04,
茶色い封筒をポストに投函し、保険会社の前を通り過ぎて銀行に寄った。―いらっしゃいませ、ご希望のお取り引きを押してください― ATMが喚いてうるさいから、すぐさま通帳記入のボタンを押す。通帳が吸い込まれて再び吐き出されるまで10秒もかからへんかったのに、新たに記載された数字はたったの10秒で到底理解できる額じゃなかった。
あの男は1ヶ月分の給料って言うたのに、それの3倍近い額が病院から振り込まれていた。哀れまれた。そう思うと途端に腹立たしくなる。でも、ほんまはそんなこと、どうでもええ。
全額を下ろして財布に詰め込んだ。ぱつぱつに詰まった財布に感覚が麻痺しそうになる。俺が3ヶ月散々こき使われてやっと手にした給料分を、あいつらは一瞬で振り込めるほどの財力があるんやと、その無常さを実感する重さやった。
無気力のまま病院に向かう。その前に、ハイブランドの店が建ち並ぶ繁華街に寄って、誰もが知るような宝石店に寄った。スニーカーにジーンズで入って来た若い俺を、誰もが場違いの目で見てる。けど、あいつ以外の人間の視線なんて興味がない。ガラスケースに並ぶ煌びやかなネックレスや指輪を一通り見て回った後、店員を呼んでひとつを指差した。
「この指輪ください。9号です」
◇
「なあ聞いて!お店で薬指のサイズ計ってもらってん。9号やってんで!」
下校途中に彼女が突然思い出したように、耳を劈くようなキンキンする声で言うた。俺に見せつけるように左手の甲を向けてニヤリと笑う。その薬指を見て、こいつ細い指してんなー、とか呑気に考えていた。
「へー」
「友達の彼氏がな、誕生日に名前入りのペアリング贈ってくれたらしいねん。で、あんたも計ってもらいーやって言われて…」
「お前、ペアリングとか欲しいん?」
「欲しい!だって、おそろいってだけでも嬉しいのにペアリングやで?光はそういうの持ちたいとか思わへんの?」
「別にええわ。テニスするとき邪魔になりそやし、それに他の奴にごちゃごちゃ言われるやん。……そういうの、なんか面倒いし」
「面倒いって……」
担いでいたテニスバックを軽く背負い直す。この頃、俺はテニス部を引退した元部長として後輩の指導に忙しかった。遠山が仕切るはずの新体制が思ったよりもグズグズやったからや。
それにくわえて、俺は彼女のことを大切に思う気持ちがどこか欠けていた。めっちゃ好きやったし、失くしたら困るってわかってる。やのに、大事にできていなかった。
「光って、いっつもそうやんな。あんまり私と付き合ってても楽しくないみたい」
「何やねん、急に。俺、いっつもこんな感じやん」
「ずっと我慢してたねん。けどもう限界。ムカつく」
むっとする彼女は膨れっ面のまま拗ね始める。その態度がイラついて仕方なかったから、舌打ちして、何も考えずに嫌なことを言ってしまった。
「そっちこそ、そうやってすぐキレるやん。みっともな」
「何よ!今日という今日はもう許さへん!帰る!」
「おー、帰れ帰れ。寂しくなっても二度と顔見せんなよ」
「その言葉、そのまま返したるわ!」
いーっと歯をむき出しにして悪態をつく彼女は、くるりと反対を向いて走り去って行った。どうせただの痴話喧嘩やってわかってる。明日にはたぶん元通りに話しかけてくるねん。あいつはそう奴やねん。
そう信じていたのに、彼女はそれ以来、ずっと眠り続けている。
◇
冷夏のために気温はあがらず、病室内の冷房は寒いくらいやった。俺は点滴が刺されたままになってる彼女の左手を布団から出して、握る。血は通っていないみたいに冷たい。自分の意思で何もさわることもない細い指先は、作り物みたいに綺麗やった。けれど確実に、与えられている点滴を養分にして身体は少し大人になっている。目の前にいるのは、15歳で時が止まったままの、20歳の彼女やった。
「この前の話やけど。俺、決めたで」
指先を絡ませたり、解いたりしてもて遊ぶ。
「7月20日…俺のハタチの誕生日から、お前みたいに眠ることにしたから」
「60年なんて寝とったらすぐ経つやろ。細胞は死なんから、60年経っても20歳の身体のままらしいで。うらやましい?」
「80歳になって、よぼよぼのババァになったお前のこと鼻で笑ったるわ」
反応はない、やろ。わかってる。5年間、これはただの独り言やねん。
「なあ、」
息をたっぷりと吸い込んで、ゆっくりと、静かに吐き出した。ただの独り言に緊張するやなんておかしいけど、俺はこの最後の瞬間にかけてみたかった。
「事前検査があるからもう明日から病室に来られへんねん。最後やねん。だから、最後に目開けてや」
「お前が今、起きて『今までの全部ウソでした』って言うてくれたら、俺、あの研究室の奴らんとこ行って断ってくるから」
「頼むから。なあ、お願い。目、開けて」
ぎゅっと握った指先が鬱血して、血が通っていることを教えてる。なのに、一向に熱は灯らへん。その指先たちに、雨水のような涙がとめどなく落ちた。
「……神様っ…!」
本当はわかってる。神様なんて、この世には存在しない。
濡れた薬指に買ったばかりの、俺の名前が刻まれたプラチナの指輪をはめた。ペアではないけど、これから長い時間を眠る俺には必要なかった。そんなものなくても思い出は一生覚えていられる。60年経っても、絶対に覚えてる。でも、彼女にはその確証はない。起きたときに俺のことを忘れている可能性だってある。そんなとき、自分のしわだらけの薬指を見て、俺のことを少しでも思い出してくれたらそれでいい。それで、俺がここにおった証になる。
みっともないから、荒々しく涙を拭く。そして、握っていた指を名残惜しくも手放した。
「おやすみ」
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