Act.10 幸せに生きて


 私は歩み出す。終わりに向けて。

 コートを羽織っているのに異常な寒気がするのは、夜だからじゃない。

 封筒には姉が言っていた手切れ金とやらがはいっているのだろうと思う。その分厚さに価値なんてない。

 これを受け取って精市はどんな気分だったのかな。きっと今の私と同じか似たような気分だろう。しっかりと糊で貼られていたから、開けていないのだろうし、開ける必要も彼は見出せなかったに違いない。


 封筒を鞄にしまおうと鞄を開けると携帯が光っていた。

 家族からの何十件の着信に混ざって、仁王からも何件か着信を知らせている。私は仁王の話を中途半端なままで来てしまったのを思い出して彼に謝ろうと発信ボタンを押した。


「なまえ! お前、今どこにおるんじゃ!」
「今、精市の家の近く」
「すぐ行く!」
「待って。ねえ、仁王」
「なんじゃ!」


 仁王の弾む息が、風を切る音が電話口から聞こえる。私を探してくれていたんだろうか。酷いことしたな。

 私は今まであったことすべてを話してしまいたかった。でも、もう終わったことを仁王に言っても関係ない。


 私は、ぽつりぽつりと自分の考えを話しだす。完全に自己満足な独り言のように。


「私たちは子どもだから、人を愛したりできないのかな」
「よく聞こえん! なんじゃって!?」
「お姉ちゃんがそう言ってた。所詮、子どもの恋愛だって。私たちの恋が愛でないなら、私が精市に抱いていた気持ちはなんだったんだろうね。憧れとか、そんなんじゃないし、遊びでもない。真剣のつもりだったけど、そうじゃなかったのかな」
「……」
「仁王には言ってなかったよね? 私、ずっと『好き』って感情を持ったことがなかった。仁王は私が好きであのDV男と付き合ってると思ってただろうけど、それは違うよ。声かけられて好きじゃないまま付き合って、のちのち好きになれば、とか甘いこと考えてさ。好きになれなかったからそれを感じて暴力奮ったのかな?」
「それは……」


 言葉を濁す仁王に私はつぶやきを続ける。


「私は一生懸命好きになろうとしてたけど、実際あんまり興味なかったんだと思うの。でも、精市は」


 携帯を持つ手が震えてる。涙がアスファルトを濡らす。


「でも、精市は違う。いつまでもこの人が幸せであるならいいと思えたし、一日中ずっと精市のこと考えてた時だってあった。こんなに酷い裏切りにあっても、嫌いになれないんだ。私、精市が好きだよ。私の恋は精市だけ。……私って、本当に馬鹿みたい。笑ってくれていいよ」


 世界が終ってしまえばいいのに。涙で歪んだライラックの花弁を見つめて思う。


 深い沈黙があった。何十分にも思えた。仁王も私も何も言わずに、電話でつながっているだけ。沈黙を先に破ったのは仁王の一言だった。


「俺は、なまえが好きじゃ」


 仁王は荒い息をゆっくりと整えて、私に言う。


「俺も、お前以外に好きになった奴はおらん。真剣じゃ。じゃなきゃこんな夜中になまえを探しに行ったりせん。なまえ、もうすぐ幸村の家の……」
「ごめん!」


 私は電話の電源を押したあとそのままそのボタンを長押しして電源を切った。


 もういいんだ。どうせ終わりだから。仁王、本当にごめんなさい。ありがとう。明日の朝、学校の屋上から飛び降りて死んでしまおう。ねえ、これが私の精いっぱいの復讐だよ、精市。


 精市からの最後のプレゼントである花弁を封筒に入れようと、封筒の糊を強引にはがした。




 


 学校の門が開くまで、私は適当に過ごした。一睡も出来ていないし、化粧も酷いから、顔は見れたものじゃない。携帯は持っているだけで気になるから、途中で川に投げ捨てた。

 朝練にのこのこやってきた精市に私の死体が見つかればいい。そうすれば精市は一生私を忘れない。

 勝手ながら、封筒には宛名を精市へとした。これが遺書代わり。せめて、この封筒があなたにわたって、私を忘れぬまま幸せになりますように。

 仁王とよく話した屋上のフェンスを乗り越える。この校舎は5階建てで、落ちたら怪我では済まないだろう。涙は昨日出尽くして出ない。不思議と死ぬのが恐くない気がした。


「なまえ」


 急に名前を呼ばれて、私は後ろを振り返った。



「……精市」


 精市が私を見据えてフェンスの向こう側に立っていた。こちらと向こうはあの世とこの世のように思える。精市が立っている場所が生きる場所。私が立っている場所がこれから逝く場所。


「考えることは同じだね、俺たち」
「え?」
「死んでしまおうと思って来たんだけど、なまえが先客でいた」


 いつもどおり完璧に笑う彼に、私も笑う。最後の頬笑みが完璧かどうか自信ないな。

 精市が軽々とフェンスを乗り越えて、私のそばに座る。見届けてくれるってことかもしれない。私は鞄から封筒を取り出して、精市に突きつけた。


「開けてなかったでしょ? お姉ちゃんからの手切れ金」
「別にいらなかったから」
「開けて。それが私の遺書だよ」


 精市は怪訝そうに封を開ける。中には20万と白い紙とライラックの花弁が入っている。

 3つ折りの白い紙を精市が広げた。



『精市くんへ

精市くんと会ったのは、ちょうど去年の今頃だったね。精市くんは中三のときに病院で私を見たって言ったけど、覚えてなくてごめんなさい。一目惚れをしたと言って私に声をかけてきたときには驚いたよ。だって、妹と同じ年の男の子に好かれるなんて思っていなかったから。

