 行くなら、幸村に『我々に無断で欠席するな』と伝えて欲しいのだが」
お見舞いか、まったく考えてなかった。
どうせ精市は仮病なんだろうけど、様子見に行った方がいいかな。真田くんに伝言も頼まれちゃったし。昨日のことも気になる。人のお見舞いなんて本当はどうしていいかわからないし、気まずいから本当はごめんだけど、精市なら話は別だ。
「お見舞い行こうかな。伝えとくよ」
ちょうどそのときチャイムが鳴ったので、真田は頼んだ、と短く言ってから教室に向かっていった。
もう私はすっかり精市の魔法にかかってしまっている。四六時中誰かが気になる、なんて今までなかったのに。
◇
放課後、私は最寄駅より一つ手前の駅で降りた。
幸い、私の最寄り駅と精市の最寄り駅は隣。おおよその地形もわかるし、簡単だが家も教えてもらった。コンビニで適当に買ったお菓子とか、ゼリーを持っていると本当にお見舞いに行く気分。
精市に教えられた通りの道順を歩くと、幸村の表札がかかっている家を見つけた。薄紫の花弁のついた花が出迎えてくれていて、ここに違いないと納得する。私はすぐに精市に電話をかけた。
「精市、ついたよ」
「今、家に誰もいないから、勝手に上がっていいよ。鍵開けといた」
……そんなこと言われても。
でも、精市の声がやけに辛そうだったから、私は電話を繋ぎながらも勝手に上がらせてもらうことにする。門を開けると左手にある小さな庭に花がいっぱい植えられていて、精市の家らしいと思った。
「俺の部屋は2階に上がって、一番奥の部屋だから」
「おじゃまします……」
「家に入ったら、鍵は閉めておいてね」
「うん」
私は恐る恐る目の前の階段を上る。
一番奥の部屋、ここかな。耳に電話をあてたまま、ノックをすると、精市の声が二重に聞こえた。
「いらっしゃい」
精市は窓の近くのベッドで半身だけ起こしてそう言った。口には大きなマスクがあてがわれている。
「なんでマスク?」
「ひどいな、どうせ俺が仮病だと思ってたんでしょ? でも、残念。本当に喉が痛いんだ」
「え、本当? のど飴とか持ってないし。買ってくればよかったね」
「いいよ、なまえが来てくれるだけで嬉しいんだ」
「はは、またまたー」
私は照れた顔を見せないように伏せた。そんな気を持たせるような冗談はやめてほしい。
机の上の写真を見る。芥子色のユニフォームを着た人達と大きな旗とカップを持っている精市。右下の日付によると、私たちが中二の頃だ。全国大会優勝二連覇は、純粋にすごいと思わざるを得ない。当時、どうでもいいと思っていたが身近に知り合いができると途端にそう思う。
精市の隣に写るどう考えても年相応でない顔の持ち主をみて、伝言のことを思い出した。
「真田が、休むときはテニス部の誰かに言えって言ってたよ」
「もう、メールがきたよ。蓮二からだったけど」
精市は携帯をこっちに向けながら言った。
「まあ、座りなよ」
私は促されるままに、床にぺたりと座りこんだ。落ち着かない。私は忙しく目線を動かす。
精市は相変わらず、窓の外を見てベッドに座っている。その窓から、庭が見えるんだろう。そう思ってから、私はまた視線を動かした。
「なまえ、今日は来てくれて本当にありがとう」
不意に精市が感謝の言葉をつぶやく。私はふとその言葉に嫌な予感がした。
「本当はずっと考えてたんだ。何のために俺は映子と付き合ってるんだろうって。不幸になるためなら、それは仁王が言うように止めた方がいいのかもしれないって」
「そうだね」
否定は出来ない。
「この関係はいつどんな終りがくるかわからない。もう嫌だとか壊したいって思うことも増えてくる。なまえに最初にしていた楽しい話ばかりじゃないから。もちろん、楽しいこともないわけじゃないけど」
「うん」
「でも、もう終わったよ」
そう言い精市は私の方に手を伸ばす。こっちにこい、という合図に見えて、私は精市の手を掴んでベッドに腰掛けた。
「もう、そんなこと。俺は考えなくていいんだ」
「どういう意味?」
精市は私の手をぎゅっと握りしめ、言葉を続けた。
「映子、妊娠したんだって」
「え?」
「だから、俺とはもう会わないってさ」
言葉を失くした。
思いがけない言葉に震えが止まらない。きっとその震えは精市にも伝わっている。
「なまえ」
「……何?」
精市は平気だというように微笑む。もしくは、私のこの震えを慰めているのかもしれない。そんなこと、しなきゃいけないのは私の方なのに。
「抱きしめても、いいかな?」
精市に返事をする前に私は精市を抱きしめた。
なんて私は無力で、何も彼にできることがないんだろう。なんて結末。どうして、こんな想いを精市がしなきゃいけないの。
私のこの関係に対する思いはずるい。でも、映子さんはもっとずるい。精市にこんな好きにさせておいて、もう会わないなんて。勝手すぎる。いらなくなったら捨てるように、精市を捨てるんだ。心があるのに。精市も絶対にそう思っているはずなのに、それを口にすることはない。
そういえば、精市は映子さんの愚痴をこぼしたことなんて昨日の1度しかないんだ。そんなに傷つけられても、いつか振り向いてくれるようにと懸命に明るい話ばっかりして。
「許せない。精市が許しても、私が許せないよ……!」
「本当に、バカだなあ。なまえは」
精市がしていた大きなマスクが少しずれていて、殴られたように青い頬がちらりと見えた。
このときはどうしてそんなものがあるのかなんて考えも出来ず、ただ私は映子さんへの嫉妬がつのっていったんだ。
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