03,
男に連れて来られた研究室では、他にも白衣を着た数名の男女が忙しなく働いていた。薬品の匂いや、意味のわからん機械、実験体の動物の鳴き声。気味の悪い感じがひしひしと伝わってくる。俺は革張りのソファに座らされて、ここでお待ちください、という指示通りに大人しく待つことにした。これから俺も、あの動物たちみたいに実験体にされるんやろか。
男がさっき指定してきた金額を思い出して、身体が小刻みに震えとった。2億。2億あったら、あいつはきっと半永久的に、目を覚ますまで延命治療が受けられるやろう。あいつの命が俺の手にかかっているという点で、ここにいる人間と俺は、同じ立場のように感じた。
「お待たせしました」
女が俺の前に高級なカップとソーサーを置いて行くのと同時に、スーツから白衣に着替えた男が帰ってきた。手には大量の資料を抱えており、それらをバサバサと机に広げ始める。難しい単語が並んどって、ぱっと見ただけでは何も理解できへんかった。
まずはこの資料を。そう言って差し出してきた書類はA4の冊子やった。表紙にはカタカナで『コールド・スリープ』。やっぱり、よくわからへん。
「我々は生物工学を研究しており、その成果あってまったく新しい人体保存法を開発したのです。それがこの『コールド・スリープ』であり、最近はメディアの討論番組でも取りざたされました。ご存知ですか?」
「いや」
「では、ご説明します。コールド・スリープとは人間が耐えうる極限の低体温状況下で、肉体を完全のまま保存することです」
男はハキハキとした声で俺に話を始めた。
コールド・スリープとは、人間の身体を低温状態において、その状態のままある一定期間のあいだ保存、後に解凍するものらしい。イメージ的には冷凍食品と同じやと話した。この技術を応用して、不治の病を患った人間を治療法が開発されるまで保存。未来への希望を託したり、あるいは長時間の移動が予想される宇宙開発で、移動中の食料などの削減やその他燃費の削減などのために使おうという計画らしい。どこかで観たSF映画の世界が、もう実際に用いられる段階まで来たのだと男は息巻いた。
「すでに動物実験において一定の成功が見られたのですが……疑問点があるのです」
「疑問点……?」
「まず、長期間の応用が可能かどうか。そして、人体への影響はどうか」
部屋が静まり返った。白衣を着た研究員の全員がいつのまにかこっちの様子をうかがっている。なのに誰も核心を言うつもりはないらしく、まどろっこしくなって、俺のほうから質問をぶつけた。
「つまり、俺がその実験体に、ってことですか」
眉を下げて申し訳なさそうな顔をする男は、コーヒーに口をつけて再び言葉を発するまでに時間をかけた。その表情で、俺は男が核心を否定する気がないことを察した。
「可能であれば、60年の長いスパンでの計画を考えています。その場合、最低でも2億はお支払いしますし、起床後の生活も保障します」
「60年……」
「ただし、いくつか条件があります。それがこちらの契約書になります」
クリアファイルから出された薄い転写式の用紙には、しっかりと『契約書』と印字されていた。俺はその条件を、食い入るように読む。小難しく書かれとったけど、重要なのは5つだけみたいやった。
"契約するにあたり『コールド・スリープ』について他言してはいけない。"
"睡眠中に起きた災害や紛争において、また、意図しないかたちで生命維持装置が断たれた場合はその命を保証できない。"
"睡眠中、いかなる場面においても途中で目覚めさせることはできない。"
"起床後の身体の不具合は理論上0に等しいが、もしもの場合は実験の経過過程として判断する。"
"起床後は当院の検査に協力すること。"
「今はまだ、すぐに結論を出せないと思います。1ヶ月猶予を与えますので、じっくり考えてください。本日はお約束通り、即刻あなたの口座に今月の給料分と同じ額をお振り込みします。くれぐれも他言無用のプロジェクトですので、人に話されぬようお願いします」
事務的に言われた言葉はなぜか心に突き刺さってきた。それは、まるで実験体にならなければ興味はないというような言い方やったからやと気付く。そんなこと当たり前やのに。
何か質問はありますか、と尋ねられて思わずうつむく。コーヒーの水面に自分の絶望した顔が映っとった。こんな顔じゃ、今から保険会社にも行かれへん。
「なんで…俺やったんですか」
絞り出した声は擦れて、力がない。そんな俺にとどめをさすように、男は容赦なく言う。
「あえて冷たい言い方をしましょう」
「……」
「あなたが拒否すれば、次の候補が控えています」
◇
契約書だけを持って、彼女の病室に行った。花屋にも寄れへんかったし、そんな気分でももうなくなっていた。生命維持装置を傍らにおいて、彼女はいつも通り、眠ったまま動かない。いつ起きるかわからない奇跡を今日もまた、じっと待っている。
延命措置が断たれるかもしれへん状況と、60年という自分の時間を2億で売ること。天秤がどちらを掲げるかなんて、ほんまは、あの研究室にいてるときからわかっとった。
「なあ。どうしたらええと思う?」
冷たい頬にふれてみるが、いつも通り反応はない。もうあの日々のように笑ってくれない。わかってるけど、受け入れられない。
「答えてくれるわけ、ないやんな」
テーブルに置いた契約書の上にはボールペンが転がっている。結局、答えは自分の中にしかない。
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