Act01. 報われない恋愛
私は『好き』という感情を持ったことがない。
「おはよう、なまえ……ってうわ。どうしたの、それ?」
「またやられたの? 女殴るとかマジひくんだけど」
ギリギリ4限には間に合わず、教室いっぱいにいい匂いが立ち込めるお昼休み。
いつものメンバーに軽く挨拶を交わして、自分の席につく。食べてくるつもりだったお昼ごはんも結局食べ損ねたし、適当に机に突っ伏して昼休みを潰すつもりだったけど……どうやら心優しい友達は、そうさせてはくれないらしい。
それはそうだ。ジンジンと疼く頬の痣とたくさん貼った絆創膏が嫌でも目立つことぐらい私にはわかっていた。
「今日の特にひどくない? 大丈夫?」
「今度は何て言われたわけ?」
「別に。待ち合わせ、ちょっと遅れただけ」
「は? それだけでこれは、おかしいでしょ」
友達はいつもの通り、同情を込めた怒りの目で私を見ていた。もうこの目を見るのも何度目になるのだろう。
「今度こそ別れたよね?」
「えーっと……」
「もう、なまえってば。早く目ぇ覚ましなよ」
「そんな奴のどこが、そんなに好きなわけ?」
「別に好きじゃないけど」
ため息交じりにそう言った。
私は今、付き合っている彼氏から、いわゆるDV被害を受けている。
彼は立海大の2年生。その付属高校に通っている私は、彼に門で適当に声をかけられて、あっという間に、何も考えずにそのまま付き合うことになった。同じグループのメンバーには全員彼氏がいたし、別に好きじゃなかったけどいいかなって。はじめはそんな軽いノリだった。
でも、それは一ヶ月も経たないうちに後悔することとなった。彼は、ある日をさかいに私に暴力をふるうようになったのだ。
暴力の理由はほんのささいなことで。連絡にすぐ出ないとか、機嫌が悪いとか、子どもみたいなことが原因だ。しかし、それも積み重なってきて、学校に来れない日は大抵奴のせいになった。私自身も相当、気も滅入ってきたので、今日は遠まわしに別れを切り出してみたのだが、奴はこれまでにないくらい強い力で私を殴った。意識も一瞬なくなって、ああ死ぬんだと思った。でも、今こうして生きてるから、案外、人間ってしぶとい生き物なのかもしれない。
好き勝手話を進める友達も、ありがたいけど今は放っておいてほしい。私は鞄を持ち、席を立った。
「やっぱ今日、帰るわ」
好きでもなんでもない奴たった1人のせいで、こんなにも振り回されてるなんて。自分が本当に気持ち悪かった。
◇
教室を出るとき、すれ違いざまに仁王に声をかけられた。
仁王とはなかなか気が合う。お互い邪魔にならない、気を使わない相手だと思う。
よく周りからは『付き合ってるの?』とか『お似合い』なんて言われるけど、本当に仲のいい友達で、それ以上でもそれ以下の存在でもない。
「もう帰るんか?」
「うん」
「だったら、俺と1時間だけさぼらんか? 帰るんも、さぼるんも一緒じゃろ?」
「いいよ」
きっと仁王は私のこの怪我について聞きたいんだろう。なんだかんだ言って私のよき理解者である彼も、優しいから。
「ってわけじゃ。丸井、よろしく」
「おー」
丸井は気の抜けるような相槌を打って、私たちに軽く手を振った。
仁王に連れられてやってきた屋上は風がきつい。はためく自分の髪が傷を打って、痛いし、はっきり言って邪魔。目の前の仁王の尻尾がゆらゆらゆらゆら、猫のしっぽみたいに揺れている。
私たちは適当に隣り合わせで座った。フェンスにもたれた背中が冷えた。
「また怪我しとる。お前さんも懲りんな」
「うるさい」
「むしろなまえが怪我してない日の方が、非日常じゃな」
「はは」
その冗談、まったく笑えませんが。
「まあ、今日はお前さんにちょっとした相談。最近知ったことで、俺もびっくりするような話じゃったから、ぶっ飛んだ思考のなまえに相談するしかないと思っての」
「なにそれ」
「まあ、ええからええから」
少し笑いを含みながら言った仁王は急に真面目な顔で一呼吸おいてから、ぶっ飛んだ思考の持ち主らしい私に話をはじめた。
「俺の、友達の話じゃ」
仁王の話を要約すると、つまり。
友達の好きな人は、私たちよりも少し年上の女の人、らしい。そこまではよくある恋愛相談かと思ったが、驚くことに、その女の人には彼氏がいるらしい。ずっと長く付き合っていて、同棲中の、婚約までしてる、彼氏が。
でも、その仁王の友達とも”イけるところまでイっている”関係にあって。いわゆる浮気相手というより、その女の人からすれば、ちょっとした遊び。でも、その子は高校生なりにも、本気でその人のことを好きらしい。
「で。もし、なまえがソイツなら諦めるかと思って」
「ふーん」
私は空を仰いだ。世の中、本気でそんなに人を好きになったりする人もいるんだと、物珍しいものを見た気分だ。
仁王は、私が今の彼氏のことを、暴力をふるわれていても好きだと思っているから『ぶっ飛んでいる』と形容して、質問するんだろうけど、私は奴を好きだと思ったことがない。むしろ、今まで一度も好きな人なんか出来たこともない。
だから、きちんと答えられる自信が私にはなかった。でも、仁王の質問に対しての答えは簡単だ。
「私は報われない恋愛はしたくない。かな」
「なんじゃそれ。なまえが言うと説得力ないのう」
「はは、言えてる。でもさ、その子きっと後悔すると思う。だから、あんたから言ってやってよ。あるぶっ飛んだ頭の女の子の意見として、さ」
「ああ」
私は立ちあがった。相変わらず体中が痛むけど、さっきより気分的にマシだ。
私もそろそろこの報われない恋愛(とは恋愛感情のない私が言うことじゃないかもしれないけど)を止めよう。
次の恋愛はその子までいかないでも、本気で人を好きになってみたい。
「帰るんか?」
「うん」
「気ぃつけて。寄り道するんじゃなかよ」
「はは、お父さんみたい」
私は鞄を持って仁王に背を向けた。その友達の話を思い出しながら。
この不毛な恋をしている子はどんな子なんだろう。仁王の友達っていうくらいだから、うちの学校の子なのかな。もしかしてテニス部とか?
……あれ?
「仁王」
去り際、ぼんやり空を見上げていた仁王に声をかけた。
「これ、まさか、仁王の話ってオチじゃないよね?」
彼はただ静かに目を伏せて、首を振るだけだった。
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