04

「なまえちゃん、これからいっしょにピアノがんばろうね」

 親友だったあの子は、ピアノ教室の帰り道に私にそう言って手を握ってくれた。優しくて暖かみのある手で、太陽みたいだと思った。

 小さい頃から私は不器用で、本当は友達が欲しいのに自分から話しかけられない子だった。なんとなく自分に自信がなくて、私なんかと話してもつまらないんじゃないかと思っていたのだ。そんな私を見つけて、励ましてくれたあの子の存在が、私を救ってくれた。

 ピアノもあの子のために頑張った。頑張ろうねって言ってくれたから、頑張らなくちゃいけないと思った。頑張れば頑張った分だけ、私のことを大事にしてくれると思った。


「私、中学は立海に行こうかなと思って」


 だから、小学校を卒業するときに言われたその一言は、とても考えられなかった。同じ地区の同じ公立の中学に通うはずだとばかり思っていたからだ。

 ピアノ教室も中学入学を境にその子は辞めてしまい、途端に私はまた一人ぼっちになった。でも、いいんだ。高校は立海を受けて、またあの子と会うんだ。そう意気込んで『がんばろう』と言ってくれたピアノだけでなく、勉強も頑張った。自分はあの子に近付いていると思っていた。


 入学式の日、立海の校章が誇らしかった。私もようやくあの子の傍にいられるんだと思うと、幸せの絶頂。ピアノはまだやっているのだろうか。褒めてくれるだろうか。また、私のことを大事な友達として接してくれるだろうか。手を、握ってくれるだろうか。

 学校で見かけたあの子に、声をかけた。



「ねえ、私のこと覚えてる? 高校は立海受験したんだ。ねえ、ピアノはまだやってる? 私ね……」

「誰?」

「ほら、みょうじなまえだよ。小学校の頃、ピアノ教室が一緒だったでしょう?」

「ああ。ってか、気持ち悪いんだけど。ストーカー?」

「え……?」

「ピアノ教室であんたが目障りだったからわざわざ離れるために中学受験したのに。わかんなかったの? ちょっと私よりピアノ上手いからって調子のってさ、人のこと下に見て、気分よかったでしょ? またバカにしにきたわけ?」

「そんなこと……だって、あのとき一緒に頑張ろうって……」


「あんたのそういう無神経なところが、ほんと昔から大っきらい」


 その日から、ピアノを弾くことに対する意識が変わった。誰かのためでも、自分のためでもない。こんなの、最初からどうでもいい暇つぶしの道具だった。


 友達がいなくなった今、いつ死んでもいいと思うようになった。だから、世界に終わりが来ると聞いた時、私はとてもほっとしたんだ。こんな世界、今すぐにでもなくなっちゃえばいいのにって、ずっとずっと思ってたから。






「誰かのために、ピアノなんて弾けない」


 ようやく出た声は震えて、擦れていた。ピアノなんてもう弾けなくなったんだ。

 柳生くんは私のことを置いて壇上から降り、グランドピアノの前に立った。そして蓋を開けて鍵盤を叩く。レの音が会場に響いた。そして、順番にたどたどしい片手で、音を奏でていく。それは歪ながら、私達が歌うはずだった卒業ソングだということがわかった。


 あの大空をかける 白い翼


 私も恐る恐る壇上から降りて、彼の傍に近付いた。しばらくそのおぼつかない手を見ていると、bメロに入る頃には完全に演奏は止んでしまう。


「次からがわからないんです」
「次?」
「夢を、からの部分なんですが」


 音を探すように一音ずつ鍵盤を叩いている彼に、私は右手を添えてソの音に持っていく。その卒業ソングの楽譜なら、しっかりと頭に入っていた。

 彼は鍵盤から手を離し、私にその席を譲ってくれた。ただ断ることも出来ずピアノの前に座ってみたものの、指が震えている。誰かのために弾く、という行為は久しぶりで恐怖以外のなにものでもない。

 だが、今度は柳生くんが私の右手に手を重ねてくれた。大丈夫、怖くなんてない。そう言われている気がした。


「みょうじさん。どうか私の、我が儘な願いを聞き入れてください」


 震えが収まるしばらくの間だけ、彼に手を握ってもらっていた。暖かくて、太陽のような手だった。

 やがて震えも止まると、馴染んだ鍵盤の感覚を取り戻すように弾いた。明日、みんなで合唱するはずだった歌を、心の中で大声で歌った。一際盛り上がるパート分けの部分で、感極まって涙が溢れてしまう。でも、滲んだ視界でも一音も間違えなかったのは、まぎれもなく、今まであの子のためにピアノを練習してきた成果だ。

 ピアノが歌っている。世界で最期の歌を歌っている。




 最後の一音を終えた後、手の甲で荒々しく涙を拭う。


「私、なんで泣いてるんだろう? ごめんね、柳生く」


 すべてを言い終える前に、座ったままできつく抱き締められた。あまりに突然で恥ずかしく、しかも、男の子にそうされるのは初めてでどうすればいいかわからない。ただ、彼の匂いを嗅いでいると安心して、暖かくて、心地いい。頭を撫でてもらいながら、私は今日まで死ぬのを躊躇ってよかったと、はじめて思った。

 この世界でもっと生きていたい。明日で終わりなんて、嫌だ。

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