精市くんは少しだけ、私の初恋の人に似ていました。精市くんにとっては私が初恋の人だけど、私はそんな価値のない人間です。浮気と呼ばれることをしていると、自分でもやり場のない罪悪感が生まれ、夫に酷いことをしているという意識の中、私は苦しかったです。きっと精市くんは私の倍以上苦しかったと思います。


だから、妊娠したなんて嘘をついてしまいました。こうしないと、きっと私は夫よりもあなたをとってしまう。勝手でわがままでずるい私を許してください。私が精市くんを好きでいたということは、紛れもなく事実で、あなたの想いを子どもだからと舐めていた私を許してほしいです。

次はこんなおばさんでもなく、私みたいにずるい女でもない。普通の女の子と恋をしてください。そして、どうか、幸せに生きてください。』



 精市が紙を濡らしたのをみて私は嬉しかった。どうやら、お姉ちゃんの想いは届いたらしい。

 最後の一行に二重線を入れたのは私だけど、その部分は私の想いも詰まっている。


 精市には幸せに“生きてほしい”。



「俺が見たかったのは、こんなんじゃない……!」


 淵に座る私の腕を掴んで、涙声で言う。もっと苦しみに歪む顔だよ、と付け加えるあたりが精市らしかった。


「もう終わったんだよ、精市」
「……こんなのっ、こんなの!」


 私は精市を背中をさすってやる。今までの嘘泣きだった精市の初めてみる泣き顔が可愛くて、笑みがこぼれた。


「今までごめん、なまえ。俺、生きなくちゃ。彼女の頼みなら、仕方ない、な」
「そうだよ。幸せにね」


 ライラックの花弁が風で飛んでいくのと、精市が私を抱きしめたのは同時だった。


「なまえも、死なないで、お願い」
「……」
「俺と、一緒に生きて。俺、幸せになる方法なんてわからないから、一人じゃ立っていられそうにもないんだ。もう君を二度と、傷つけたりしない。だから」
「……」
「死なないで」


 精市が必死に私にすがる。

 幸せの方法なんて私もしらないけど、苦しみを知った分、私達は強くなった。こんなにも苦しい初恋だったんだから、きっともう平気。並大抵のことじゃ、私もめげない。

 私は精市を一生懸命、精一杯、全身全霊をかけて幸せにしたい。


 それが死ぬことだと思ったけど、


「精市の頼みなら、仕方ないな」


 だって君は、私の初恋の人だから。









「なまえ、一緒に帰ろう」
「うん」


 精市が部活を引退して早くも1カ月が過ぎた。毎日一緒に帰る私達は、前よりいっそう立海の公認カップルとして存在している。でも、実際『死なないで』とは言われたが、『付き合って』と言われたわけじゃない。むしろカップルではない。


「帰りにどっか寄って行かない?」
「いいねー、行こ行こ!」


 仁王には心配してもらったことをきちんと詫び、告白に対してはきちんと断った。

 今ではすっかり前の関係に戻ってはいるが、最初はかなりへこんでいたらしい。丸井が言ってた。悪いことした。


 お姉ちゃんは幸い、軽い打撲で済み、お母さんに家をあけたことは怒られたもののそれ以外のお咎めは無し。私はもちろん精市とお姉ちゃんの関係は言わなかった。

 急に旦那さんの仕事の都合でニューヨークに引っ越してしまい、めったに会うことはないからわからないけど、仲良くやっていると聞く。


「あ、見て、なまえ。ウエディングドレスの撮影やってる」
「本当だ! 綺麗」


 お姉ちゃんの結婚式の写真を現像したお店で、ウエディングドレスの前撮りをやっている。

 私もいつの日か着るときが来るのかな。そのとき、隣を歩いてくれるのは、誰なんだろう。


「ああゆうのって、憧れたりするの? なまえでも」
「失礼な。私も女の子だよ」
「ふうん」


興味があるのかないのかよくわからない声で返事をする精市を無視して、花嫁さんの綺麗な笑顔に見惚れてしまった。それでも、お姉ちゃんのウエディングドレスには負けるかな。


「なまえが上手いこと数学を克服して、大学に行って、卒業できたら、俺が着せてあげるよ」
「は?」
「ウエディングドレス」


精市が意味不明なことを言う。


「意味わかんない」
「結婚しようって言ってるのに、随分な返事だね」
「は?」
「そういえば、海原祭のベストカップルコンテストで、優勝するとドレス着れるみたいだよ。参加してみる?」
「え?」
「楽しみだなあ、なまえのドレス。初恋の相手が結婚相手なんて、なまえは幸せ者だね。そのなまえの幸せな顔を見て俺は言うんだ。『幸せだよ』って」


 勝手に話を進める精市にストップをかける。



「なまえのお姉さんも見たがってたよ、なまえのウエディングドレス。だから俺が着せてあげる」


 出た、精市のパーフェクトスマイル。その顔で言われるともう付き合ってるとかそうじゃないとかどうでもよくなってくる。


「……じゃあ、ドレスは精市に着せてもらう予約しとくわ」
「幸せだね、俺達」
「そうだね」


 どんなに悲しい歌でも、表せられない程の経験をした私達にとってその会話は最高の幸せだと断言できる。


「幸せだね」



 私達は笑い合う。これからもずっと、幸せに生きることの誓いを立てて。


fin.


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