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 平静を装いながらも、自分の顔に熱が集まっているのはわかっていた。誰もいないと思って、バカみたいに卒業ソングなど歌っていたからだ。私はクラスでも目立つほうではないし、ましてや歌の練習のときなど声を出しているふりで済ませていたというのに。

 それを指摘されたくなくて、うつむきがちに自分の席に座る。不格好にも、何もなかったかのように振る舞うしかできないでいる。

 着席する前に、盗み見た彼の足元は土足だった。


「みょうじさん、今日はどうして」


 今度はきちんと私の耳までその声は届いた。どうしてこんな日に学校へ。そう問いたいのだろう。悪いがその質問は、そっくりそのまま彼に返したい。

 私は振り返ることなく、言葉を発した。誰かと話すのは久しぶりだった。


「別に。卒業式の予行練習の日だったから、来た」
「そうですか」
「まあ、最初から練習なんてないってわかってたけど」


 そう続けると、彼からの返事はなかった。思えば柳生比呂士と話すのは同じクラスながらこれがはじめてだった。きっと世界の終末でなければ、卒業してからも一言も交わすことなく終わっていたことだろう。これも何かの奇縁だと思った。


「そう言う柳生くんは」
「私も同じようなものです」
「そっか」


 背後で彼が小説のページをめくる音が聞こえる。遠くでは救急車のサイレンが鳴っている。

 地球最期の日が発表されてから、人々はどんどんおかしくなった。どんなに凶悪な事件を起こしても、法で裁かれるのは地球が終わってからだ。そうずる賢く計算して犯罪に及ぶ人が増えた。そして、自殺も。地球の巻き添えで死ぬのは嫌だと思う人達が、一足先に自ら世界を終わらせた結果だと思う。一部報道では、この一週間での日本の自殺者は半年間の自殺者数とほぼ同じだと報じている。

 私だって、その選択肢をまったく考えなかったわけではない。立海に入学してから"あること"をきっかけに、ずっと心を開ける人がいないことに悩んでいた。自分なんて価値がない、いつ死んでもいい。でも、巻き添えで死ぬなんてごめんだ。そうした我が儘を持ち合わせながら踏み切れなかったのは、結局、私の心が弱いからだった。

 だから今日は、そんな自分と世界に"卒業"に来たのだ。



 世界はカオス状態のはずなのに、相変わらずこの教室はとても静かだった。まるで外界のことなんて素知らぬ顔をして、この部屋だけが切り離されているみたいだ。柳生くんがページをめくる音は、ここ一週間で聞いた音の中で一番平和な音だとぼんやり思う。


「明日で地球が終わりますね」


 突然、彼が思い出したように言った。なんでもないようなことを話す口ぶりだった。


「そうだね」
「隕石の規模は数百キロにおよび、衝突場所は不明。たとえ生き残れたとしても、紀元前に恐竜絶滅の原因になったバプティスティナ隕石の衝突のように、巻き上げられた粉塵によって太陽光は遮られ、世界に長期間の冬が来ると予想されているとか」
「氷河期がくるってこと?」
「ええ。おそらく」


 また、ページをめくる音。恐ろしい話をしているはずなのに、その音はあまりにも日常的で、優しい。


「寒いのは嫌だな。せっかく、ここ最近暖かくなってきたのにね」
「桜の蕾も膨らんでいますし、私達が立海大に入る頃にはきっと満開だったでしょう。見られないことがとても残念ですね」
「そうだね」


 沈黙。時折、紙と指がこすれる音。

 私は目を開けたまま、横向きに顔を机に伏せた。はらりと顔にかかる自分の髪の隙間から窓の向こうを覗き見る。無数に蕾をつけたのにも関わらず枯れるのを待つ桜の木と、見慣れた街からいくつも立ち上る黒煙。近付くサイレンの音。まるで地獄の中に咲く桜の木だった。

 猛烈に世界を呪った。人間の醜さが凝縮されたような世界だ。こんなに自然は美しく咲こうとしているのに、人間は目先の終末に怯えて、汚ない。昨日まで善人だった人も、すぐに裏切るのだ。


「早く隕石が来ればいいのに」


 そうだ、早く終わりにして欲しい。生きているのはもうたくさんだ。

 柳生くんには絶対に聞こえないように注意しながら不謹慎な言葉を口走ると、途方もない寂寥が津波のように押し寄せてきた。視界が滲み、雫がこめかみを伝って落ちていく。とても熱い雫で、私は今ここに生きていることを実感した。


 椅子を引いた音がした後、彼が近寄ってくる気配があった。突然のことに驚いていると、半ば強引に腕を引かれる。まさかさっきの不謹慎な独り言を聞かれていたのだろうか。どうしても顔は見られたくないから、うつむいたままで赤い目を隠すのに必死になる。


「みょうじさん、そろそろ卒業式の予行練習に行きましょうか」
「え?」
「だって、貴女はそのために来たんでしょう?」


 ね、と同調を誘う彼は私の腕を取ったまま、無理矢理立ち上がらせた。そして、本も鞄も窓もそのままの状態で片付けることなく、卒業式の会場である体育館へと彼は私を連れて駆け出した。

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