Act.09 これが私の初恋
他人のために誰かを憎んだり、嫌いになったりすることなんてなかった。他人に対して無頓着で、どうでもよくて、いつも一線を引いている。それが私だ。
誰かを嫌いになることもない代わり、好きになることもない。殴られても、痛いとしか思えない。憎めない。私はいつも、自分のことでさえ客観的に見えていた。
でも、今、ものすごく心が痛むのは、精市のことを何よりも大切にしたいからで、それはつまり好きって言うことなんだ。それももう計り知れないほどの大きい気持ちとして、風船のようにまだ膨らみ続けている。
これが私の初恋。今さら気付いても意味がないものなんだけど。
そんなことを思いながら、私は精市の家をあとにした。もうすっかり日は落ちている。けど、帰りたい気分じゃない私は、電車に乗って精市に初めて会った大きな駅で降りた。
ふらふらあの日のようにうろつく。あの日ここに来なければ、少しは変わっていたのだろうか。今となってはわからない。これがベストだったのか、そうでないのか。
「家出? それとも待ち合わせ、かな?」
うつむいてベンチに座っていると、知らない男に話しかけられた。私は何も答えずに、その人の革靴だけを見つめる。
「お金ないの? よかったら、ご飯食べながら話でも聞くよ」
私は人形のようにうつむき続ける。精市と映子さんのことを思う。映子さんにもし会ったら、私はぶん殴ってしまうかもしれない。
高校生だから、子どもだから、本気で愛せない、なんておかしい。だって、私はこんなにも精市を愛してる。
「ねえ、少しでいいからさ」
でも、考えれば考えるほど、私は部外者だ。精市のそばにいて支えようとか、そういう考えもおこがましいものだったのか。
ずっと黙っていると、誰かが私の腕を掴んで立たせた。さっきから話しかけてくるうるさい革靴の男かと思ったが違うらしい。
「こいつは、俺の女じゃき、他あたってくれんか」
仁王だった。
「で、でも」
「聞こえんかったか? どっか行けっていったんじゃ」
男はその一言にそそくさと逃げていく。仁王の目は氷のように冷たい。
どうしてこんなところにいるの。私が仁王にそう質問する前に、彼は私に冷たい目のまま言った。
「なまえに、話したいことがある」
「……」
「幸村の話じゃ」
ちょうどいいタイミングだ。私だって仁王に今日のことを話したい。仁王は、ずっと話さなくなってしまったし、きっと忠告を聞き入れなかったから、こんな私を呆れていると思う。でも、結局大見栄きったわりに、精市を支え切ることも出来なかった。
ダメな私。呆れて笑える。
「……精市の彼女、同棲してる彼氏の子ども妊娠したんだって」
「……」
「もう精市には会わないって」
伝えると、仁王は私の腕から手を離した。ほら、どうせ呆れてるんでしょ。
視線を合わせないまま私は言葉を続ける。
「結局私が精市にしてあげられたことなんて、限りなく0だよ。ごめんね、仁王の忠告聞けなかった。私にできることなんて最初からなかったのにね」
「なまえ」
「結局私に残ったのは、映子さんへの嫌悪と精市の本当の彼女になれなかったむなしさだけだよ。報われない恋愛なんかしたくないって言ってた奴が、はは、このザマ」
「なまえっ」
「本当。呆れてるよね?」
「なまえっ!」
私を呼ぶ声と同時に抱きしめられた。精市の匂いとは少し違うその匂いに、涙がでた。仁王の背中に腕を回すかどうか迷っているうちに、彼は小さな声で話しはじめる。
「今からお前に、真実を話す」
◇
駅から私は走っていた。仁王が言う真実を確かめるために。
仁王はまだ何かを言いかけていたけど、私にはそれどころじゃなかった。途中で何度か精市に電話をかけたけど、電源は入っていないらしい。爪が食い込むまで手を握り締める。
もう何が本当で、なにが嘘なのか、どれを信じればいいのかわからない。どれが正解で、どれが不正解なのか、苦手な数学よりも遥かに難しい。
仁王の言ってることなんてそんなの冗談なんだよね? そう言って笑って早く私を安心させてよ、ねえ精市。
玄関のドアを開けて『ただいま』も言わずにリビングへと急ぐ。嘘であれ、と呪文のように繰り返す。リビングにはお姉ちゃんが一人でいるだけだった。
「おかえり。どうかしたの? 母さんなら、今日は友達と映画に」
「お姉ちゃんが、精市の彼女なの?」
「え?」
その焦った顔は私に確信を与える。
「お姉ちゃん、妊娠してるの?」
「……」
「不倫、してるの……?」
