08,
それから毎日、俺らは中庭のベンチで落ち合った。みょうじさんがお昼ご飯の時間や帰宅時間、少ししかない休憩時間にもわざわざ時間を割いて会いにきてくれた。雨の日は俺が内科の病棟まで行って、たわいもない話をした。
60年前の彼女よりも落ち着いた性格らしいということ。流行には疎いということ。家族想いやということ。最初は彼女と同じ部分を見つけるたびに一喜一憂していた俺が、みょうじさんのことを知れば知るほど、彼女とは違う人間やとわかって逆に清々しくなった。ずっと昔に止まってしまった人生をみょうじさんと再びやり直したい。そんな願望さえ浮かんだ。
しかし、同時に罪悪感を抱いている自分もおった。あいつがどうなったかも知らんで、延命治療を受けさせるために最善を尽くしましたハイ終わり、みたいな。そういう考えになってる俺がおったのも事実やったからや。そんなんじゃ、あいつに顔向けできへん。だから俺は、みょうじさんの前とそれ以外のときで、別人のように振る舞いを変えることにした。みょうじさんの前におる俺はニセモノで、あいつへの自己嫌悪の塊みたいなんがホンモノの俺なんやって、毎日、言い聞かせていた。
◇
ある日、病院の屋上に行ってみようという話になった。そこから見える夕日が綺麗らしい、とみょうじさんは言う。目が覚めてからもう半年以上が経過していたのに、俺は一度も屋上にのぼったことがない。せやから、二つ返事でその誘いを了承した。
みょうじさんはその日、いつもより寂しそうな顔をしていた。その意味がよくわからず、何も聞けない俺にまでその寂しさは移った。
屋上はフェンスで囲まれながら、高さのある病院のために視界は開けとった。俺らは何も話さず、じっとオレンジ色に輝きながら沈む夕日を見る。ふと手に冷たい指先がふれた。凍ってるんかと思うくらい冷たくて、それがみょうじさんのもんやとわかると急に不安になる。眠ったままのあいつを思い出す。けど、それを握る勇気はなかった。
「今日で実習が終わるんです」
「……ああ、それで」
それで、そんな寂しそうやったんか。ようやく合点がいって、俺も寂しくなる。
「だから、今日は私のいちばんの宝物を持ってきたんです。私が看護師を目指す、きっかけになったもの」
宝物。そう言うて、みょうじさんはごそごそとバックの中をあさりはじめた。そして、黒ずんだ小さな箱を取り出す。最初は見ているだけやったけど、その小箱に対する不思議な見覚えの源泉を辿れば、全身が裂けてしまうんちゃうかと思うほど強い衝撃が走った。
「この指輪は、祖母が若い頃、入院していたときに当時の彼がくれたものらしいんです。祖母はわけあって長い間植物状態で、その間に贈ってくれたものだって。目が覚めてからお礼が言いたかったけど、見切りをつけられたのか二度と現れなかったって」
「…………そ、んな…」
「その後、違う人と結婚して私の母を産みましたが、ずっと指輪をくれた彼のことを気にかけていました」
「け、っこん……?」
「はい。その人とは結局、添い遂げられずみたいで…。きっと、待っていられなくなったんじゃないですかね? 祖母はせっかちなところがあったから」
みょうじさんは懐かしむように指輪を取り出して俺に見せてくれた。間違いようがなかった。あの日、俺がよく知りもしないブランドの店で選んだ、9号のプラチナリング。内側には、俺の名前がしっかりとアルファベットで刻まれている。
「指輪に『hikaru』て刻まれてて、最初、財前さんのお名前を聞いたとき、偶然でびっくりしたんですよ!」
楽しそうに言うその顔が、あいつとそっくりなんは当たり前やった。みょうじさんは、彼女の孫。つまり、血縁関係があるんやから。
何もかも裏切られたと思った。俺はあいつの目が覚めるのをずっと待ち続けて、必死で、死ぬ思いで働いて生きながらえさせて、自分の60年という途方もない時間を売ってまで延命措置を続けて。どうしようもない焦燥と孤独の中に身を置いていたのに。あいつは俺を待つことに飽きてさっさと結婚して、子どもまで産んで……俺を置いて、この世を去った……? ふざけんなよ。こんな裏切り方、あんまりやろ!
涙が止められへんかった。こんなことになってるやなんて、思ってなかった。
返せよ、俺の、俺の60年……!聞こえてるんやろうが!なあ、神様!
「……どうされたんですか?」
「クソッ!!」
傍のフェンスを蹴り上げる。指輪をみょうじさんに押し付けるように返して、俺は走った。行く宛てはなかった。街も、人も、何もかも、60年で変わってしまったことがあまりにも多かった。
[back]
[top]