07,
いつも通りに中庭のベンチで、ジュースを片手に座っていた。そうして日ごとに生彩を欠いていくような生活には慣れたはずやのに、いつまた彼女に似たみょうじさんが中庭に来るのか、そればっかりアホみたいに考えてしまう。別の人やって頭ではわかってるのに、待ち続けてしまう。
それだけが今を生きてる意味みたいに思えた。言うなれば、みょうじさんは俺の前に突然現れた、是が非でも失いたくない光みたいな存在やった。
「少しだけ、隣いいですか?」
再び話す日はその週の土曜の夕方、案外すぐに訪れた。
みょうじさんは同じように缶ジュースを持って、俺の右隣を指差す。今日はナース服でもなく髪もまとめてへんかったから、パッと見ただけでオフの日なんやとわかった。どうやら土曜日は看護学校は休みらしい。前よりもラフな姿が、より二人を重ねて見てしまったことなんて、たぶんみょうじさんは一生知らんのやろうなと思う。
質問に頷いて少し左にずれた。ありがとう、と短く言うて、空けた右側に少し間をあけて座る。ジュースをひとくち飲んだ。
「今日はお休みなんですけど、患者さんが心配で。あ、ほら。この前のおじいさん、今日が手術日だったんです」
「そうなんや」
「そういえば、私、前に名前を聞きそびれましたよね。お名前は?」
「財前…光です……」
「光?」
みょうじさんは何度か俺の名前を、しっくりこないような感じで呟いていた。その姿がめちゃくちゃ不自然で、みょうじさんはやっぱり彼女で、忘れてしまった俺のことを必死に思い出そうとしてるんちゃうかと思った。もしそうなら、言うてしまいたかった。俺は60年前、お前のために眠った財前光や、って。
でも、それはただの深読みやったらしく、何度か呼ぶうちに納得したように首を縦に振った。もどかしくて、手に込めた力がアルミ缶を簡単にへこませた。
「財前さん、何科にかかってらっしゃるんですか?」
「……どこも悪いことないけど、毎週ちょっとずつ検査せなあかことがあるねん」
「どうして?」
「……俺が山奥でずっと寝てたから」
意味がわからん、って顔をしたけど、そんなん当たり前や。俺もなんでこんなことになったか、もうよくわかってない。
『コールド・スリープ』を経験した俺は、誰にもその事実を言うたらあかんことになってる。そういう条件で俺は彼女の延命治療を続けるために眠ったんやから。せやから、たとえ顔が彼女そっくりのみょうじさんにも言われへん。研究員の奴らは終始、検査という名目で俺のことを見張っているらしい。
「財前さん。何かあったんですか」
「えっ?」
「なんだかいつもつらそうで、心配していたんです。こんな見知らぬ私に話すのって嫌だと思うんですけど、知らないからこそ聞けるというか。お話したいことがあったら遠慮なくお話してください」
真顔でそんなことを言う彼女にたじろいだ。もうどうなってもええから、みょうじさんにすべてを話したくなった。せやけど、悪趣味な研究員が俺の反応を見るために顔のそっくりな彼女を目の前に送って来ているとも限らへん。そう考えると、気が狂いそうになる。何を信じればええのか、わからへんようになる。
こういうとき、俺は作り笑顔が役に立つことを知っていた。60年前かて、俺はずっとそうやって過ごしてきたんやから。腹立つバイト先の先輩にも、保険会社までの道のりも、俺の顔を見えてないあいつの前でも、俺は常に作った笑顔でおったはずや。
俺ならできる。笑わな、あかん。
「別に。俺、いっつもこんなんやし」
ずっとやってきたことやのになんでやろ。強がりの言葉を言うたびに、心のどっかが痛い。
「ならよかった!私でよかったらいつでも話してくださいね」
「ああ、おおきに」
「あ。次のバスが来ちゃう。私、そろそろ帰ります!」
髪をかきあげて立ち上がる。髪の端が西日に透けて、キラキラ光っていた。
何か言いたいのに、言葉が見つからん。帰って欲しくない。ほんまはひとりになりたくない。いつのまにか震えはじめていた指先は、はじめて会ったときのように再び腕を握る余力もなかった。
しかし、みょうじさんは帰るどころか、一度しゃがみ込んで俺の顔を覗き込んだ。傾ける顔。震える指先を掴む彼女の左手。一瞬だけその薬指に指輪が見えたけど、それは西日が光ってみせた幻やった。
「明日も、明後日も、来ますから」
「……」
「今日はゆっくり寝てください。おやすみなさい」
ちょっと早いですかね、と舌を出した。その顔は懐かしかった。
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