思えば映子という名前は違うものの、お姉ちゃんも6つ年上だ。精市が楽しそうに話していた映子さんの特徴と合わなくもない。今まで気付かない私が馬鹿だったのか、仁王の嘘なのか。後者であればいいのに。本当に思う。
お姉ちゃんは私の問いかけに、一瞬間をおいてから、堪え切れないように。笑った。
ああ、そうか。私が、馬鹿だったんだね。
「精市くんから聞いたの? もう遅いのにね」
「……」
「全部そうよ、精市くんと不倫してたのは私。でも、それを言っても私の旦那もお母さんも信じないだろうけど」
「意味わかんない」
「所詮未成年の子どもの言うことなんて信用に値しないのよ。旦那の方が大切だから精市くんには誰にも言わない約束で手切れ金も渡したのに。まさかなまえに言うなんて。もしかして、最近精市くんが話してた『学校でのカモフラージュ用の彼女』ってなまえのことだったの? だったら、精市くんを慰めて本物の彼女にしてもらったら?」
血が流れるんじゃないかと思うほど手を固く握りしめる。尋常じゃないほどの怒りを、ほんのわずかな理性がくいとめている状態だった。
「ちょっと話しかけられて、私もいい気になってたのよ。精市くん可愛いし付き合ってる人がいるっていうのを了解のもとの関係だった。ちょっとした遊びに本気になられても、困るわ。たかが、子どもの恋愛でしょ」
お姉ちゃんが立ちあがって、キッチンに向かう。
精市の笑顔、震える肩、仁王の苦しそうな顔、お姉ちゃんの嘲笑うような顔、それらが交互に入れ替わって離れない。
じゃあ、精市がただ子どもだからって言うだけで、精市の気持ちは踏みにじってもいいの? それで私の初恋はどうなるの? やっと気付いたのに、報われないとはわかっていたけど、こんなの酷すぎる。望んでない。こんなのいらない。
私が思っていた初恋は、もっと甘くて、もっと違うの。ねえ、なんでこうなってしまったの?
コップに水を入れてリビングに戻ってきたお姉ちゃんは、立ったまま私に言う。
「そう言えば、この前報われない恋愛の話したよね?」
「……」
「見返りは求めないことが正解。精市くんもそう言ってたんだけどな」
お姉ちゃんが私に背を向けて笑ったとき、理性の細い糸が切れて、私はお姉ちゃんを突き飛ばす。
小さな悲鳴をあげてうずくまるお姉ちゃんを見て恐くなった私は、その辺にあった春物のコートを握り締めて、家を飛び出した。
◇
電車に乗らずに、走って精市の家へと急ぐ。化粧も髪もきっとぐしゃぐしゃで、でもそんなことを気にしていられる場合じゃない。
精市、ごめんなさい。私、妊娠してるお姉ちゃんを突き飛ばしてしまった。きっと会って話したって怒られるにきまってる。私の気持ちも理解されるものではないかもしれない。
でも、どうしても許せなかったんだ。私の初恋の人が傷つくのは、どうしても嫌だったんだ。
夕方来た道をもう一度たどると、家の前に精市が立ってた。まるで私を待っていたとでも言うように。
「精市」
「御苦労さま」
さっきまであったマスクはなく、頬には痛々しい青い痣があり、それを歪めて笑ってた。
「御苦労さま……?」
「これで俺の計画はほぼ終わりだよ。今までありがとう、なまえ」
計画?
「もう気付いてると思うけど、映子は君の姉のことだよ。ほら、少女Aとかあるじゃん? そんな感じで『A子』って言ってただけ。俺の目的は、俺の初恋を傷つけた君の姉を傷つけて、俺に許しを乞う彼女の顔が見たい、それだけ。君はその駒。まさかここまで上手くいくとは思ってなかったけど」
「なんで……」
「君に興味があったとか、君を好きになればよかったとか、俺は一瞬たりとも思ってないから。君が俺のことを好きになれば、本当のことがわかったときに家庭をめちゃくちゃにしてくれるかなって。妊娠したのは誤算だったけど、実際どうなった? お姉さんとは話したんでしょ?」
お姉ちゃんを突き飛ばした手が熱い。私はずっと利用されてたんだ。
精市をにらむ。そんなこと、もうなんの意味もないのに。
世界一みじめな気分だ。好きな人と姉が出来ていて、その好きな人のために姉を傷つけて、姉の体には赤ちゃんもいたのに、結局都合のいいように使われていただけだった。
仁王は何度も警告してくれていたのに。後悔しか今は残っていない。
精市の家の庭から紫の花弁が降る。
「ライラックって言うんだ。この花」
「……」
「花言葉は『初恋の痛み』。僕らにぴったりだよね?」
精市は私の肩に乗った花弁と封筒を私に渡すと、背を向けて家へと入って行った。
これが私の初恋だった。
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