03
3年間ずっとお世話になった体育館は、明日行われるはずだった卒業式の準備のまま放置されていた。まるで一週間前のあの日から時だけが止まってしまったように。
壇上には校章の入った旗が掲げられ、それに向き合うように生徒用のパイプ椅子が立ち並んでいる。土ぼこりを防止するためのシートがかかった床を柳生くんは一人、土足で歩いていく。一方、私はこの光景を目に焼き付けるように辺りをくまなく見渡していた。
どことなく、神聖な感じがした。いつもの練習だったら、絶対こんな風に感じたりしないはずなのに。
「みょうじさん、どうかしましたか?」
「……ううん、別に」
声をかけられて我に返り、そのまま彼のそばまで駆け寄っていった。ドーム状になっている体育館に、私の足音が響いた。
柳生くんは自分が座る予定になっていた場所に腰を下ろす。本当なら私は彼の席から少し離れていたのだが、遠くに座るのも気まずくて、一つ席をあけた右隣に座った。両膝の上に置いた手が妙に汗ばんでいる。
前の席に人がいないだけで、立海の校章はいつもよりも大きく、はっきりと見えた。3年前、高校から立海に入学した私には、あの校章を身につけていられることが何よりも誇りだった。
「開式の辞、からでしたよね」
「うん」
無駄になるとわかっているはずなのに、彼は本当に二人だけで卒業式の練習を始める気らしい。柳生くんはその場にすっと立ち上がり大きく息を吸って声を張った。
「ただいまより、立海大付属高校の卒業式を始めます! 一同、起立!」
あっけに取られた。まるで何度も練習していたかのような通る声と違わぬ言葉だったからだ。
そうして驚いているうちに柳生くんは横目で私の方を見る。
「みょうじさん、起立ですよ」
「え、ああ……はい」
気迫に押されて立ち上がる。いもしない校長や教員や、クラスメイトも一緒に立ち上がっている姿が思い浮かんだ。
校章が光に照らされて、輝いている。期待に胸が高鳴った入学式を思い出す。
「礼!」
右隣の柳生くんの礼とともに、私も壇上に深々と頭を下げた。いつもの練習より厳かな気分だった。背筋もしゃんと伸びて、自分の人生で最後の礼になるのではないかと、そんなことを思った。
次の行程はたしか『卒業証書の授与』だ。私がそのことを伝えると、柳生くんはそっと手を差し伸べる。手を取れ、という意味だとはわかったが、その本質的な意味はわからない。ただ細い指をした彼の手に触れるのは少し、怖かった。なぜなら、私はいつも誰かに否定されたり、拒絶されたりするからだ。
『なまえちゃん、これからいっしょにピアノがんばろうね』
幼い頃、そう言って手を繋いでくれたあの子だって、結局は私のことを……。
「みょうじさん」
再び我に返り、彼の顔を見ると、そんな私を見透かしたように優しく微笑んでいる。
「何も怖くありません。約束します。だからーー」
こっちへおいで。その言葉の魔力は私を信じさせるには充分すぎた。
柳生くんは壇上に私をあげてくれた。校章の入った旗の前、校長先生が立つ大きな台には卒業生全員分の証書がおいてあり、彼はその中から誰かのを探し出す。あった、と声をあげて一枚引き抜いたものに、私の名前があった。
「みょうじなまえさん」
「あ、はいっ」
「あなたは本学で所定の過程をおさめたので、これを証します」
柳生くんから両手で受け取って、軽くお辞儀をした。生成り色の証書には立海の名が刻まれている。3年間で経験した、いいことも悪いことも、認められたような気になる。
私はそれを傍において、卒業証書の束をあさった。柳生くんにも同じように、卒業証書をあげたかった。
「柳生比呂士くん」
「はい」
「卒業おめでとう」
「ありがとうございます」
眼鏡をあげて照れくさそうにする柳生くんに、心から拍手を送る。ああ、私達、地球が終わる前にちゃんと本当の意味で卒業したんだね。
「ねえ、柳生くん。私、この一週間で何度死にたいと思ったかわからない。でも結局出来ずに今日まで生きながらえてしまった」
「……」
「だから今日、本当は自殺しようと思って学校に来た。私なりの卒業の仕方はそれしかないと思ってた。でも、柳生くんがいたから、私はこうして君と卒業式を迎えられたんだね。本当にありがとう。地球が終わる前よりももっと前から、柳生くんと仲良くできていたらよかったのにね」
柳生くんは何も言ってくれなかった。ただ、私と目も合わさず、会場を見下ろしている。不思議に思って彼の視線を辿れば、その先には黒のグランドピアノがあった。
「みょうじさん、ピアノを」
「え?」
「私のためにピアノを弾いていただけませんか」
私はいろんなことを思い出して、しばらく何も言えなかった。
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