05,
それから60年もの間、俺は眠り続けた。夢も見んと、ただ目を閉じた暗闇の中でひたすらそのときを待った。起きたとき、何もかも忘れてたらええなと思っていた。喧嘩したことも、彼女が事故に遭ったことも、むしろ生まれた時点からすべてをやり直したいとさえ願った。けれど、再び視界が明るくなって白衣の人間たちに拍手で迎えられたとき、そんなことは無茶な願いやったと一瞬のうちに悟った。広がる世界はすべて変わったように見えて、俺自身の中身は何ひとつ変わってへんかった。
◇
電子カタログの中から飲料をタッチして選ぶと、ガコン、と勢いよく排出される赤いアルミ缶。思わず感嘆の声を出すと、買い方を教えてくれた担当医に笑われた。どうやら反応が田舎者そのもので、面白かったんやろう。一気に自分が恥ずかしくなった。
「今じゃこのタイプの自動販売機も珍しくなくなりましたよ。財前さん、よっぽど田舎に住んでたんですね」
「山奥です。ずっと寝てました」
「あはは、違いないね」
渡されたコーラを受け取って簡単に礼を言うと、じゃあまた来週、と担当医は俺から離れていった。「山奥の田舎で過ごした財前光」という設定を聞いたとき正直無理あるやろと思っとったけど、どうやらあの反応を見る限り、ちゃんと演じられているらしい。
眠ったまま過ごした60年間。起床後もなお身体は20歳のまま、特に異常なし。まるでそんな時間があったことやなんてウソみたいに思える。けど、周りをとりまく環境は、何事も受け入れがたい性格の俺を信じさせるほどの説得性を持って迫ってきた。あの研究員の男は十何年も前に死に、研究室も様変わりするほど巨大な組織になり、街も人も見たことないものになって。
――俺だけが、何も変わってない。
俺が『コールド・スリープ』を経験した検体であるということは、研究に携わっている人間以外はほとんど知らんらしかった。そういう異質な経験をしたことを、契約上、他言はできへん。「山奥の田舎で過ごした財前光」は、この病院で診察を受けている一人の患者としてしか見られたらあかん。さっきの担当医も、他の人も、みんなそう。
街は変わってしまったものと変わらないものが混在していて、なかなか慣れるまで時間がかかった。コーラのひとつとってみても、味は変わらんのに、自動販売機の仕様が変わってしまえばまともに買い方もわからへん。そういうことがいくつもあって苦労するものの、でも、別に大したことじゃなかった。
ただ思い出すのは。あいつがどうやって一生を過ごしたか、あるいは今も生きてるんか。ただ、それだけを癖みたいに考えてしまう。
一番、大きく変わってしまっていたことがあった。それは、彼女が入院していた病院が、60年の間に跡形もなく消えてしまっていたことやった。
最初こそ、今までの20年間をぜんぶ忘れて新しい人生をやり直そうと思った。彼女どころか病院もなくなってしまった今では、どうなっているのか探りようがない。だから、無理矢理にでもこれからの人生は自分のために生きよう。そう決めてはじめこそ歩き出した。
せやのに、自分の化石みたいな銀行口座を見たとき、前向きな思いは無惨にも断ち切られた。60年前、0が無限に立ち並ぶような額が振り込まれた後、預金はまったくの手つかずやったからや。毎月26日、あいつが死ぬまで永久に自動引き落としされるようにしていたはずやのに、1ヶ月分も減ってへん預金が怖かった。もしかすると、俺が眠りについたあと、すぐに死んだんちゃうかとか。あるいは、延命を断ち切られたんちゃうかとか。そう思うと気になって、彼女という存在を忘れることはできそうにもなかった。
普通なら、人は喪失を時間で埋めることができると言う。たとえば、大切な人が死んでも時間をかければ次第に受け入れられるっちゅうこと。それは人によって、多くの時間を必要とする人もおれば、短時間で立ち直る人もいてる。けれど、俺はその段階から抜け出して、時間だけ経過させるというズルをしたせいで、何も受け入れられていない20歳の俺のまま、60年を無駄に過ごしたということになる。そう考えると、『コールド・スリープ』という選択自体が、とたんに無意味に思えてくる。
あらゆる方法を使って、彼女がどうなったかを調べることに専念した。病院がなくなった経緯、周辺への聞き込み。けれど彼女の今を示す手がかりは、何も出てこうへん。
起きているのに、悪夢を見ているみたいやった。ただの景色の節々に彼女を思い出して、そのたびに死にたくなる。60年前も後も変わらへん。結局、時間は何も解決してくれない。
病院の中庭に設置されたベンチに座ってコーラを飲みながら、しばらく太陽の光を浴びた。細胞のひとつひとつが溶けていくみたいに、指先まで熱が通ってくる。
あの薬指にも再び熱は灯ったんやろうか。そう考えて、腰を掛けたまましばらく、眠った。
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